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秋田県鹿角市花輪上花輪。谷地田町地区。曹洞宗鳳林山長年寺。鹿角三十三観音霊場六番札所。花輪南部氏の菩提寺。開基は九戸政実の舎弟康実。
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中野氏(文政元年以降南部氏と称す)の菩提寺として、延宝2年同氏の花輪入部とともに、もと長福寺城に建立。加賀国金沢龍光山宗徳寺末、開山は宗徳寺四世大陰恵全、文亀2年九戸郡に長興寺を創建したのに始まります。
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曹洞宗鳳林山長年寺…『當山は南部御三家、花輪南部(中野)氏の香華院として建立されたもので、歴代の當主采地を転ずるに随い寺もその処を移し号を替え今日に歴史を伝えるものである。足利幕府の時代、加賀宗徳寺四世大陰慧全禅師、衆生済度の為奥州九戸に到り、郡守九戸家の篤い帰依を蒙り、文亀2年(1502)九戸村に長興寺を開創、開山禅師となる。是が当山薙草の因縁、宗徳寺を本寺と為す由縁なり。天正19年(1591)五世岳翁林賀和尚の代、九戸家・南部家不和の間となり、九戸政實の乱が起こる。豊臣秀吉隷下中央軍の加勢を頂く南部軍の前に九戸城は落城、一族滅亡の悲劇となる。茲に九戸舎弟康實君、幼少より南部家に仕え采地を西中野・東中野に受けて中野吉兵衛康實を名のる。九戸の乱には、恩義に順じ兄政實公の暴挙を諌め開城に功を為す。後に南部公厚く是を賞するも康實君受けず。代わりに兄政實公の遺骸を請い長興寺に篤く葬る。又、林賀和尚を伴い長興寺を采地郡山に移して其の冥福を祈らんとするも、和尚是を辞し、代わりに弟子梅岩嶺雪長老を使わしむ。文禄2年(1593)六世梅岩嶺雪和尚を伴い寺を采地郡山に移し、号を長岩寺と改め、自ら開基となりて先祖霊供養の菩提処と為す。中野氏三代元康君、采地を彦部に受けるとき長徳寺を菩提処と為す。四代康敬君、南部藩鎮花輪城代となり、この時長岩寺・長徳寺の本尊仏・古法・経典・法器・開基康實君の位牌を花輪に移し、十世雨外楚雲和尚を請して延宝2年(1674)長年寺を建立す。爾来、花輪南部氏代々の香華院として尊崇を受け、又結縁の檀信、帰崇和睦の菩提寺として護持興隆、長興寺に始まる法灯は今日愈々増輝を見るものである。慶応四年啄堂川村秀光記「長年寺由来記」より。平成11年11月三十三世覚圓直行代拝建』
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本堂。地図上では本堂裏手に桃ノ木稲荷大明神と見えましたが行っておりません。墓所には戦前の司法大臣川村竹治氏(令夫人は東京目白川村女学院創立者)の墓などがあります。
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長年寺ではほぼ毎年、檀家有志で組織する祭典実行委員会により桃ノ木神社例大祭を開催されており、各種出店やジャズコンサート等も行われているようです。
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花輪南館の時鐘1口(鹿角市指定有形文化財(工芸))。
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この時鐘(釣鐘)は、長年寺の梵鐘として享保4年(1719)に歌代六左衛門清房によって鋳造されたものです。鋳造にあたって炉を長年寺境内に設け、鋳型に注ぎ込むときに町内の善男善女が多数集まり、金銀の簪、指環などを喜捨したため、この鐘は特に良く鳴り響くと伝えられています。明治6年(1873)太陽暦の採用にともない、当時の戸長大里寿は町民に時を告げるため、南館に鐘楼を設け、長年寺の釣鐘をここに移して、住吉神社別当黒澤嘉門に時鐘を打たせました。
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戦時中の金属供出によって供出されましたが、終戦後、大館の倉庫内で発見され、再び南館の時鐘として時を知らせていました。平成9年10月4日、長年寺の整備事業に合わせて寺に戻して現在に至っています。(高さ120cm、底部内径56cm、底部外径76.5cm)。
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寺務所。
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平和観音。
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関一閑翁之碑(大正15年4月川村竹治書)。
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子安地蔵菩薩像等。
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地蔵堂(六地蔵)。
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三界萬霊塔、川村俊平先生之碑、慰霊塔。
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鹿角郡中三十三所観世音巡拝塔(嘉永3庚戌年3月23日、三導師:長年23世文明老和尚、長福18世大継老和尚、恩徳17世大誾老和尚)。
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四國納経供養塔(明和4丁亥年5月20日)。
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花輪町真景図(大正5年)。
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