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創建年月日不詳。新編武蔵風土記稿によりますと、元禄年間、社地の年貢免除のことが記されており、それ以前の創建で、御祭神は素盞鳴尊、旧桐ヶ谷村の鎮守神。
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村内の中央に鎮座し、南面の台地は樹木繁茂し、目黒川を眼下に見下す丘上の森に祀られ、村内部落の住民は農耕を主した人達であり、北条・上杉の合戦(高輪原の戦い)の落武者が多く、村の中央の台地に社を建てて、五穀豊穣・住居者の安穏を祈ったものと伝えます。
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境内は村の往還道路より入り三十有余段の階段を上り、老杉生茂り静寂な神の森となっており、崖の中央からの湶水は現在も涸れることなく神水として村内飲料農耕の基として湧き出ています。また、古代先住民の居住していた跡もあり、土器等の産出も伺われているそう。
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明治41年9月13日に桐ヶ谷村鎮座の四社四柱(八幡神社(誉田別尊)・諏訪神社(建御名方命)・広智神社(於母泥流神(面足命))・広智神社(阿夜訶志古泥神(惶根命)))を合祀し、桐ヶ谷村一円の鎮守として現在に至ります。別当安楽寺(神仏分離にて各々独立)。
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『當氷川神社の御創立は徳川上期と云はれ新編武藏風土記稿に依れば元禄年中より社地の年貢免除の事が見え御祭神は素盞嗚命を祀り旧桐ヶ谷村の鎮守神にして明治41年9月13日元村内に在りし八幡神社、諏訪神社、廣智神社を合祀し今日に至る。御祭神:、譽田別尊、建御名方命、惶根命、面足命。一.大祭9月13日。一.月次祭1日、15日。當社。』
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社殿。
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7.5
現御社殿は昭和13年9月竣工で戦災を免れています。
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拝殿向拝。
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本殿。
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手水舎。
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天水桶一対。
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狛犬一対(安政6己未年9月吉辰・別當安樂寺信能代、下大嵜村石工忠太郎、彫工熊次郎)。
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13.2
13.4
13.6
社務所(参集殿)。昭和41年8月竣工。
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入口上部の「参集殿」扁額は芸術院会員豊道春海翁90才の揮毫、松丸東魚篆刻に関るもの。
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神輿庫。昭和43年9月竣工。
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神楽殿。
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本殿横の忍田稲荷大明神へ。
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御祭神は倉稲魂命。
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19.5
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忍田稲荷大明神(保食命)…『人皇第75代崇徳天皇保延3年(1123年)京都稲荷山より忍田稲荷大神を芝白金台現袖ヶ崎神社に勧請されたと伝えらる(850年前)。明治41年9月桐ヶ谷村の八幡神社、諏訪神社、第六天神社の御祭神を氷川神社に合祀さる。その折袖ヶ崎神社の忍田稲荷大神を当神社の末社として勧請し今日に至る。平成3年9月宮司山口直比古記』
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狐一対。
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裏参道入口。
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23.4
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この付近は武蔵野台地の末端にあたり湧き水が多くありました。
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氷川神社の右崖には氷川の滝があり、都内七瀑布のひとつ。
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嘉永4年頃に村民が僅かに湧き出ていた泉を大きく開いて作ったもので、かつては遠方からの人出もありましたが、現在はその名残りの僅かな湧水を見られるに留まっています。
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氷川の懸泉…『断崖を湧き出すこと一丈五尺泉底石を甃して人工を施した。泉流徽徹(※+さんずい)雌雄の二條あり。里人之を氷川の瀧と称せり。嘉永四年村民協力して水源を疏鑿し今日の状態となった(新編武蔵風土記稿)。此度境内整備に伴い断崖に巨石を配し水源を修復し面目を新にし氷川の瀧として後世に残す。平成元年9月氷川神社宮司記す』
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鉄砲石。
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弾痕が残されています。
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鉄砲石…『幕末明治維新の志士等が品川宿御殿山の料亭観桜館の庭内で鉄砲の標的として使われたと言われる石で弾痕が残る一名鉄砲石と言う。』
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