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北津軽郡中泊町大字小泊。小泊港の神明宮から東北自然歩道(権現崎遊歩道)を歩きます。旧大湊海軍警備府小泊防備衛所跡まで行きたいのですが、出発が遅かったので行けるところまで行ってみます。
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山手コース(約5.6km・120分徒歩)と海岸コース(約4km・100分徒歩)の2種類がありますが、相も変わらずネイビーな私は海岸コースへ。今回はノードリンクではありません。
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まずはこちらをご覧頂きたい。
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順調に進みます。ドリンクもあるので安心です。
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5.5
小泊半島について…『北津軽郡旧小泊村にある枝岬。昭和50年3月31日指定された津軽国定公園の内。津軽半島の中央よりやや北寄りで日本海に向かって約4.5km突出し、その先端部が権現崎。基部には下前・小泊の2集落があり漁港となっています。先端部の標高229.7mの尾崎山を最高峰に200m前後の山地が脊梁をなします。権現崎から北部海岸一帯は断崖となり、海食洞・顕岩・岩礁などが海岸美を形成。突端には古生代石炭紀後期の粘板岩・珪岩・石灰岩からなる小泊岬層が見られ、これに不整合の形で新生代新第三紀の凝灰岩や流紋岩・安山岩などの岩石が重なります。小泊漁港から西に至る半島北部海岸には弁天崎・経聞島・猿橋岩門・姥島・黒島・羅漢石・拝み石など数多くの名所があるほか、安東氏の城とされる柴崎城址があります。遊歩道も整備されており、夏季には海水浴や磯遊びに多くの観光客が集まります。』※遊歩道には疑問符が付きます。
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6.5
小泊港について…『津軽半島の北西、権現崎の北の付け根に位置し日本海に面します。古くから松前(北海道)への風待ち港として利用され、天和・寛永年間の巡見使松前渡海は小泊を経由して行われたといいます。寛文4年には沖横目が置かれています。「慶安2年道筋帳」には「小泊之間」とみえ、「間口四方五十間宛、深さ三尋四間、西南風舟かゝり吉、自是松前へ海上八里、東風ニて渡ル」と記されます。また、承応2年の「津軽領道程帳」には「五百石、七百石積之荷船五、七艘程入申候」とあります。「国誌」には「長秋の際船舶出入し、出港には米穀酒醤、入港には干魚油砂糖荒物等にて商客輻輳し、港内家数二百八十四軒、神廟三座梵字四院あって市街繁昌なり、澗二所にあり、一を水(みつ)の澗と云ふ、本村の両五丁にあり、長一丁二十間、幅八間、水の深八尺、水門西に向ひ二百余以下船十五艘を碇すへし、二は大澗と云ふ、水の澗の西五丁にあり、長一丁四十間、幅二丁三十間、水の深さ六間、水門は丑に向ひ大小船舶二十五隻を繋くへし」と記され、北前船の寄航地として繁栄した様子がうかがえます。権現崎の先端には尾崎権現が祀られ、船乗りらの信仰を集めています。「津軽の民俗」によりますと、小泊港に入った弁財船は、船中一同が絵馬や神酒をもって尾崎権現に参拝するのが慣例であり、権現崎沖を通過する時には、帆を下ろし、権現様に供えた酒と船霊様に捧げておいたものを頂きながら通過したといいます。小泊港は北西の風には都合が悪いのですが、権現崎の南の付け根にある下前港はその風を防ぐことができ、小泊港の補助港としての役割を果たしています。下前は小浜の澗とも称され、天然の良港でしたが、昔、崖崩れによってこの天然の澗が埋まり、港勢を失ったとの伝承が残されています。現在は小泊港と下前港を合わせて、小泊漁港として避難港の性格をもつ第4種漁港に指定され、日本海におけるイカ漁の中心地となっています。』
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7.5
大澗海岸の洞窟に祀られている恵比寿宮です。漁師の神・海運守護・商売繁盛の神として根強い漁師信仰の一つ。御神体は鯛を抱いた石の恵比寿様。明治15年に画人簑虫山人が小泊の秋元全四郎方に滞在中にお参りしてスケッチしています。
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以前は橋が架かっていたようですが崩れていました。
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岩門付近を歩いております。
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大澗海水浴場と弁天崎が見えてきます。弁天宮については省略致します。以前の記事を参照下さい。阿曽内から弁天島を挟んだ東側の内湾、大澗は北前船(弁財船)の寄港地として利用されました。湾内には、岩礁を繰り抜いた舫岩が点在しますが、これはかつて入湊した船から綱を体に巻きつけた赤褌姿の水主が飛び込み、貫穴に通した綱を引いて接岸し係留したものだといいます。船乗りたちは停泊した船から伝馬船に乗り換えて上陸し、弁天島や飛龍大権現(神明宮)に航海安全の参拝をしたのち、東側に位置する町屋へ繰り出しました。町屋には、目付役人が駐在する勤番所や湊番所が置かれ、津軽海峡を行き交う旅人ほか弘前藩の城米や木材、諸国物産などの移出入に目を光らせていました。
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この辺の遊歩道はしっかりしていますね。いや、この辺だけがしっかりしていますね。
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岩門。神明宮へと登る道。
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弁天崎は一周できるのですが前回の反省を踏まえて一周はせずに途中で戻ります。でも前回早々に心を折られた「完全に横木が足りない恐怖のハシゴ」がどうなっているのか気になったので反対側から見に行ってみました。
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((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
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辛うじて架かっています…
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16.5
ハシゴの下はこんな感じ。
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高所恐怖症の私がこんな橋を渡れたなんて信じられません。
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先へ進みましょう。
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ここから先の遊歩道はほぼ完全崩壊。
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足元の石はとても綺麗ですが…
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ゴミも多いです。しかも読めないゴミが多いです。
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柴崎城跡方面への抜け道は完全に通れない状況になっていました。山への逃げ道はありません。
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弁天崎を振り返るの図。
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「完全に横木が足りない恐怖のハシゴ」をズーム!
