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尾去沢鉱山は、鉱物が溶け込んだ熱水が岩盤の割れ目に染み入り、地表近くで冷え固まった鉱脈型鉱床の典型。新生代新第三紀中新世のグリーンタフ、珪質頁岩に、火山岩である安山岩、流紋岩、デイサイトが貫入。鉱脈は500条あり、平均走行延長300m、傾斜延長300m、脈幅0.7m、銅の品位は2.4%でした。坑道を用いる坑内掘りによって採掘が進められ、南北3km、東西2kmの山中に、明治以降だけで700km、江戸以前を含めれば800kmの坑道が、シュリンケージ採鉱法により鉱脈に沿って縦横に掘られました。銅のほか、金、銀、鉛、亜鉛が産出。
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明治22年に岩崎家に経営が移り三菱財閥が開発を行うようになってから閉山までの産出量は、銅30万t、金4.4t、銀155tと推定。昭和53年に閉山しましたが、跡地には選鉱場、シックナー、大煙突等が残されています。これらの近代鉱山施設の遺構は土木学会選奨土木遺産や近代化産業遺産に認定。また、一部は、坑内や鉱山施設の見学や砂金取り体験のできるテーマパーク史跡となっています。平成19年には日本の地質百選に選定。
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鉱山事務所跡。
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「手に手 輪に輪」
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選鉱場跡標柱。坑道より運び出された鉱石は選鉱場へ送られます。選鉱場は鉱石の中に1%程度しか含まれていない銅分を25%程度まで濃縮する工場です。コーンクラッシャー送られてきた鉱石は、まずクラッシャーにより砕かれます。砕かれて粒度のそろった鉱石は粉砕の工程に送られます。粉砕は回転するボールミルと呼ばれる機械に入れられ粉砕。このボールミルの中には鋼鉄の玉が入っており、この玉で鉱石を砕きます。粉砕された鉱石は、鉱石のみを浮かせて採る浮選工程に送られます。浮選工程では、泡に鉱石を付着させ硫化鉱物を取り出し、使用する薬品の違いによって黄鉄鉱と銅鉱物とを分離。この工程で濃集された銅鉱石はフィルターを使って脱水され銅精鉱となります。銅精鉱は製錬所へ送られ溶かされ粗銅が作られます。これを電解工程で電気銅にし最終製品になります。
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最大で月間10万トンの銅鉱石を処理した国内最大級の選鉱場跡。昭和53年(1978)に操業を中止し、現在はその基礎の部分のみが残されています。
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7.5
製錬場跡。製錬場が稼働していた時期は煙害で周辺がはげ山となっており、遠くからでも望むことができたそうです。
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遠くに大煙突が見えます。昭和41年に操業を中止した製錬場跡です。煙突の高さは60mで土木遺産に認定されています。製錬場が稼働していた時期は、煙害で周辺がはげ山となり遠くからでも望むことができました。
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シックナー(沈殿池)上部はここからは角度的に見えませんでした。ちなみに選鉱場跡や製錬場跡などは立入禁止ですが、事前予約をすれば選鉱場跡、製錬場跡などの坑外施設をガイド付きで案内してくれるようです。詳細は公式HPでどうぞ。
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このような美しいエメラルドグリーンをしています。ちなみに事前予約
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「史跡尾去沢鉱山」。以前に訪れた時は「マインランド尾去沢」でした。
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調べてみたら1982年にマインランド尾去沢がオープンし、三菱マテリアルの子会社である株式会社ゴールデン佐渡が2006年にマインランド尾去沢を買収し、2008年より「史跡尾去沢鉱山」と改称してリニューアルオープンしたそうです。ってことは私は生まれていないので記憶違いです。
12.5
尾去沢鉱山開山千三百年記念碑(平成20年10月26日。ベニヤマザクラ4本、ナナカマド5本、ヤマモミジ5本、ツツジ100株、アジサイ210株。記念植樹(平成20粘土森林ボランティア活動支援事業))。
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昭和52年9月当時の全景写真がありましたが状態が悪くてよく見えません。公式HPに昭和39年当時の全景写真が掲載されています。
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向って左はレッグドリル(水平穿孔機)。水平坑道で発破孔を穿つための削岩機で圧縮空気を動力としています。(パイプ先端での空気圧約4kgf/c㎡)削岩時にたがね(ロッド)の先端から水を噴射し粉塵の飛散を抑制します。右はローダー(鉱石積込機)。水平坑道掘進時の廃石や鉱石の積込みに使われ、太空機械㈱の太空600Bと呼ばれる型で、圧縮空気を動力としています。昭和の始めから多くの鉱山で使われていました。バケット容量は約0.15立方メートルです。
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10トンディーゼル機関車(型式DB-3IL)。
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日本輸送機㈱製。昭和38年9月製造。
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この機関車は、昭和38年から昭和53年の閉山まで尾去沢鉱山で生産された、粗銅、硫化鉄鉱、亜鉛精鉱等の出荷や石灰石、硝灰石、石炭、重油、木材等の原料、資材物品の他、従業員の生活物資の入荷の際、JR鹿角花輪駅の構内で貨車の入換作業で活躍しました。寄贈・丸佐運送合資会社。
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5トントロリー式電機機関車。昭和17年三菱電機。
