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盛岡市内丸。
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案内板「国指定史跡盛岡城跡」(所在地:盛岡市内丸1番地ほか。指定年月日:昭和12年4月12日)…『盛岡城は、三戸から不来方に居城の移転を決定した南部信直(盛岡藩初代藩主)が、慶長2年(1597)に嫡子利直(2代藩主)を総奉行として築城を始めたと伝えられ、翌慶長3年(1598)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。城の縄張りは豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二ノ丸・三ノ丸・腰曲輪などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪(御城内)としています。さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀で囲み、南部氏一族や藩の家臣たちの屋敷を配置して外曲輪としました。また、外曲輪の中津川対岸の城下を堀で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪(総構え)が配置されています。築城工事は、北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ、築城開始から36年後の寛永10年(1633)に南部重直(3代藩主)が入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。盛岡城は、廃藩置県の後明治5年(1872)に陸軍省所管となり、明治7年(1874)には内曲輪(御城内)の建物の大半が取り壊され、城内は荒廃しましたが、明治39年(1906)に近代公園の先駆者である長岡安平の設計により岩手公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれています。平成18年(2006)には開園100周年を記念し、「盛岡城跡公園」と愛称をつけました。平成20年10月30日盛岡市』
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下曲輪-三の丸。
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鶴ケ池周辺。
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下曲輪(櫻山神社)の左右に鶴ケ池と亀ケ池があります。
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鶴ケ池。ガス燈や噴水があります。
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櫻山神社の烏帽子岩。
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烏帽子岩付近から見た三の丸瓦門・石垣。
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この付近です。
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三の丸。
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紅葉しております。
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人が多いのは紅葉のせいかと思われます。
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三の丸から見た鶴ケ池(御台所門)方面のイチョウ。
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黄色が映えます。
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石垣はこの部分になります。
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逆に下(台所)から三の丸を見上げるとこのような感じです。
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工事していてあまり近づけませんが。
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三の丸から台所全体を見下ろした図。
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烏帽子岩。櫻山神社本殿裏。
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烏帽子岩(兜岩)のいわれ…『盛岡城築城時、この地を掘り下げたときに、大きさ2丈ばかり突出した大石が出てきました。この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され災害や疫病があった時など、この岩の前で、平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の「お守り岩」として、今日まで崇拝されています。』
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三の丸井戸跡付近。
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石垣。
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この部分です。
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下(台所)から見上げた二の丸・本丸石垣。
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三の丸から二の丸へ。
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車門。
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この付近です。
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啄木歌碑。
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『不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心』
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啄木歌碑…『少年時代の石川啄木が学校の窓から逃げ出して来て、文学書、哲学書を読み、昼寝の夢を結んだ不来方城二の丸がこの地だった。その当時盛岡中学校は内丸通りに在り、岩手公園(盛岡城跡)とは200メートルと離れていなかった。この歌碑は、昭和30年10月、啄木誕生70年を記念して盛岡啄木会の協力で建てられたものである。かつては、ここから岩手山を遠望することができ、盛岡市内も見おろせる風光の地であった。歌碑の文字は、啄木の恩友金田一京助博士の書である。』
