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一之鳥居横の普通の民家のお庭が駐車場になっています。ちゃんと「白鳥観音堂駐車場」という看板がありますが、本当にここに停めていいものかちょっとためらいます。
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岩手県二戸市白鳥滝向。県道24号線沿い。浄福寺七滝大明神(七滝神社)付近です。
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かつての白鳥村で寺院として曹洞宗浄福寺、神社として明神社が見えます。
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二之鳥居「平成13年11月吉日細田敏知」。
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観音橋(平成10年8月吉日竣工)を渡ります。
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観音橋を渡ると正面に白鳥観音堂。
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堂宇。
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扁額「七滝山」(平成13年11月)。
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扁額「白鳥観音」(平成4年6月)。
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祀られている観音様は聖観世音菩薩のようです。
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私が見逃していなければ、灯籠と狛犬はそれぞれ一基ずつ。
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狛犬(田村喜代隆建立)の紀年銘は平成元年5月吉日なので、恐らく洪水の影響かも知れませんね。
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境内案内板より…『【白鳥観世音菩薩】九戸城の北側を流れる白鳥川は折爪岳に源を発し、長年の浸食で切り立った断崖絶壁を形成し、福岡落久保で馬渕川と合流する。今は静かに流れるこの川が言い伝えによると4、500年前大洪水となって人家や田畑を押し流した。その時白鳥村の白鳥観音も流され合流直前の岩谷橋下の藤の木のつるにからまっているのを地元の人に拾い上げられた。そして、その場の岩穴にお堂を造って祭られたのが糠部三十三観音の一つである岩谷観音として現在に至っている。伝えによれば、白鳥観音は今から950-960年前、安部氏がこの地を治めていた頃、安部一族の手により住民の無病息災家内安全豊作を祈願する為祭られたものであるといわれている。この度、代々の祖父より語り継がれてきた。白鳥観音堂の故地を整備し、新たに観音菩薩を安置して堂宇を再建し、地域住民の拠所として、永く子々孫々に伝えようと発願するものである。平成2年10月吉日。建立者:田村喜代隆。縁日:毎月旧暦17日。【白鳥観音堂再建の由来】500年もの昔、洪水により流失したという白鳥観音。以来ここ白鳥には、観音像を失ったほこらと伝承だけが残されていたが、平成2年10月、新たな観音像とともに観音堂を再建。多くの参拝者を迎えることができるようになった。しかし平成11年10月28日の大豪雨により白鳥川が氾濫、観音像は残ったものの前年に架け替えた御堂へと通じる太鼓橋もろとも、観音堂は濁流に呑まれてしまった。被災から3年、国の災害復旧護岸工事の開始を契機に再び観音堂の修復に着手することとなった。平成13年の春、地区民から寄せられた建設資金と労力奉仕により始められた再建工事も秋には完成。11月11日、落慶の日を迎えるとともに白鳥観音は地域の信仰の拠り所としてよみがえった。平成13年11月吉日白鳥観音堂保存会』
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堂宇横の不自然な穴。
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かつてはここに何かが祀られていたのでしょう。もしくはかつての御本尊が祀られていた場所かも知れませんね。特に説明はありませんでした。
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さて、観音橋を戻ります。
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こちらの建物はバッタリー小屋。
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バッタリー。現在は使われていません。
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19.5
復元した「バッタリー」について…『一.「バッタリー」は、先人達の知恵から生まれたもので、水車ができる以前から使用されて当時の暮らしには欠かすことの出来なかったものでした。「バッタリー」は渓流の水を利用し水車と共に雑穀の精穀等に用いられ、戦前の生活にはなくてはならない重要な役割を担っていました。二.かつては山間の集落であればどこにでもありましたが、昭和23年のアイオン台風、24年のカザリン台風、この2つの大型台風のためにその殆どが流失してしまいました。流失前は、白鳥地区には個人所有のものが24基あったようです。その内訳は次のとおりです。石倉4基、小峠5基、馬飼沢2基、松倉2基、小祝9基、高田1基、西ノ沢1基。三.この「バッタリー」を戦後生れの人たち、そして現在の子供達に知っていただけるようにと、多くの方々の協力を得て復元したものです。この復元された「バッタリー」が末永く愛され先人達の知恵と生活を知る一助になれば幸いです。調査・文…田村喜代隆。平成16年5月吉日。建立…白鳥観音堂保存会。施工協力…㈱北岩手開発・㈲陳場工務店』※カザリン(カスリーン)台風は昭和22年、アイオン台風は昭和23年です。
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