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九戸城跡 ~ 其之弐』からの続き。
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北東櫓跡付近から本丸追手門へ。桝形になっています。
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本丸追手門跡。
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石祠がありました。
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本丸追手門跡…『二ノ丸から本丸へ入る虎口の1つで、追手門跡と呼ばれています。南北双方から伸びる土塁がここでクランク状に屈曲しており、桝形となっています。この桝形は戦国時代末期(16世紀後半)に特色的に見られる虎口の形態で、敵の軍勢が一挙に攻め込みにくい形の防御施設です。現在二ノ丸とは土橋で繋っていますが、当時石垣の築かれていたこの空堀には土橋は無く、木橋が架かっていたと思われます。』
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二ノ丸とは土橋で繋がっています。追手門と二ノ丸の間の空堀。
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搦手門跡…『二ノ丸から外館(石沢館)、若狭館、三ノ丸方面への虎口跡です。城の表玄関にあたる大手に対し城の裏手を搦手といいました。この付近から外館前の堀底道を通り九戸城の裏側に当る白鳥川まで小径が続いていますが、これは当時からの古い道と考えられ、九戸氏のもう一つの本拠地九戸村へもこちら側から往来してきたと思われます。』
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二ノ丸搦手の古碑郡。まずは土井晩翠歌碑「荒城の月」。昭和14年(1939)、リンゴ狩りに訪れた晩翠が九戸城の悲話を聞き書き残した碑です。※裏面碑文では昭和18年。
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裏面碑文(状態悪く良く見えません。間違っているかも)…『昭和18年の秋土井晩翠先生みちのくの林檎園を見まはしとて當地に杖をひかれし際余の案内にとこの古城に登る願望低徊した感に堪えざりしもの如く宿に帰るや直ちに筆を呵して書かれたるは名吟荒城の月の前二節にして碑面の詩は即ちそれなり友人故北城木村喜一郎君この城下に十和田果汁研究所を營みて功を収む甞て余に記念碑を建てんことを約して果さず息啓一郎君その遺志を継ぎ茲に先生の真筆を石に刻して永く傳えんとすよって由耒を録すと云爾 昭和34年4月10日皇太子殿下御成婚の吉日 小保内如葵織 因に此の詩は四将よりなり後二節はこの古城の姿をよく歌えるに似たり即ち いま荒城のよはの月変わらぬ光たがためぞ 垣に残るはただかつら松に歌うはただあらし 天上影は変らねど榮枯は移る世の姿 写さんとてか今もなほあゝ荒城のよわの月 花巻市 今孫清六刻』
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金毘羅大権現を刻む石灯篭と庚申・廿三夜塔。
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九戸城懐古詩碑。ローマ字の先駆者である田中舘愛橘博士(二戸市出身)による九戸城の悲劇を悼む碑。漢詩とローマ字の読み下し文を刻んだ珍しいものです。
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漢詩(ローマ字省略)…『山河天険護狐城 支得豊家二萬兵 地接強藩遥為援 武凌上國足争勇 醜僧誤事生前恨 烈士殉君身後名 今日英魂有誰吊 故墟風雨老狐啼』※間違ってるかも。
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聖徳太子碑。
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石段の先にも石碑が見えます。
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九戸城戦歿者供養塔。
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二ノ丸搦手…『搦手は正面である大手に対し、裏口を意味します。二ノ丸の出入口である虎口の一つで、大手と同様に城郭を理解する上で重要な道筋です。二ノ丸搦手は二ノ丸大手と同じく、南部信直の居城であった福岡城の普請時に改修したと推定されます。現状では細い通路になっていますが、古絵図の中には、二ノ丸大手と同じく方形の空間をもった桝形の虎口が描かれているものがあります。二ノ丸搦手から堀底道を通り、若狭舘、石沢舘、三ノ丸の各曲輪へ行くことができます。また、九戸氏の本拠地であった九戸方面への道筋にも通じていることから、九戸氏の時代から重要な虎口であった可能性があります。平成27年に実施した地中電気探査では虎口に関連がある階段状の遺構の存在が確認されています。』
