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秋田県にかほ市象潟町象潟島。蚶満寺は仁寿3年(853)に天台宗の慈覚大師の開創と伝えられ、かつては名勝であった象潟(九十九島)の要にありました。境内は古木に囲まれ旧跡が静寂の中に佇み、古刹の雰囲気が漂っています。古くから文人墨客が訪れた名刹として知られており、元禄2年(1689)には松尾芭蕉が訪れて『奥の細道』に紹介しています。
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かつての塩越村。元和8年まで最上領、元和9年から仁賀保領、寛永8年酒井預り地、同17年本荘藩領となります。元和9年の村高636石余、諸役として夜廻役銀6匁8分、山手役銀8匁8分、手繰船11艘分として355匁、鱈船1艘につき銀20匁。享保15年の村高1,061石余(本田636・新田425)・免5.6。宝暦11年の戸数423・人口2,150(男1,086・女1,064)・馬211、造酒屋4軒。天保郷帳では974石余。新田開発が幾度か繰り返され耕地が増加。まず慶安4年中汐越の者により白雪川から水を引いた惣助堰が完成し水田110町余が開かれました。更に文化元年の象潟大地震で隆起した潟跡の開田作業が同3年から行われました。城下商人近江屋治郎右衛門を資金担当者とし、御本米役鎌田藤右衛門を責任者とし、工事担当者に当地方で土木工事の名手といわれている赤石村工藤伝作があたり、同6年までに47町歩余が開かれ、文政3年の検地で300石余が高付となりました。この開田により元禄2年松尾芭蕉が弟子曽良とともに訪れて、象潟の美しさを松島にも並ぶべきものと賞賛した風景は瞬時にして失われました。潟跡の保護を訴え開田工事に反対した蚶満寺の僧覚林は、朝廷権力を背景に藩に抵抗しましたが、遂に捕えられ獄死。塩越には大澗・小澗の良港があり、塩越城代及び町奉行が置かれ、港と町の支配に当たりました。本荘藩領の仁賀保地区の蔵米移出、また本荘・生駒氏領の塩・海産物その他の物資の移入で栄え、問屋7軒、千石船の持主4人を数えるほどで、本荘藩内の商品流通の中核でした。そのため藩からの御用金の徴収も多く、弘化5年には町方に対し450両の割当てがありました。寛永18年、酒井預り地である隣村関村との間で境界紛争がありました。文化元年の大地震の被害は、潰家389・土蔵潰127・小屋潰192・焼失1・死者70余・けが人33・死馬4。戊辰戦争の際に戦死した佐賀藩の兵ら8名の墓が蚶満寺境内にあります。郷社の熊野神社、八幡神社があります。皇宮山蚶満寺(曹洞宗大乗寺末)は慈覚大師の創建といわれ当地方最古の寺院。他に両玉山光岸寺(曹洞宗蚶満寺末)・弥光山浄専寺(浄土真宗大谷派)・久遠山蓮成院(日蓮宗身延派)・経王山本隆寺(法華宗大門派)・金清山高泉寺(曹洞宗京都宇治興聖寺末)があります。明治9年の戸数589(うち士族6)・人口2,691(男1,341・女1,350)・馬158・船110(うち漁船96)・小学校の生徒数150人(男130・女20)。同22年市制町村制施行後も1村1大字の独立村として存続。
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3.5
象潟百景(およそ300年前の象潟・皇宮山干満寺所蔵版画)。
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「干満寺」として記されています。神功皇后のいわゆる三韓征伐の時、海中に干珠満珠を得たという伝説にちなんで、この山号寺号があるといいますが、寺名については諸説あり。
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蚶満寺と九十九島(新・秋田八景(平成4年選定))…『慈覚大師の開創と伝えられる蚶満寺には、西行法師や北条時頼が訪ねたとされているほか松尾芭蕉や小林一茶など多くの文人たちが訪れており、境内や寺にはゆかりの旧蹟や筆蹟が遺されている。蚶満寺の周辺一帯は、かつて九十九島といわれるたくさんの島々を浮かべた潟であり、松島と並び称された景勝地であった。しかし、文化元年(1804)の大地震で象潟は隆起し、一夜にして陸地となった。当時の島々は現在、水田に点在し、春の田植え時は水面に浮かび往時をしのばせ、夏は深緑、秋は黄金色、冬は雪景色の中と四季折々の風情を見ることができる。「象潟」は昭和9年に国の天然記念物に指定されている。』
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庭園案内図。
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奥の細道(蚶満寺)。
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元禄2年6月、俳聖松尾芭蕉が訪れて『奥の細道』のなかで、九十九島と呼ばれた当時の象潟の景観を絶賛。ここで芭蕉は中国の悲劇の美女西施を思い浮かべ、「ねぶ」を「ねむの花」と「眠る」にかけて、「象潟や雨に西施がねぶの花」(雨にけむる象潟はあたかもまぶたを閉じた西施のように美しい)と詠んでいます。
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芭蕉は松島の景観との比較もしていますが、この中で「干満珠寺」として登場するのが蚶満寺です。なお、にかほ市はこの句が縁となり、西施が生まれた中華人民共和国浙江省諸曁市と姉妹都市提携を結んでいるそうです。
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また、司馬遼太郎は、紀行集『街道をゆく』のなかで、かつての同級生に会うため蚶満寺を訪れて、「芭蕉の感覚では、象潟の水景は雨に似合うのである」と述べています。司馬遼太郎は「蚶満寺」の名について、「象潟」は古くは「蚶方」とも表記したことから、「方」が「万」の字に変わって「かんまん」と音読みしたのではないかと考察しています。
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西施像。
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道の駅 象潟 ねむの丘」にもあります。
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象潟町日中友好協会建立(維持平成2年8月1日・正徳5年刊 画林良材による・五良治郎家石工六代佐々木勇二刻)。