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25.5
再び前を見たら「これ以上はやめておけ!」と言わんばかりに遊歩道上に落石。
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もちろん進みます。
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どうせこの先も遊歩道がこんな感じなのは以前学びましたし。
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もはやただのベンチ。
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ここで小泊村の説明をちょっと。興味ない方はスルーして下さい。
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津軽半島の北西端に位置。地内の大部分は山地で、ヒバの自然林に覆われた中山山地を背にします。平地は南部の小泊川流域のみ。南西には景勝地小泊岬(権現崎)。地名は「大泊」に対して「奥の港」を意味するといいます。また、昔は当地の老人が「ぼん泊」と呼んでいたと伝え、アイヌ語のボン・トマリ(小さい・泊地)によるという説もあります。縄文時代の遺跡は小泊湾を望む丘陵上に6ヶ所と字下前に権現崎遺跡が発見され、その他縄文時代から平安期にわたる折戸遺跡(字折戸)は、縄文時代の土器片、弥生後期の土器、平安期の土師器・須恵器・製塩土器・鉄滓などを出土。弁天島遺跡は小泊港西方の弁天崎にあり、元は島でした。ここから中世の陶磁器が出土。この遺跡の南丘陵上の柴鼻にある柴崎城(現明神宮)は安東氏が拠った城といわれ、この付近から青磁が発見。永享4年説もありますが、嘉吉3年12月南部義政に攻められた安東盛季は柴崎城を捨て小泊から松前へ逃れたといいます。権現崎(小泊岬)は熊野権現に因んだ名で、この付近に熊野権現があったといいます。安東氏退転の後、南部氏が天正年間に至るまで支配したと考えられています。
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江戸期から明治22年の小泊村は、はじめ津軽郡鼻和庄、のち田舎庄のうち。弘前藩領。村高は「正保高帳」51石余(うち田48石余)。「貞享郷村帳」では寛文4年以降の改新田として村名が見え429石余、「貞享4年検地水帳」181石余(田167石余・畑屋敷14石余)、「寛保高辻帳」429石余、「天保郷帳」229石余、「旧高旧領」236石余。小泊は江戸期を通じて弘前藩の城米積出し、諸国物産の移出入が行われる港湾として重きをなしました。弘前藩では寛文5年3月、小泊沖横目所に津出荷物・間役・面役銀取立てなどについての訓命を出して、出入船の監督を命じています。また、「貞享4年検地水帳」によりますと、村内に湊番所(現正行寺付近)と遠見番所(現稲荷山)が各1ヶ所ずつありました。港湾の施設としては水の澗と称する船舶を15艘ほど収容する澗と、大澗と称する25艘ほどが入る澗の2ヶ所があり、この他、柴鼻にある弁天島の入江が船着場であったといわれ、海中に船留めの岩穴が現存しているそうです。また、正保2年の津軽郡之絵図には「此間より松前へ八里、東風にて渡、同たつひへ三里、同あしか沢へ七里」とあり、小泊が松前地方との交易港でもあったことがわかります。寛文9年蝦夷でシャクシャインの乱が起こり、弘前藩は鎮圧のため出兵しますが、この際に調べられた「御領分狄の覚」の中に、「小泊村いそたいいぬ、同村弥蔵、小泊村弥蔵、同村茂十郎」と見えます。「貞享4年検地水帳」によりますと、小字に「やま口・あさま・さめかへ・浜の・なりたき・つきあけ・浪打」があり、反別は田25町3反余・畑屋敷4町4反余。なお、田は上田~下々田まで、畑は中畑~下々畑まで設定されており、このほか漆林5反歩、漆木334本、塩竈19ヶ所などがあります。沿岸部では製塩業が盛んであったことがわかります。当村は羽州街道の銀村(現浪岡町)と葛野村(現藤崎町)の両村をそれぞれ分岐点とする下之切通(山根通・小泊通)の終点にあたり、集落は小泊川下流域から湾に沿って発達。元禄3年には鼻和庄藤代組に属し村位は下。享保12年に唐皮・磯松・脇本の各村とともに当村は藤代組から金木組に変わりました。伊能忠敬の「測量日記」によりますと、享和2年の小泊の家数は197軒。また、松浦武四郎「東奥沿海日誌」では嘉永3年の家数は300軒となっています。文化4年西蝦夷地の幕領化にともなって、弘前藩はその警備を命ぜられ、あわせて沿岸警備のため、翌5年領内の三厩・竜浜(竜飛)・小泊・袰月に台場を設けています。現在の構座の地にあたります。吉田松陰の「東北遊日記」によりますと、松陰は嘉永5年3月5日当地を訪れており、台場について「出駅沿岸而過砲台下、安砲二坐、以板屋掩之、不得詳砲長口径」と記しています。この時松陰は海岸沿いに北上し、傾り石から算用師峠を越えて三厩村へ達しています。その間約6kmの山道は昭和53年に「みちのく松陰道」と命名されています。なお、江戸期に三厩村との間の交通は、険阻な山道よりも、距離は長いけど船で竜飛崎を回る海路の方が一般に利用されたようです。神社は小泊岬(権現崎)先端尾崎山上にある飛竜大権現を御祭神とした飛竜神社(明治初年尾崎神社と改称)、柴鼻の柴崎城跡にある神明宮、下前の熊野宮があります。寺院には、元和3年弘前勝岳院3世春洞の草創という字砂山にある曹洞宗小泊山春洞寺、元禄10年創立あるいは宝永8年演空の開基という字小泊の真宗大谷派思柳山西願寺、もと飯詰村にあり寛永13年当村の字小泊に移転され、宝永3年日了によって再興されたという日蓮宗法広山正行寺、同じく字小泊にあり元和3年良無の開山あるいは万治元年良無玄道の開基といい、境内に聖観音像を御本尊とする観音堂(元は神明宮内にあったもので津軽三十三観音の第18番札所)のある浄土宗無縁山(蓮門精舎旧詞では小泊山)海満寺があります。明治24年の戸数347・人口2,693、廐23、学校2、水車1、船330。同42年の戸数587・人口3,875。下前の浄土宗光成院は明治32年東京から現在地へ移転したといわれ、権現山と号し、御本尊は阿弥陀如来。昭和22年小泊中学校が小泊小学校に併置開校。生徒数224。同26年下前中学校が下前小学校に併置開校し、同44年校舎はそのままで小泊中学校へ併合。同45年新校舎落成し、翌年両校が実質上統合。昭和29年金木高校小泊分校(定時制)が小泊中学校へ併設開校、同46年独立校舎。
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出ました。前回心を折られた「リポビタンDの崖」。
