1
法泉寺(米沢市)』からの続き。
2
山形県米沢市西大通1丁目。法泉寺と住所が違いますが道路を挟んですぐ向かい側。道路を挟んで南の寺院及び墓地と、北の文殊堂及び庭園に分かれています。元はこの南北を隔てる道はありませんでした。
3
法泉寺庭園…『米沢三名園の1つで、2代藩主上杉定勝が九山和尚に諮り、京都天龍寺の名園を模して造ったと云われ、享保年間(1716-35)に、絵師として著名な藩士・小田切寒松軒が補修したという。歴代藩主も度々訪ね、上杉鷹山は明和7年(1770)に120余名の家臣を招き、この庭園で詩会を開催した。境内には直江兼続と九山和尚の詩碑、鷹山の詩会を記念した石碑などが建つ。昭和初期に境内を貫通する新道が切られ、庭園は縮小され池の水も涸れたが、齢を重ねた樹木や苔に覆われた庭は新たな趣をみせる。米沢市』
4
文殊堂参道の狛犬一対。
5
5.2
5.4
5.8
石灯篭一対。
6
6.5
開祖九山禪師詩碑「洗心詩偈」「法泉寺二十世貫主黒木克堂師題額」「妙香池畔碧苔深 只聴松風般若音 誰識苑中禅寂好 都來忘却世塵心」「昭和三十五年仲秋村田龍海書」。
7
案内板より…『「妙香の池畔碧苔深く只聴く松風般若の音誰か識らん苑中禪寂の好もしきを都来忘却す世塵の心」「この禪林寺の趣深い池の畔には、みどりの苔が深々と付き、耳にはただ松風の音と読経の声を聴くばかり。庭園の中に満ちた静寂な禪の境地の好もしさは、一般の人の知らないもので、ここに居ると、世俗の塵にまみれた心は、すべて忘れ去ってしまう。」。作者の九山禪師は、上杉氏の後援で足利学校に学んだ後、招かれて禪林寺(現・法泉寺)の開山となりました。直江兼続はわが蔵書を主体に、ここに禪林文庫を設け学問所としました。』
8
直江兼続詩碑「禪林偶成」「上杉隆憲公題額」「卓錫神祠霊地隣 講筵平日絶囂塵 禪林寺裏枝々雪 認作洛西花園春」「昭和三十五年仲秋村田龍海書」。
9
案内板より…『「錫を卓つ神祠霊地の隣に講筵平日囂塵を絶す禪林寺裏枝々の雪認めて洛西花園の春と作す」「九山和尚は神のいます聖域(白子神社)の隣という好位置に杖を留めて寺を開かれた。講義は常に行われ、かまびすしい俗塵を遮断した別天地をなしている。禪林寺境内の枝々の雪の、花のような美しさ。この素晴らしい眺めを、あの洛西花園の妙心寺の春景色に見たてたい。」元和4年(1618)、臨済宗妙心寺派の僧九山を開山として禪林寺(現・法泉寺)が開かれましたが、普請奉行を勤めた兼続が、創建間もない寺を訪れた時の喜びの詩です。』
10
手水舎。
11
先聖殿。法泉寺庭園の東にあります。先聖殿は孔子を祀っていました。4代藩主上杉綱憲の創建と伝えます。当初は「感麟殿」の名でしたが、後に上杉鷹山公により「先聖殿」と改称され、藩校興譲館の正面に置かれました。その後移転を繰り返して、昭和に入り法泉寺庭園内に移されました。
12
先聖殿(興譲館聖堂)…『上杉鷹山公は、天明5年(1785)先君上杉綱憲公が建てた学館を再興し、教学の刷新を図りました。恩師細井平洲は、この新たな米沢藩の藩黌を「興譲館」と命名しました。綱憲公(元禄10年)以来、学館の聖堂(孔子廟)を「感麟殿」と称してきましたが、鷹山公は特に崇敬を捧げられ、この聖堂を「先聖殿」と命名し、公自ら扁額を揮毫して奉納されました。この「先聖殿」は、元は興譲館の敷地内にありましたが、戦後の政教分離政策により、連合国軍総司令部の命令であやうく解体撤去させられるところを法泉寺20世克堂禪師のはからいで難を逃れ、当時の生徒たちの手によりこの地へコロを使って引いてきたものであります。』
13
上杉敏子夫人歌碑「法泉寺二十世貫主黒木克堂師題額」「日の恵みかがよう庭にいにしへの 君をしのぶと白梅の咲く としこ」「昭和三十八年初秋」。