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西施(中国四大美女の一人・紀元前502-470年頃没)…『中国の春秋末期時代、越国苧蘿村(今の浙江省諸曁市)の人。呉・越の両国が「呉越の興亡」と呼ばれるほどの争いをしていた国難の世に彼女は生まれた。越王勾践は会稽で敗れると美女西施を呉王に献じ、呉王の心を乱し、政治を怠らせる政策を立てた。西施は越の救国のためならと呉国に赴き献身的に呉王に尽くした。後、呉国を滅ぼし会稽の恥をすすぐや、越国では西施を愛国精神を具えた天下第一の美女として讃え、現在まで広く伝えられている。救国のためとはいえ敵国に身を捧げた悲劇的な美女西施を、俳人松尾芭蕉は松島に比べて「うらむがごとし」と象潟の風景に似通うものとして俳諧の世界に生かした。その句が「奥の細道」に見られる次の句である。「象潟や 雨に西施が ねぷの花」。この句が縁で、象潟町が平成2年から、平成17年からはにかほ市として西施の故郷中国浙江省諸曁市と友好関係を深めています。にかほ市・象潟町日中友好協会』
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松尾芭蕉像。
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16.4
16.8
松尾芭蕉句碑「象潟の雨や西施がねぶの花」。
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こちらは芭蕉像の近くにあった句碑。
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方角石。
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旧参道へ。
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旧参道。
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「象潟九十九島島めぐりコース」案内板。
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コース距離約2.3km。
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面白そうでしたが真夏日だったので今回はパス。
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駒留島は目の前に見えます。
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駒留島。
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九十九島の碑へ。
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標柱より…『象潟地震百年を記念して明治39年11月に齋藤宇一郎代議士の讃助を得て落成。篆額は閑院宮載仁親王で、撰文は文学博士三島毅、書は明治の三筆の一人と言われた日下部鳴鶴である。この碑文には象潟の変遷が刻まれている。』
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象潟九十九島記碑。正五位日下部東作書。状態はいいのですが内容はパス…真夏日だったので…
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象潟地区區画整理事業竣工記念碑(象潟町土地改良区)。
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佐藤廣治翁彰徳碑(農林大臣廣川弘禅書)。
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権大僧都清鏡・権大僧都清性。
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大越家隆置権大僧都角英。
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大先達慶峯。
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住居塚!?読めません。下部の名前も微妙に読み取れず。そして頑張りません。真夏日だったので…。
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法華塔。
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「九十九嶋あのしまみるも偲ばるる水をたゝへてありし昔を」翠果。
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恐らく水子地蔵。
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その横に聖観音像。
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池に囲まれています。
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奉建立聖観音像記…『弘前市在住木内樫郎さんご夫妻。「覊鳥恋旧林池魚思故渕」の心を以って故郷の古刹、蚶満寺淨域を荘嚴せんとの志をおこし、その方途を山僧に計る。山僧亦かねてより聖観音像建立の志を温むる事久し、是に能所の化縁熟して淨業円成せり冀くは大慈大悲広大の願力を以って普く世間の音を観取し給はん事を。依って一韻を賦しその芳志を祝讃する者也。古刹門頭転寂涼 願心造像致故郷 毫光一点端嚴相 四耒人天帰仰芳 維持昭和49年7月29日皇宮山丗九葉 碧天能忍謹記』
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惣助翁彰徳碑。
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惣助翁彰徳碑…『[裏面碑文]惣助堰由来 金浦町大竹東方白雪川ニ合流スル衣川ノ末水ヲ取リ入レ一山ヲ切リ抜キ赤石川ニ加水更ニ之ヲ取リ入レ前川ノ西方ヲ経テ蚶満寺前ニ至ル延長二里ノ灌漑用水路之ヲ衣川堰下ノ堰トモ云フ 慶安四年中汐越ノ百姓惣助カ起工シ満三年不眠不休ノ努力ト全私財ヲ投シテ開通セラレタルモノニシテ現在此ノ堰ノ恩恵ニ浴スル水田百十余町歩ニ及フ 郷土産業ノ永久ヲ慮リ己ヲムナシウシテ果ス偉ナリト謂フヘシ 皇紀2600年記念建立』
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まだ山門前ですが長くなりましたので『蚶満寺(にかほ市)』へ続く。
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