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宮城県栗原市志波姫八樟新田。志波姫は栗原郡(現栗原市)の東北部に位置し、標高38mの平坦な台地上を占める地。地名は志波姫村に古くから祀られる式内社と伝える志波姫神社の社名に由来。
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古峯神社。
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『志波姫神社は、木花開耶姫命を祀る延喜式神明帳栗原七座の内の大社にして、人皇第45代聖武天皇の神亀天平年間の創建といわれ、延暦年間(796-801)に坂上田村麻呂東征の際、武運長久と五穀豊饒を祈願したと伝えられる。社はもと伊豆野権現社と稱し、築館の町裏玄光(源光)に鎮座されていたが、正保年中に祝融の災に罹り、社殿のすべてが烏有に帰し、其の後再建されることなく伊豆大権現の石宮を祀るのみであった。寛永16年(1639)伊達第2代藩主忠宗公は、家臣古内主膳重廣に伊豆野原の野谷地を賜り、その開拓を命ぜられた。伊豆野原を拝領した古内主膳は、伊達藩の土木技術者であった川村孫兵衛元吉に伊豆野原開拓工事の設計を依頼、正保元年(1644)工事に着手、3年の難工事の末、伊豆野堰の完成をみた。伊豆野堰開削によって、伊豆野原開拓に成功した領主古内主膳は、明暦3年(1658)に至って社殿を造営し、水下15ヶ村の守護神として此の地に遷座した。明治22年4月、市町村制の施行により、姫郷村、白幡村、梅崎村の三ヶ村を合併し、この由緒ある社名を唱えて志波姫村とした。町名ゆかりの神社である。平成4年10月27日、志波姫神社本殿(素木造・一間社流れ造り・目板葺)が江戸時代初期の建築様式を伝えるものとして、宮城県指定有形文化財に指定された。志波姫町教育委員会・志波姫町文化財保護委員会』
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一之鳥居。
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狛犬一対(平成9年7月吉日)。
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志波姫神社の御祭神は木花開耶姫命。合祀:倉稻魂命・應神天皇・素盞嗚尊・菊理姫命・伊弉册命・大日靈命・軻遇突智命・倭姫命。※明治43年に村内の神社を合祀:運南神社、駒形根神社、八坂神社、樟神社(沼田式部太夫政綱館神)、八幡神社、白山神社、熊野神社、五十瀬神社。
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二之鳥居。
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新田区公民館。
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志波姫神社の創建は不詳なれど、奈良時代の神亀年間から天平年間に勧請されたのが始まりと伝えます。平安時代の延暦年間に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷東征で当地まで進軍した折、戦勝祈願が行われ、貞観元年には従四位下に列しています。延長5年に編纂された延喜式神名帳には格式の高い名神大社として記載されており、志波姫神社が当時から格式のある神社だったと認識されていたことが窺えます。正保年間に焼失して荒廃するも、伊豆野堰を開削した古内主膳重廣が当地の守護神として明暦3年に現在地に遷座し社殿造営。その後、地名から「伊豆権現社」と称していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が排され、旧社号である志波姫神社に復し明治8年に村社に列し、大正12年に神饌幣帛料供進社に指定されています。八坂神社兼務社となっています。
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神社庁…『本社は一に延喜式神名帳栗原郡七座の一つで、聖武天皇の御宇に創建されたと伝えられ(口碑、封内風土記、伊治山興福寺鐘銘)伊豆権現と称し、始め築館村玄光という地に鎮座した。桓武天皇の延暦年中坂上田村麻呂東征に際し楼閣を増築して武運長文、五穀豊饒を祈請したという。正保年中祝融の災に罹り後、明暦3年仙台藩士古内主膳重広伊達忠宗の命により水田開墾の折りこの地に遷座した。(口碑、封内風土記)明治8年8月村社に加列する。』
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拝殿神額(昭和30年9月)。
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拝殿内。
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指定有形文化財とのことでしっかりとした本殿覆屋です。
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本殿。
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手水石。
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出雲構えの狛犬一対(明治百年記念・昭和43年)。
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神楽殿。
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志波姫神社では秋分の日に志波姫人形感謝祭を執り行っています。
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志波姫神社之碑。立派な案内板があったのでこちらは読んでいません。
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天皇陛下御在位六十年記念植樹標柱。
