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宮城県石巻市日和が丘2丁目。市内中心部の旧北上川河口に位置する丘陵地。日和山の頂上部には平安時代に遡る歴史を持つ旧門脇村(現石巻市門脇)鎮守鹿島御児神社が鎮座。鎌倉時代に源頼朝の家人であった葛西清重が奥州合戦の恩賞として牡鹿郡を始めとする近隣の数カ所を受領し、日和山に石巻城を築いたとされます。葛西氏とその所領は天正18年(1590)に羽柴秀吉に滅ぼされるまで維持されました。江戸時代に書かれた地誌によれりますと、山の名は石巻から商船が出航する前に、この山に登って天候を観察したことから名付けられたといいます。元禄2年5月10日には松尾芭蕉が訪れており、同行の弟子河合曾良が眺望を日記に記しました(おくのほそ道)。
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現在は日和山公園として整備されています。日和山から日和大橋越しに見る旧北上川河口と太平洋、また、旧北上川の中洲であり、内海五郎兵衛が私財を投じて内海橋を架けた中瀬の見える風景は、そのまま石巻の成り立ちと市民のアイデンティティを示すものです。桜とツツジの名所ともされ、山上に芭蕉と曽良の像があります。昭和58年に行われた発掘調査により、石巻城の遺構であると思われる大規模な城郭があったことが確認されました。平成23年3月11日の東日本大震災では、多くの市民が山に登って津波から避難しましたが、眼下の石巻漁港や市街地は広範囲に被害を受けました。
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石巻観光協会HPでは日和山公園について次のように紹介しています。『全国には約80カ所の日和山があり、江戸時代千石船の出航の日和を見る場所や航路目標の重要な山だったと考えられています。石巻の日和山東南の中腹に「マネキ」(航路を指示する場所)という通称名があったことからも、江戸時代に栄えた船運と深い関わりがあると推測されます。この日和山は高さ56mの北上川河口に位置する洪積段丘の孤立丘で、武神を祭る牡鹿十座の一つ鹿嶋御児神社(窪木家・旧県社)がその頂上に建立され、元来は5月15日が祭礼の日となっています。社伝によれば、宝亀11年(780)12月陸奥鎮守副将軍・百王俊哲の奏上が鎮座の起源と伝えられ、中世には奥州総奉行葛西氏の城「石巻城」があったと考えられています。文禄2年(1593)政宗朝鮮出兵の際、水軍指揮の功績のあった阿部十郎兵衛土佐の奉納した軍配団扇が現在でも同社に残されています。元禄2年(1689)には松尾芭蕉と曽良が訪れ、石巻の繁栄ぶりに驚かされた様子が「奥の細道」からも読み取ることができます。江戸時代から桜の名所として知られ、小野寺鳳谷(1810-1866)による「仙臺石巻湊眺望之全圖」にも石巻の繁栄ぶりが、パノラマ風に描かれています。大正初期に公園整備され、桜の他つつじで彩られる憩の場として今日に至っています。吉田松陰・志賀直哉、井伏鱒二、廣津和郎、宇野浩二等も眺望を楽しみ、芭蕉、保原花好、石川啄木、宮澤賢治、斎藤茂吉、種田山頭火、釈迢空、新田次郎、山形敞一等、多数の文学碑や、川村孫兵衛、芭蕉曽良像等の像が建てられています。』
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案内図です。見晴らしポイントとして日和大橋方面、旧北上川方面、石ノ森萬画館方面が紹介されています。
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5.4
5.8
斎藤茂吉句碑(昭和63年12月6日)「わたつみに北上川の入るさまのゆたけきを見てわが飽かなくに」茂吉。昭和6年に亡き父の墓石を探すために妻と来石。石巻を題材とした和歌11首を残しています。
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斎藤茂吉…『「わたつみに北上川の入るさまのゆたけきを見てわが飽かなくに」斎藤茂吉、明治15年山形県金瓶村(現上山市)に生まれる。38年斎藤紀一の養子となり、東京帝大医学科を卒業、昭和2年帝国脳病院長となる。歌集、歌論の著書多数、昭和12年帝国芸術院会員となる。「柿本人麿」の研究に対し15年帝国学士院賞、26年文化勲章受賞、石巻には昭和6年11月1度のみの来遊でその折の作品11首中の一首である。』
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芭蕉曽良像。
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台座「おくのほそ道紀行三百年記念」(題字石巻市長平塚真治郎書)…『平和泉と心ざし、(中略)…石の巻といふ湊に出。こがね花咲とよみて奉たる金花山海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて竃の煙立つゞけたり。-おくの細道-』・『元禄二年(1689)6月26日(旧5月10日)芭蕉が曽良を伴って千石町(旧新田町)四兵衛宅(現石巻グランドホテル)に宿して居る。俳聖芭蕉と曽良の師弟愛を顕彰し記念とする。昭和63年6月26日石巻観光協会々長鈴木義三。銅像製作:日展彫塑家田畑功。※他寄附者名等は省略』
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猫。
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くじらがいました。
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なるほど…
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君たちの狙いはこれかっ!