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現在の眺望。
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二の丸。
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大書院跡。現在は新渡戸稲造記念碑(新渡戸稲造博士生誕100年記念・「願わくはわれ 太平洋の橋とならん」昭和37年9月)が建立されています。
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二の丸石垣から…
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台所を見下ろすの図。
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二の丸井戸跡付近には、三戸城址の記事で紹介した五訓之森碑や榊山稲荷曲輪跡があります。榊山稲荷曲輪跡は曲輪跡であり、神社自体は残されていません。城下町の総鎮守であった榊山稲荷神社(慶長2年創建)は明治30年に荒川清次郎氏により盛岡市北山2丁目に再興されています。
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消防義魂碑。
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警察彰功碑。
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碑文。
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案内板「二ノ丸の建物」…『二ノ丸は中ノ丸とも呼ばれ、本丸と共に重要な場所でした。二ノ丸は明治39年(1906)の岩手公園整備の際に造成されたため、現在はほぼ同一平坦面になっていますが、藩政時代には南東部が2mほど高くなっており、その上に大書院と呼ばれる御殿がありました。ここでは、さまざまな儀式や儀礼が行われたほか、藩主との対面の場ともなっておりました。二ノ丸南西部の石垣も明治期の公園整備の際に失われましたが、本来は2mほどの高さで西側に延びて喰違虎口を形成し、穴門が設けられていました。北側は、幅3.5m-5mの石土居で囲まれており、北東部には喰違いの虎口に「車門」が設けられていました。西辺部には井戸跡の石組みが残っています。』
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盛岡城跡公園(岩手公園)全体図。
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江戸時代後期の盛岡城(明和3年書上盛岡城下絵図)。
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明治期の公園整備(巖手縣公園設計図)。
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建物配置復元図(江戸時代後期)。
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二の丸から見た渡雲橋。
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【沿革】
・平安時代後期、清原武則の甥橘頼為の本領として『陸奥話記』に記された「逆志方」とは不来方のことであるという説があります。盛岡城は別名不来方城としていますが、厳密には盛岡城の前身であり両者は別の城郭。
・天正18年、陸奥国北部を勢力下に置く南部氏は、安土桃山時代に天下統一を果たした豊臣秀吉より、当主の南部信直が5ヶ郡(閉伊郡、岩手郡、鹿角郡、紫波郡、ならび糠部郡)の所領を安堵。
・天正19年、九戸政実を倒し、三戸城から九戸城(後に福岡城と改称。現在の二戸市福岡)に本拠を移しました。失領していた津軽3ヶ郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地として和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増されて7ヶ郡10万石の所領を安堵。
・文禄元年、蒲生氏郷や浅野長政より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受けて不来方の地を本拠とすべく整地を開始。
・慶長3年、京都にあった南部信直は嫡男の利直に築城を命じて、兵学者の内堀伊豆を普請奉行として築城に着手。これより先は南部氏の臣下である福士慶善淡路が不来方の地に設けた「慶善館」が即ち本来の「不来方城」。福士氏は南部氏が滅ぼした九戸氏と縁戚関係にあり、これを忌避した南部氏が不来方から福士氏を遠ざけたことにより当地は南部氏の居城となりました。
・慶長4年、信直病没。慶長5年、関ヶ原の戦いで利直は東軍に属したため徳川家康より所領を安堵。
・慶長年間(-1615年)には総石垣の城としてほぼ完成し、利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込めて「不来方」から「盛岡」に改称。利直が三の丸を整地した際に見つかった烏帽子岩(宝大石)は現在も三の丸跡に鎮座しており、櫻山神社(旧淡路丸大明神)の社宝として崇敬。築城と共に城下町の建設を進め、中津川以北の湿地帯を埋め立てて市街地とします。また、中津川には「上ノ橋」「中ノ橋」「下ノ橋」(盛岡三橋)が架橋されました。慶長14年、上ノ橋に、慶長16年には中ノ橋に、それぞれ城下町建設を記念して、旧府・三戸から移された青銅製の擬宝珠が付けられました。現存する上ノ橋の擬宝珠は、国の重要美術品に認定。
・寛永10年、盛岡城の全城が竣工(3代藩主重直)。寛永11年に失火により本丸を焼失し、一時、福岡城(九戸城)を居城とします。翌年の寛永12年には修復され、再び盛岡城に戻り、以後、盛岡藩の藩庁として明治維新を迎えます。
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・明治4年、廃藩置県により廃城。
・明治7年、廃城令では当初存城とされましたが、老朽化が著しく一般に払い下げとなり、ほとんどの建物が解体移築。その後、陸軍用地となった土地の建物を除いて旧藩主南部家に払い下げとなります。
・明治39年、岩手県に貸与され、長岡安平の設計により「岩手公園」として開園。
・昭和9年、盛岡市が旧城地を南部家より買収。
・昭和12年、城跡が「濠湟石壁土壘尚ヨク存シ舊規模ノ見ルベキモノアリ」として国の史跡に指定。
・昭和31年、岩手公園として都市計画決定。一般公園として開設。
・昭和55年、総合公園として開設。
・平成元年、日本の都市公園100選選定。
・平成18年、日本100名城(6番)、日本の歴史公園100選に選定。愛称を「盛岡城跡公園」に決定。
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盛岡城跡 ~其之弐』へ続く。
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