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この付近です。
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石沢舘(外舘)に向かいます。
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石沢館跡。九戸城期の姿を留めているのは石沢館、若狭館と推定されており、九戸政実関連記事としましてはこの石沢館と、下記の若狭館がメインともいえます。
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石沢館跡から見た二ノ丸。遠くに國分謙吉・農事試験場記念碑が見えます。
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外館(石澤館)跡…『若狭館とともに曲線的な造りの曲輪です。本丸、二ノ丸、松ノ丸が直線的で桝形や石垣を伴うなど近世的な特色が強く見られるのに対して、中世の城郭のたたずまいをよく残しており、青森県根城跡浪岡城跡などを構成する曲輪によく似ています。』
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堀跡を通って石沢館跡から若狭館跡を目指します。九戸村、姫五輪方面への道筋もあります。
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途中変な動物を見ましたが目が悪くてよくわかりませんでした。
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若狭館跡です。
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若狭館跡…『石沢館(外館)とともに九戸城の曲輪の中では古い時期のものと考えられます。本丸や二ノ丸、松ノ丸が直線的で近世の要素が強く感じられるのに対して、曲線的な造りであり青森県根城跡浪岡城跡など東北地方北半の代表的な中世城郭を構成する曲輪によく似ています。』
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案内板「九戸政実 戦国ダンシ」案内板より…『【九戸政実とは】豊臣秀吉天下統一最後の相手。【九戸氏の始まり】九戸氏は、南部氏の始祖光行(みつゆき)の六男・行連(ゆきつら)を祖先とする南部一族で、九戸郡(現在の九戸村と軽米町)を領地としたと伝えられています(南北朝期にこの地を支配していた結城氏の総大将小笠原氏の末裔という説もあり)。【九戸政実の生い立ち】政実は天文5年(1536年)に九戸村の大名館(だいみょうだて)で生まれたと伝えられています。成長した政実は、武将としての力量に優れ、永禄12年(1569年)には安東氏との戦いで鹿角郡を奪還、また葛西氏の勢力下にあった現在の金ヶ崎まで攻め込むなど勢力を拡大したといわれています。対等な立場でこの地方を治めてきた九戸氏と南部氏ですが、この頃より関係が崩れてきます。南部家24代党首晴政が死去、その葬儀の帰り際に後継者である晴継(はるつぐ)が暗殺されるという事件が起きます。急遽次期後継者を決める重臣会議が行われ、北信愛(きたのぶちか)によって第26代当主は田子信直(たっこのぶなお)だと強引に決定されました。またその後には、晴継の葬儀の日に信直が襲撃されるなど、九戸氏と南部氏との対立が深まります。【九戸政実の乱(九戸一揆)】天正18年(1590年)、小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、領主の配置換えや検地などで奥州の制圧を進めますが、強引なやり方に反発した者が各地で蜂起します。翌年、三戸城での年貢の挨拶に政実は欠席し、南部氏との対立を表明することになります。3月になると政実と信直は本格的な戦闘状態となり激しい攻防が繰り広げられました。政実に優位になられた信直は秀吉に援軍を要請します。豊臣秀次を総大将に、蒲生氏郷(がもううじさと)、浅野長政(あさのながまさ)、堀尾吉晴(ほりおよしはる)、井伊直政(いいなおまさ)らの武将で編成された中央軍、その兵力は3万5千であったと言われています。8月下旬には信直を初めとする南部軍の3万とあわせて合計6万5千の兵に包囲された九戸城ですが、政実はわずか5千の兵で籠城し、互角以上の戦いをみせます。業を煮やした中央軍は、長興寺の薩天和尚を仲介として、偽りの和議を申し込みました。この和議に対して謀略ではないかと反対する者もありましたが、一人でも多くの一族郎党を救おうという思いから、政実は中央軍に投降します。しかし、その後中央軍は開門した城内になだれ込み、火が放たれ、城内の者は撫で斬りにされたと伝えられています。連行された政実は、中央軍総大将豊臣秀次の指示により、三ノ迫(さんのはざま)にて斬首されます。政実は享年56歳であったと伝えられています。言い伝えでは、斬首された政実の首は家臣が密かに地元まで持ち帰り、九戸神社近くの山中に埋めたと言われています。これ以降、豊臣秀吉に対して組織的に対抗したものはおらず、この「九戸政実の乱」こそ、「豊臣秀吉天下統一最後の戦い」でした。』
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