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13.5
チリ地震津波碑(1961年5月石巻ロータリークラブ・石巻東ロータリークラブ)…『ほら こんなに まるで慈母のように穏やかな海も ひと度荒れ狂うと 恐ろしい残忍な形相となる 海難・津波・海難とこゝ三陸一帯に 無常な海の惨禍が絶えることかない 1960年5月24日のチリ地震津波 此の日におくられた 東京都内をはじめ はるばる海外からのロータリアンのあたゝかい御芳志と 近海捕鯨の御厚意により こゝに「四つのテスト」の碑を建立し配するに鯨の噴水をもってする 襟をただし はるかなる海底にねむる 万霊の冥福を祈るとゝもに 常に心しよう 海難はまたやってくることを』。
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四つのテスト。
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宮沢賢治詩碑「われらひとしく丘にたち 青ぐろくしてぶちうてる あやしきもののひろがりを 東はてなくのぞみけり そは巨いなる鹽の水 海とはおのもさとれども 傳へてききしそのものと あまりにたがふここちして ただうつつなるうすれ日に そのわだつみの潮騒の うろこの國の波がしら きほひ寄するをのぞみゐたりき」
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宮沢賢治(作品省略)…『宮沢賢治、明治29年岩手県花巻町(現花巻市)に生まれる。大正3年盛岡中学校卒業、大正6年盛岡髙等農林学校農学科(現岩手大学農芸化学科)卒業。詩人、童話作家、農業科学、鉱物研究者。童話では「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」。詩「雨ニモマケズ」は代表作。賢治が明治45年5月27日中学校4年の修学旅行に北上川を川蒸気で下り、石巻の日和山から生まれて初めて海を見て強い感動をうけ、その折の印象を詠んだものである。』
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東日本大震災記念碑「友愛」…『平成23年3月11日午後2時46分に発生した東北地方太平洋沖地震による大津波は、我が国の観測史上例のない大災害となり、多くの市民の尊い生命と財産が奪い去られ本市は最大の被災地となった。私たちは、全国の仲間の力強い友愛と支援の輪に支えられ、「がんばろう!石巻・支え合う友愛・絆」を合言葉に、老人クラブの火を消さないよう再建と復興に努めてきた。この震災を教訓に、命の大切さ、人と人の絆、故郷を思いやる心を次世代に伝えていかなければならない。犠牲者の鎮魂と友愛の心を誓うとともに、震災の悲劇を風化させることのないよう記念碑を建立するものである。平成27年3月石巻市老人クラブ連合会』
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春峯齋先生碑。碑文「齋一良先生墓誌銘」。内容は省略。
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史蹟石巻城趾(山内習謹書)。
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鶯蛙蛙会・百吟会句碑。
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「奥の細道 日和山」碑。
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内海安吉先生之像。詳しく知りたい方はwikipediaでどうぞ。
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石巻城跡。
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石巻城跡…『文治5年(1189)の奥州合戦の恩賞として、源頼朝の家人葛西清重は、牡鹿郡ほか数か所の所領を給付されました。以後、天正18年(1590)に豊臣秀吉によって滅ばされるまで約400年の間、牡鹿郡は葛西氏の重要な所領であり、なかでも石巻に日和山は、その居城があったところという伝承が残っています。しかし葛西氏の奥州における所領支配の実態は明らかでなく、その居城についてもはっきりしたことはわかりませんでしたが、昭和58年(1983)の発掘調査によって、ここ日和山に大規模な中世城館があったことが確認されました。この城跡が、葛西氏にかかわる有力な城館であることは間違いなく、石巻市のシンボル的な城跡、(「石巻城跡」)として長く保存することとなりました。この「石巻城跡」地内で土木工事や住宅建設等を行いたいときは、60日以前に石巻教育委員会へ相談してください。平成2年3月石巻市教育委員会』
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招魂碑(大正11年5月10日)。日が落ちてきたので内容は省略。
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日和山…『日和山は標高60.4メートル。山上に延喜式内社である鹿島御児神社が鎮座し、中世には葛西氏が城館を構えていたと伝えられ、平成9・10年の発掘調査では、拝殿の北側から空堀の跡などが見つかりました。眼下に見える北上川の河口は、江戸時代には仙台藩の買米制度によって集められた米の積出し港として、千石船の出入でにぎわいました。日和山は出航に都合のよい風向きや潮の流れなど、「日和」を見る場所であることから、その名が付いたと考えられています。元禄2年(1689年)、松尾芭蕉と曽良が石巻を訪れた時の「曽良旅日記」には「日和山と云へ上ル 石ノ巻中不残見ゆル奥ノ海(今ワタノハト云)遠嶋尾駮ノ牧山眼前也 真野萱原も少見ゆル」と日和山からの眺望が記されています。また、「奥の細道」には「…石の巻といふ湊に出ス こかね花咲とよみて奉りたる金花山海上に見渡シ 数百の廻船入江につとひ 人家地をあらそひて竈のけふり立つゝけたり」と表現されています。「こかね花咲」とは、万葉集巻第十八にある大伴家持の「天皇の御代栄えむと東なる 陸奥山に金花咲く」の歌をふまえています。天平産金地は、涌谷町の式内社黄金山神社の御神体として崇められた、黄金山を中心とした地域であったのですが、芭蕉の頃には金華山が産金地であると考えられていました。鹿島御児神社の鳥居をくぐり、拝殿に向かう階段を上った右側に、延享5年(1748年)に雲裡房の門人である棠雨を中心として建立された「雲折ゝ人を休める月見かな」という芭蕉の句碑があります。また、日和山には石川啄木、宮沢賢治、志賀直哉、斎藤茂吉、種田山頭火、釈迢空(折口信夫)などの文人が訪れており、日和山公園には多くの歌碑や句碑などが建立されています。』