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33.5
ファイトー!イッパーツ!
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ってことで、頼りない縄を頼りに上りました。
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何度も心を折られると信用できなくなる橋。
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橋からの眺望。歩いてきた道です。
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この辺で引き返そうと思い、山手コースへ行こうとしたのですが…
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やはり山への逃げ道は無いようです。心を折られました。
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ってことでもう少し先へと進みます。
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北灯台が遠すぎる…旧海軍要塞跡に行くには下前からの山手コースがいいですね。
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遠くに階段が見えました。私の記憶が確かならば、あそこからも山手コースに行けるはず。
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ってことで階段まで行くことにしました。
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ひたすら石の上を歩きます。
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階段手前。
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赤い旗がありました。赤い旗には「レースの中断及び途中打ち切りを示す」という意味もあります。今の私に必要なものです。
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旗には「第八仁栄丸小泊港」とありました。
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さて、階段を上り山手コースへと抜け、今回のレースは終了したいと思います。
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これは…
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前回心を折られた裏返し看板。既に通って来た道に対して「これより先は通行しないで下さい。」と書かれている「恐怖の手遅れ的注意書き看板」です。
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海食海岸の看板もあります。『長い年月の間に、岩石の割れ目や柔らかい部分が波に浸食され削られてできた海岸を「海食海岸」といいます。このような海岸は、権現崎(小泊崎)には多数みられます。』
…でしょうね。
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ちなみに階段を登らずに先に少しだけ進むと…
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遠くに姥石が見えます。
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これまでよりは歩きやすい感じですが時間の都合上、今回はここまでです。前回見逃したであろう土漂ヶ浜の小高い所にあるという山海神(春のイカ網漁などで番屋に住む漁師たちが海上安全と大漁を祈願する)の石碑も見たかったけど、それ以上にブタの尻を拝むと心が折れるので。
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階段ができる前の昔の遊歩道はこのような状態です…
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((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
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反対側から…
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さて、天気も良いですし、
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この辺で北海道や龍飛崎などの眺望を楽しみながら、
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59.5
今朝作ってきたおにぎりを食べて帰ります。
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何だろう?…と思ってズームしたら「CHINA SHIPPING LINE」と見えました(下の写真です)。でかっ!!島かと思いました。
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果たして私が旧大湊海軍警備府小泊防備衛所跡まで辿り着く日は来るのでしょうか。
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ってことで階段を上って山手コースへと抜けようとしたら、途中で完全に逃げ道を塞がれました((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
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素直に来た道を戻ります…。
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今回も心を折られた私は帰りにしじみソフト(十三湖産高級しじみパウダー使用)を食べて帰りました。
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