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第二次世界大戦中の捕虜の使役について…『第二次世界大戦中、労働力不足を補う為、旧日本軍に捕らえれた連合軍捕虜たちが、日本国内の鉱山、炭鉱、工場などに労働者として配置されました。旧日本軍の管理の下、この地にあった「仙台俘虜収容所 尾去沢(花輪)分所」には、終戦時に545人(米494人、英50人、豪1人※GHQ/SCAP資料「Roster of Deceased Allied POWs in Japan Proper」(国会図書館憲政資料室所蔵LS-03399-03404)を基に、POW研究会が調査したもの。)の捕虜が収容されており、収容中に8人が亡くなりました。当時の労働環境は、捕虜たちにとって大変過酷であり生涯癒すことのできない深い傷を残しました。又、当鉱山だけではなく、旧三菱鉱業株式会社の鉱山である細倉(宮城県)・生野(兵庫県)・明延(兵庫県)においても、同じように、捕虜が労働を強いられておりました。当社は、このような不幸な出来事を深く反省し、旧三菱鉱業株式会社の鉱山で労働を強いられた全ての元戦争捕虜に対して心より謝罪すると共に、基本的人権や正義が侵されることのない未来の創造に向けて努力を続ける決意をここに示します。2016年11月三菱マテリアル株式会社。』・In Memory of WWⅡ POWs…『During World WarⅡ,military personnel of the Allied Forces captured by the Japanese military were forced to work in mines and factories throughout Japan.These included the Osarizawa[Hanawa]Branch of the Sendai POW Camp that was under the control of the Japanese military and located at this site.In all,545 POWs[494 American,50 British,and 1 Australian]were held at the camp at the end of the war,8 POWs died in captivity.Working conditions for the POWs were exceedingly harsh and left deep mental and physical wounds that the lapse of time would not heal.POWs were subjected to similar conditions in the mines of Hosokura[Miyagi Prefecture],Ikuno[Hyogo Prefecture]and Akenobe[Hyogo Prefecture],which were also operated by the former Mitsubishi Mining Company.Reflecting on these tragic past events with the deepest sense of remorse,Mitsubishi Materials offers its heartfelt apologies to all former POWs who were forced to work under appalling conditions in the mines of the former Mitsubishi Mining Company,and reaffirms its unswerving resolve to contribute to the creation of a world in which fundamental human rights and justice are fully guaranteed.』
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パンフレット「1300年前から金、銀、銅などの産出で栄える」より…『1599(慶長4)年に五十枚金山などが近隣で発見され、ゴールドラッシュで栄えたと伝えられますが、1600年代後半には金の産出が減少し南部藩が銅鉱山として稼行しています。明治維新以降も、鉱脈型銅鉱床と呼ばれる脈状の銅鉱脈を鑿と鎚で採掘していたため採鉱効率は低く、1889(明治22)年より三菱社(岩崎弥之助社長)が洋式採掘技術をもって技術支援を行い1893年に三菱合資会社に経営権が移りました。採鉱・選鉱・製錬に最新の洋式技術を導入し、出鉱量・製錬量は年を追って増加していきました。1978年閉山後は、「史跡尾去沢鉱山」として坑道の一部1.7kmを整備した観光坑道で鉱山最盛期の採掘状況を見学することができます。』
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岩崎弥之助。
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パンフレット「秋田県の主力産業であった鉱山」より…『秋田県の北部(北鹿地域)は、常に日本国内における各種金属の主要供給源となっておりました。特に銅の生産量は、50%以上を占めていたときもあり、秋田県の面積が全国の3%、そのうち北鹿地域の面積(1600k㎡)が0.4%に過ぎないことを考慮すれば、秋田県(特に北鹿地域)が金属鉱物資源に恵まれ、国内産業に大きく貢献したことがわかります。』
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パンフレット「尾去沢の鉱脈のできかた」より…『マグマから噴出した水蒸気は有用鉱物を多く含んでおります。水蒸気は地下の岩石の割れ目などを通って移動していきます。水蒸気は周囲の岩石と反応したり、冷却されて液体となり地下の亀裂に沿って固まりました。これらを鉱脈と呼んでいます。この鉱脈を浅熱水鉱床といい日本の主要な金属鉱床がこの型の鉱床です。代表的例として、尾去沢鉱山があります。』
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観光坑道見学へ。標準コースは1.1km(約30分)、特別コースは1.7km(約45分)です。もちろん特別コースへ行きます。料金は変わりません。
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ってことで、メインの観光坑道見学に向かうわけですが、長くなりましたので『尾去沢鉱山(山神宮)』へ続く。
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