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鹿島御児神社の鳥居へ。
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大鳥居のある公園南側からは太平洋、北側からは雄大な北上川の流れが一望できます。眼下に流れる旧北上川の河口からは広く太平洋が広がり、天気が良い日は、牡鹿半島の他、遠く松島や蔵王の山々などを見ることができます。
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門脇、南浜…『江戸時代、目の前には白砂青松美しい海岸が広がっていました。明治時代以後、農地の開墾が進み、昭和になり、北上川西岸に工業港が整備されると、パルプ工場をはじめとする多くの工場が立地し、門脇、南浜地区は急速に市街化が進み、石巻市立病院、石巻文化センター、そして、約3000軒を超える人家が立ち並ぶ街として発展しました。しかし、東日本大震災の大津波はこれらの家々を全て押し流し、同時に発生した津波火災が街を焼き尽くしました。この地域は、災害危険区域として居住できない地域となりました。現在、東日本大震災で亡くなった多くの方々の慰霊の場、震災を伝える場、感謝を発信する場として、国の祈念公園を整備することが決定しています。』
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石巻港。1997年(平成9年)撮影。
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日和山と人家が立ち並ぶ街並み。2009年(平成21年)撮影。
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日和山…『日和山は、松尾芭蕉、石川啄木、宮沢賢治など多くの文人墨客が訪れた、石巻のシンボルです。目の前には広く太平洋が広がり、牡鹿半島、遠くには蔵王連峰、そして時には相馬地方の山並みまで見ることができます。そして春には桜、ツツジの名所として多くの市民が訪れる憩いの場所でもあります。標高約56mの小高い山は、2011年3月11日の東日本大震災時、数えきれない人が避難した命の山となりました。そして避難してきた人々は、降りしきる雪の中、信じられない光景を目にします。高さ6mを超える大津波が目の前の街並みや車を押し流し、同時に発生した津波火災によって燃え上がる街の景色です。人々は、絶望感とともに家族、友人の無事を祈りながら夜を明かしたのです。』
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2011年3月11日15時26分日和山公園。津波の様子を見る人たち。(写真提供:㈱石巻日日新聞社)
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津波による浸水深の状況。※浸水深は平成23年6月までの現地踏査結果による。
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松尾芭蕉句碑へ。
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松尾芭蕉句碑は鹿島御児神社の鳥居の先にあります。
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松尾芭蕉句碑…『「雲折〱人を休める月見かな」大意…(月見をしていると月に見とれてしまい、我を忘れるが、ときどき月が雲に隠れたときに一息つくことができる。)松尾芭蕉(1644-1694)の句で、西行の歌「なかなかに時々雲のかかるこそ月をもてなすかざりなりけり」を踏まえて作られ、句集「春の日」・「続虚栗(ぞくみなしぐり)」等に収められている。1685年(貞享2)、芭蕉42歳の句であると推定されている。芭蕉の墓は義仲寺(ぎちゅうじ・滋賀県大津市)にあるが、義仲寺に詣でることができない蕉門の俳人等が各地に芭蕉の供養碑を建立した。この碑もそのひとつとして芭蕉が訪れた日和山に建てられたものと推定される。芭蕉の供養碑を収録した「諸国翁墳記」には「月見塚」として掲載されている。碑の上部中心に「芭蕉翁」、その下に三行分かち書きで句が刻まれている。碑文によれば、1748年(延享5)3月に雲裡坊(うんりぼう)門人等により建立された碑である。雲裡坊は、尾張出身の俳人で、蕉門十哲の一人各務支考(かがみしこう)の弟子である。1741年ごろ仙台に招かれ滞在し門人を養成していた。その後、1743年には、義仲寺の無名庵五世となっている。』
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その他、日和山公園内の門馬重作翁之像、種田山頭火句碑、筆塚碑、川村孫兵衛像、石巻開港記念碑、保原花好句碑、釈迢空歌碑、石川啄木歌碑、新田次郎歌碑、フランク安田顕彰碑など色々と紹介したかったのですがタイムアップ。
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文学の散歩道案内図。
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最後に撮った桜の碑「花心有情」という碑ですが、急に暗くなってしまい読み取れませんでした。「南風に乗って海鳴が聞こえてくる 春霞が立ちこめ日和が丘は 桜の花で彩られ 喜びに溢れている 私達に先輩たちの心を引きつがせるかのように 日和が丘はそよ風もかるい 喜びを育てよう」だと思いますが自信なし。
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ってことで、以上日和山公園でした。なお、鹿島御児神社については別記事にしております。
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