14
上杉敏子夫人歌碑…『法泉院殿のありし昔の面影を偲ぶ歌で、その三百年忌を記念して建碑されました。法泉院殿は名を亀姫といい、米沢藩3代藩主上杉綱勝の姉、4代藩主綱憲の伯母にあたります。松平飛彈守利明に嫁ぎましたが、28歳で逝去、江戸の広徳寺に葬られました。その後、禪林寺に墓が建てられ、綱憲の命により元禄3年(1690)、寺号の禪林寺を現在の法泉寺に改められました。歌の作者は、上杉家16代当主隆憲氏の室敏子夫人で、徳川宗家17代家正氏の御息女です。』
15
石灯篭一対(平成22年10月・遠藤修一献燈)。
16
16.5
雲井龍雄詩碑…『送釋大俊師 上杉憲章公隷額「生當雄圖四海 死當芳聲傳千祀 非有功名遠超群 豈足喚為眞男子 俊師膽大而氣豪 憤世夙入祇林逃 雖有津梁無處布 難奈天下之滔々 惜君奇才抑塞不得逞 枉方其袍圓其頂 何事衣鉢僅潔身 不為塩梅調大鼎 天下之溺援可收 人生豈無得志秋 或至虎呑狼食王土割裂 八州之草任君馬蹄踐蹂 君今去向東海道 到處山河感多少 古城殘壘趙耶韓 勝敗有跡猶可討 參之水駿之山 英雄起處地形好 知君至此氣慨然 當悟大丈夫不可空老」昭和11年秋 海軍中將 上泉徳彌書』
17
雲井龍雄詩碑(案内板より)…『龍雄は幕末・維新期の米沢藩士で、憂国の士。漢詩人としても、才気あり熱血たぎる詩で著名です。旧薩摩藩士が牛耳る明治新政府の悪政を非難し、東京で不平士族を集めましたが、政府を倒す陰謀を企てたとして捕えられ、明治3年(1870)12月、27歳で刑死しました。釈大俊は龍雄の親友の僧で、事の発覚以前、郷里の尾張で同志を募るため、明治3年2月東京を出発、東海道を下りました。出発に際し龍雄が餞けに贈ったのがこの「釈大俊師を送る」の詩です。「生きては当に雄図四海を蓋うべく、死しては当に芳声千祀に伝うべし」に始まり、全篇、大俊の行を励ます詩句で満ちています。揮毫者上泉徳弥は米沢出身の提督です。』
18
文殊堂。
19
禅林寺(現法泉寺)の絶山和尚が学問所「禅林文庫」の鎮守として、慶安元年(1648)に切戸文殊(京都府宮津市)を勧請して創建したと伝えられています。
20
元禄2年には立派なお堂が建立されるも、寛政元年・大正6年と2度の火災に遭っており、現在の文殊堂は昭和5年に再建されたものです。
21
知恵の文殊として信仰され、元日や7月24日の例祭には多くの参拝者で賑わいます。
22
裏側。
23
文殊堂と聖堂…『文殊堂は禅林寺2世の絶山和尚が、慶安元年(1648)に学問所「禅林文庫」の鎮守として、切戸の文殊(京都府宮津市の天橋立)を勧請したと伝える。知恵の文殊として信仰され、現在の堂宇は昭和5年に再建された。境内の孔子を祀る聖堂は、藩校興譲館にあった聖堂を縮小・移転したもの。聖堂の始まりは元禄10年(1697)に4代藩主綱憲が建てた「感麒殿」で、安永5年(1776)に上杉鷹山が興譲館を再興、聖堂を「先聖殿」と改めた。鷹山筆の扁額を伝えている。米沢市』
24
石仏や献木碑、庚申塔など。
25
25.5
文殊堂の隣の建物へ。周囲に色々あります。
26
狛犬。
27
27.5
小祠。
28
石灯篭。
29
大聖文殊尊敬白(寶暦3年6月吉日)。
30
橋爪新太郎翁之碑。
31
小祠。稲荷様のようです。
32
廿六夜待塔。
33
文殊堂の隣の建物です。
34
34.5
何かはわかりませんが建物内部の中央には狐が祀られていました。稲荷堂なのかな。
35
すぐ裏には聖観世音菩薩立像もありました。
36
庭園を散歩します。
37
