1
山形県南陽市宮内。かつての宮内村。置賜郡。はじめ蒲生氏領、慶長3年上杉氏領、同6年より米沢藩領。北条郷に属します。慶長5年の出羽合戦では上杉氏の臣安部右馬助など宮内十八免許が小滝口に参陣。彼らは江戸期を通じて藩主の赤湯入湯の際の番所詰、熊野祭礼の警備、籾蔵・木の実蔵の夜廻り番などを勤めました。安部右馬助は元和9年に宮内の町割りを実施。町割図には広大な安部屋敷と安部家中屋敷18軒があり、足軽町、六角町、別所町、西町、荒町などの町名も見えます。また安部右馬助は寛永3年の熊野権現造営に際して大洪鐘を寄進。熊野権現は北条郷33ヶ村の総鎮守で宝暦10年の北条郷青苧新税反対一揆で600余人の農民が熊野堂に立てこもりました。当村は熊野権現の門前町で、小滝街道の宿駅として北条郷の中心的在郷町でした。元和9年の町割図には鍛冶4、大工6、屋根葺2、石切2、大家引2、風呂屋1などの諸職人が見えます。寛文元年や享保5年には藩の役人が宮内市場から米を大量に買い入れしており、米市場の存在も窺われます。安政2年の東講商人鑑には穀物銘酒絹糸問屋の酒田屋、青苧紅花糸綿問屋の油屋、太物小間物店の京屋、和漢薬種所の大和屋などの商人が見えます。明治初期からは製糸業が盛んで、明治12年山形県治一覧には製糸場5、職工84が見えます。明治3年に熊野権現は熊野社と改称。明治5年神門橋女芝居小屋より出火し300余戸焼失。火難を憂い、当町住人の高橋弥藤次が讃岐の金比羅宮に参詣し、明治30年に御分霊を祀ったのが慶海山の琴平神社です。明治5年には宮内学校が創立され、同11年鐘秀学校、明治20年宮内高等尋常小学校、昭和16年宮内町立国民学校、昭和22年宮内町立宮内小学校、昭和42年南陽市立宮内小学校と改称。この歴史ある宮内小学校は現在も宮内熊野大社に隣接しています。なお、熊野神社境内と共に縄文時代遺跡となっています。
2
大鳥居脇の石灯篭一対。
3
3.5
大鳥居前の石灯篭一対(昭和33年3月)。
4
4.5
大鳥居は御再建1200年記念事業として建立。権現造りの石鳥居としては日本一。
5
参道。
6
南陽市宮内公民館前。
7
向かいには「宝積坊」。
8
芳武茂介歌碑…『鉄なべのわがデザインに芸術と名のつく受賞きまりしと聞く』※昭和51年芸術選奨文部大臣賞受賞時の歌。
9
「触手」小田仁二郎…『私の、十本の指、その腹、どの指のはらにも、それぞれちがう紋々が、うずをまき、うずの中心に、はらは、ふっくりふくれている。それをみつめている私。うずの線は、みつめているとうごかないままに、中心にはしり、また中心からながれでてくる。うごかない指のはらで、紋々がうずまきながれるのだ。めまいがする。私は掌をふせ、こっそり、おや指のはらと、ほかの指を、すりあわせてみる。うずとうずが、すれあう、かすかな、ほそい線と線とがふれる感覚。』
10
うわっ!めっちゃ続き読みたくなってきた!
11
案内板…『ここ宮町通りは明治の初めまで、熊野山に奉仕する八坊一社家が軒を構え、文化的土壌に恵まれた環境でした。この宮町から次の方が生まれています。(以下省略。下の写真でどうぞ)』
12
小田仁二郎について。
13
結城よしをについて。
14
宮町通りを進みます。
15
南陽市(宮内周辺)文化財地図。
16
獅子冠事務所「百花園」。北條郷総鎮守・無形民俗文化財。
17
北条の郷、熊野門前町、にぎわいの館。南陽の菊まつりの作業具でにぎわっていました。
18
證誠殿前石灯篭一対(天保12年12月吉祥日)。
19
19.5
石灯篭一対。
20
一基は鏡池の中。鎌倉時代、蒙古襲来の時、日本はかつてない国難に直面。亀山・後宇多天皇は伊勢神宮に異敵降伏の祈願を捧げ、熊野神社にもはるばる勅使を遣わし祈祷を執行。その際に勅使が参籠した斉館の跡に水をたたえて鏡池となし、勅使橋と共に聖跡として保存。
21
鏡池…『文久弘安の役のみぎり畏きあたり敵國降伏の祈願を執行し草深い當村に勅使を御差遣になりその時上使が參籠給ひし齊館の跡なり』
22
勅使橋。
23
23.5
勅使以外は渡ってはいけません。
24
勅使橋の横に水神社。御祭神は罔象女神(水を司る神様)。
25
勅使ではないので隣(正面)の石橋を渡って…
26
ようやく社号標(東郷元帥揮毫)。昭和7年に宮内の遠藤常五郎が米沢出身の左近司政三海軍中将(鈴木貫太郎内閣の国務大臣)の尽力を得て、病床に臥しがちであった東郷元帥(84歳)に依頼したもの。
27
菊まつり期間です。
28
「学頭證誠寺跡」碑と、千百七十年式年・参宮五十年祭記念事業奉賛会の碑。證誠殿證誠寺は和歌山県熊野本宮大社の別当寺院。その形をそのまま山形県に勧請し、證誠寺はこの地でも熊野本宮大社の別当寺院でした。證誠寺跡に建つ證誠殿は現在、休憩所、お食事、郷土土産品、コンペンションホールなど広く使用されています。
29
史跡證誠寺復元記…『役行者の開基と伝へられる南陽市の白鷹山から峯づたいに北から南へ一直線に別所山に通じる平坦な細道は大聖小聖が歩いたという熊野の修験道でこれに通じる谷間には数多くの霊跡が残っている。その中心は熊野大権現でありこれを支えていたのは證誠寺である。熊野の別当坊である学頭證誠寺は天台本山の叡山の直末として、また紀州熊野の別院として王朝の頃から徳川の初期まで栄えて来た慶長村かがみには「僧侶山伏二百九十五人」の記録がある。この證誠寺は六反歩の屋敷に二十四間四面の大伽藍を有し、熊野修験を強く支えて来たが、「天正元年一山坊中炎上学頭證誠寺を焼失す。これより学頭坊は再建ならず」と記されている。このような熊野信仰と切り離せない史跡證誠寺を、熊野大社再建千百七十年式年祭記念事業として社殿の復元とともに、證誠寺を證誠殿として復元した。昭和50年12月28日熊野大社宮司北野猛』
30
ってことで神社は目の前ですが、長くなったので『熊野大社~其之弐(南陽市)』へ続く…
31
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