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弘前大学文京キャンパス内。
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故加藤謙一氏は、青森県立弘前中学校(現県立弘前高等学校)を経て、大正5年(1916)に青森県師範学校(現弘前大学教育学部)に入学。大正6年に同校を卒業し、市内の富田尋常小学校(現弘前市立大成小学校)に奉職。その後、職を辞して上京。大正10年に講談社に入社。戦前から戦後にかけて「少年倶楽部」、「野球少年」、「漫画少年」など少年雑誌の編集に一生を捧げ、手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二夫、石ノ森章太郎、松本零士などの戦後を代表する漫画家を育て、今日の漫画文化の礎を築き、名編集長と謳われた人物。
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平成22年(2010)9月7日、加藤氏の業績をたたえ、本学附属図書館2階に「加藤謙一文庫」の開設並びに附属図書館玄関右手に「加藤謙一記念碑」が建立されました。加藤謙一文庫には、加藤氏のご子息、加藤丈夫氏から寄贈頂いた多数の蔵書、附属図書館で収集した「少年倶楽部」、「野球少年」、「漫画少年」の原本又は復刻版及び加藤氏が育てた著名な漫画家の関連資料などが並べられています。
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記念碑には加藤氏が編集者を志す原点となった富田尋常小学校の学級誌「なかよし」の文字と、「子どもは国の宝だ 子どもたちを明るく健やかに育てる仕事に身を捧げたい」という終生揺らぐことがなかった加藤氏の信念が碑文として刻まれています。
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「なかよし」の由来…『加藤謙一氏は、1896年、青森県弘前市に生まれた。青森県立弘前中学校(現青森県立弘前高等学校)を経て青森県師範学校(現弘前大学教育学部)に入学。1917年に同校を卒業し、市内の富田尋常小学校(現弘前市立大成小学校)に奉職した。在職中に作った学級誌「なかよし」を生徒たちが喜ぶのを見て「この喜びを全国の子どもたちに広めたい」との思いが強まり、職を辞して上京。講談社に入社し、25歳で「少年倶楽部」編集長に就任した。編集長を務めた当時の「少年倶楽部」は、郷土の先輩である佐藤紅緑をはじめ吉川英治、大仏次郎などの小説や田河水泡の漫画などが誌面を飾った。その後、「講談社の絵本」の編集長に転じ、1945年、講談社取締役に就任したが、太平洋戦争の終結に伴い退社。戦後は雑誌「野球少年」の企画に携わった後、1948年、自ら学童社を興し、雑誌「漫画少年」を創刊した。同誌において、新人の発掘と育成に力を入れ、手塚治虫をはじめ、寺田ヒロオ、藤子不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、松本零士など日本を代表する漫画家たちを世に送り出した。「漫画少年」の終刊後、講談社に顧問として復帰し、1975年、病没。享年79歳。加藤氏は編集者として多くの作家や画家、漫画家を育てたが、活動の原点は富田尋常小学校の学級誌「なかよし」であった。その頃に抱いた「子どもは国の宝だ。子どもたちを明るく健やかに育てる仕事に身を捧げたい」という信念は生涯揺るぐことがなかった。2010年9月弘前大学』
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