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下駄が奉納されている石祠。
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道祖神なのかな。
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山神。
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金田明神。その昔、八樟村に与兵衛と権内という親思いの兄弟が住んでいました。以前、母が病気になった際に志波姫神社にお祈りしたところ回復したため、神社に鐘を納めようと考え、鐘の代金として大切な米を肝入に預けましたが、肝入は米をネコババします。兄弟は志波姫神社の別当に頼み、宮野村の代官に訴えたところ、肝入は代官に金を渡し、与兵衛と権内と別当を磔にしました。その後、肝入の家族は重い病気に罹り次々と7人も亡くなりました。村人によって無実で処刑された3人のため、八樟に金田明神が建てられます。平成13年に田圃整理のため志波姫神社内に移されました。
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『この石宮は、元禄12年9月18日與兵衛、権内と山伏の宝鏡院が無実の罪で磔の刑に処せられたが、その霊を鎮めるため建立したものである。八樟原にあったが、農村活性化住環境整備事業区域となったので平成13年4月ここに遷座した。台座に「文政九年丙戌九月十九日、願主、肝入彦十郎、善助」とある。』
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『「伊達治家記録」によると3人の磔の刑は、元禄12年閏9月29日国元から江戸藩邸の4代藩主伊達綱村に伝えられた。「一迫八樟村組頭與兵衛及子権内於其所磔、右父子村肝煎ヲ蔑ニシ、年貢ノ儀ニ就テ無実ノ出入仕掛、事ヲ巧代官並大肝煎令ヲ背ク科、同村山伏宝鏡院於其所磔、右與兵衛権内ニ語ラレ、致一味欲心ヲ以テ謀書、剰父ノ名元ニ謀判シ父ヲ重科ニ沈ムヘキ計ノ罪タリ」と。』
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3人の御霊とのことで3基並んでいます。
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台座「文政九年丙戌九月十九日願主肝入彦十郎善助」。
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石碑・石塔群。
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手水石。
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権現堂瀧。
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阿弥陀三尊かな。
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「日天月天廿八宿三十六巾敬白鈴木養右エ門」(明治43年6月廿8日)。手前に達磨。
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庚申塔(寛政12年12月)。手前に謎の像。
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巳待供養塔(寛延2己巳年11月24日)。
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青面金剛童子(萬延元年10月朔日)。
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金華山(慶應2年3月10日)、青面金剛童子、庚申塔、布袋様、大黒様、恵比寿様など。
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馬櫪神、青面金剛、巳待供養塔など。
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庚申塔、石祠など。
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頌徳碑…『目黒長右工門翁私財を投じて神輿並に獅子頭を自作し志波姫神社に寄進せり。茲に社務所建築落成を期に其の徳を後世に伝へんとして一文を以って碑文と為す。翁は安政六年三月六日姫郷村百七十六番地髙橋長十郎の四男として出生細工彫刻を好み天性既に棟梁の風格を示せりこの時翁は齢四十二才なりしが其の技は愈々天分を発揮せるに至ると共に益々燃ゆる製作意欲は家事の煩瑣より遁れてその業に専念せんとの余り遂に家を捨て盛岡市の近郷に居住し指物彫刻のうん奥を究めつゝ又これを業として生計せるものゝ如しこの間三十有余年全く音信なく家族も又北海道に離散せり。昭和六年飄然として八樟に現はれ小野寺徳太郎氏宅に寄遇の身となれり齢既に七十一才を数へるに至れり此の時一念発願生れ故郷の産土様に神輿並に獅子頭を鍛えし技術の粹を盡して製作献納もって其の生涯を飾らんとす。稱来三年徳太郎氏宅の広間を作業場として注連縄を廻らし斉戒沐浴鋭意製作に從事せり其の製作費当時の金額にて六百円と傳へられた。昭和九年完成せり時の村長鈴木惣七氏この偉業に感動し自ら献幣使の装束を着し型の如く随員を從へつゝ村内隅なく神輿渡御を斉行せり翁も又村より寄贈されたる紋付羽織袴に威儀を正し人力車にて神輿の側に供奉せりその盛儀いまだに髣髴たり。翁は既に七十四才たり從甥髙橋直作宅に身を委ね親戚の知遇を受け余生を送りたりと雖も今は畜積せし財も空しく翁の晩年に寧ろ哀れとも言ふべきものありき。昭和十三年四月十一日死亡菩提寺興福寺に永眠す七十八才なり。茲に翁の冥福を祈念すると共に偉業を賛へて頌徳の碑を建つ。昭和三十七年旧六月二十八日撰文小野寺清司(下段:役員名省略)』
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