上杉鷹山公御真筆詩碑。「諸天秋色霽東皐 夜会同人弄彩毫 弱々西風生紺宇 団々明月上松濤 佳賓満座情方合 狂簡成章調自高 此処本無塵事至 清談更許酔醇醪 右中秋遊法泉寺院 藤治憲」「上杉鷹山公御眞筆詩」「上杉隆憲公題額」「昭和三十八年初秋」。
38
上杉鷹山公御真筆詩碑(案内板より)…『「諸天の秋色東皐に霽れ 夜会の同人彩毫を弄ぶ 弱々たる西風紺宇を生じ 団々たる明月松濤に上る 佳賓座に満ちて情方に合い 狂簡・成章調自ら高し 此の処は本塵事の至る無し 清談更に許せ醇醪に酔うを 右中秋法泉寺院に遊ぶ 藤治憲」。米沢藩9代藩主上杉治憲公(号、鷹山)が、明和7年(1770)8月15日、ここ法泉寺で盛大に詩会を催された時の、公自身の作品で、詩会の盛事を詠まれています。公の真筆を刻したもので、原本は法泉寺に代々大切に伝えられ、現存しています。』
39
伝江東院正軸因公大禪定門位供養塔。石田三成の戒名です。つまり石田三成供養塔。
40
これは驚きですね。直江兼続が建立したと伝え、江戸幕府に知られぬために文字記録は残さず、代々住職の口伝に依ってきたものらしいです。直江兼続と石田三成の親交が伝わりますね。碑は上部「梵網経」だけ読み取れました。これはもっと注目されてもいい碑だと思いますが、「弘前藩と石田家」に関わる遺構がそうであったように、時代背景的にはひっそりと建っているのが逆にいいのかも知れません。
41
創立米澤圖書館碑…『創立米沢圖書館碑。從二位伯爵樂山上杉公篆額 米澤藩主上杉伯爵奉返封土將移住輦下也留與藩學興譲館列藏圖書及資財以充藩士子弟講習之資爾來殆三十年私學之盛實冠絶于東北明治三十三年及山形縣米澤中學校設立私學始廢止於是新設興譲館財團以保管圖書財産亦将有以資人文發達之途也四十年中學校長松山亮等将創立米澤圖書館贊者出資凡一千餘圓因謀之財團理事髙梨源五郎等即議決建築費三千圓圖書費千二百圓毎歳經費六百圓支出之事且擧文庫與圖書寄贈之伯爵亦給金二千五百圓以助工費四十一年十月土地法泉精舍之域以起工事明年九月竣工其費凡六千七百餘圓以十月七日開館文庫堅牢樓室宏潔不奢不陋閲覧之便全備而寳書珍籍之富則不敢出足利文庫之下豈不盛哉盖人文之發達固不能不依圖籍凡有求乎此館者不宜不夙夜研究修徳磨智以資國運之發展是本館之所以設立也藩學舊有孔子廟亦為財團列管祭祀不怠今茲辛亥徒廟于館之東北置祭資金五百圓以祭焉並記以諫(言+念)來茲云 明治四十四年七月 伊佐早謙撰 土肥博書』
42
庭園散策。
43
43.5
いくつか石塔らしきものがありましたが庭園のただの石かも。ちゃんと見てません。
44
44.5
立派な松があります。
45
45.4
45.8
庭園内、遠くから見た文殊堂。
46
万年塔(万年堂)を発見。
47
ここが上杉家墓所なんですね。庭園散策していなければ気付かなかったかも。
48
他にも墓碑がたくさんあります。ちゃんと見ていませんが無縫塔だったので法泉寺住職に関わるものかも。
49
祥壽院殿盛嶽貞栄尼公大姉位。
50
50.5
法泉院殿浄因永真大姉位。
51
梅嶺院殿清巖栄昌尼大姉位。
52
上杉家墓所…『「祥壽院殿盛嶽貞栄尼公大姉位」(右)…皆(享保16年1月15日卒41歳)。米澤藩5代藩主吉憲公室。京師矢部氏女。6代藩主宗憲公生母。7代藩主宗房公生母。8代藩主重定公生母。「法泉院殿浄因永真大姉位」(中央)…亀姫(寛永14年5月22日生、寛文4年7月25日卒28歳)。米澤藩2代藩主上杉定勝公三女。松平飛騨守利明公夫人。米澤藩3代藩主綱勝公姉。「梅嶺院殿清巖栄昌尼大姉位」(左)…三姫(寛永廿年6月11日生、宝永元年8月8日卒62歳)。米澤藩2代藩主上杉定勝公四女。吉良上野介吉央公夫人富。米澤藩5代藩主綱憲公生母。』
53
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