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日本百名城根城。南北朝時代の南朝方の武将・南部師行(なんぶもろゆき)が、はるばる甲斐の国、現在の山梨県身延町からやってきて、建武元年(1334年)に築城し、以来領地替えにより使われなくなるまで(師行の子孫が寛永4年に岩手県の遠野市に移住するまで)約300年間八戸地方の中心でした。本丸のほか中館、東善寺館など合わせて8つの郭からなる平城で約18万平方メートルの城跡です。昭和16年に国の指定を受けています。中世から近世にかけて郭全体の復原は全国でも初めての試みとされ、11年間の発掘調査をもとに平成6年10月オープン。根城本丸は、城としての機能が最も充実した安土桃山時代の姿を忠実に復原。主殿や工房・納屋・馬屋などの建物が忠実に復原され当時の面影を現代に伝えています。調査では、掘立柱建物跡354棟、竪穴建物跡82棟をはじめ門、塀、柵跡などが多数発見。根城は大規模な建て替えだけで16回、合わせて17の時期にわかれ、復原整備は本丸の建物跡が最も良好に残っている第16期(安土桃山時代)を対象に行われました。
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到着してしばらくしたら天気が急変!史跡根城の広場(本丸)は傘の貸し出しがあって何とか回れましたが、周辺の沢里館や三番堀、岡前館、西ノ沢等は紹介しません。より詳細な文献等がたくさんございますが、当記事の内容についてはパンフレット並びに案内板・標柱のみを参照し簡潔に紹介します。また、八戸市博物館内(考古展示・歴史展示・民俗展示・無料資料展示・縄文の部屋)については省略します。なお、根城の広場・博物館共通券があります(広場内は無料、本丸のみ有料)。休場日があるので、HP等で事前にご確認することをおすすめします。
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八戸市博物館前の南部師行公像。
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南部師行公…『元弘3年(1333)、後醍醐天皇は、奥州を治めるため北畠顕家(あきいえ)を陸奥守に任じました。顕家は、天皇の第8皇子義良(のりよし)親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国府に赴任しましたが、このとき甲州(山梨県身延町)出身の南部師行(もろゆき)等もこれに従い陸奥に向かいました。建武元年(1334)、師行は広大な陸奥国の北半を治めるため根城を築き、国司の代官として南朝方の中心的な存在となって活躍しました。しかし、延元3年(1338)5月22日、師行は、北朝方の足利軍との戦いに破れ、泉州堺浦(大阪府堺市石津)で主君の北畠顕家と共に討ち死にし、二度と八戸の地を踏むことはありませんでした。その後、師行の子孫達は、寛永4年(1627)に遠野へ移るまでの約300年間にわたりこの地に住み続け、八戸発展の基礎を築きました。21世紀の初めの記念すべき年に、根城南部氏の歴史を振り返り、このまちがさらに発展していくことを願って、南部師行公の銅像を建立します。なお、建立にあたって、根城史跡保存会(会長正部家種康氏)を始め多くの方々から協力を賜ったことを記します。2001年7月吉日八戸市長中里信男』
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「八戸市史跡根城の広場」総合案内板。
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総合案内板…『根城は、建武元年(1334)南部師行により築城されたと伝えられています。根城の南部氏は、南北朝時代には奥州における南朝方の中心的な存在として活躍しており、その領地は、当時糠部郡と呼ばれた広大な地域の中や津軽、秋田県の比内・仙北・鹿角、岩手県の閉伊、遠野にも認められます。しかし、南朝方が劣勢になるに従い、根城の南部氏も次第に勢力が弱まり、寛永4年(1627)には岩手県の遠野へ移封となりました。この城跡は、昭和16年12月13日に国史跡に指定されています。(指定地面積約18.3ha)現在、根城には、本丸・中館・岡前館・東善寺・沢里館等の郭や多くの堀が良好に残っており、このうち、本丸については、発掘で発見された建物跡を基に立体復原も行われております。』
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日本百名城根城…『財団法人日本城郭協会が創立40周年を迎えるにあたり、その記念事業として全国から百の名城を選定して認定書を交付しました。根城は、本丸や各郭などの保存状態が良く縄張りが明確であり、主殿やその他の建造物など復原整備もよくなされた優れた文化財であること、日本の城郭発達史上、中世城館として地域を代表する城跡であることなどが認められ、日本百名城に認定されました。』
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旧八戸城東門。江戸時代の八戸城東門。元々は根城の大手門。
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旧八戸城東門(八戸市有形文化財・平成5年6月3日指定)…『この門は、八戸城の東門で安政6年(1857)の大風のため倒れ、家臣の木幡氏の門として建て替えられました。伝承によればもともと根城にあった門を八戸城に移したといわれています。』
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堀跡。
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階段で堀へ降りれるようになっています。
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堀跡…『堀は、地面を深く掘りこみ、敵の侵入を防ぐためにつくられたものです。この堀跡は本丸や中館の堀と並ぶ大きなV字形の空堀で、三番堀とともに城の東側を守る重要な施設です。また現在博物館のある東構地区から、発掘調査で屋敷跡がみつかっていますので、この地区も、根城の城内に含まれると考えられます。』
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薬草園。八戸地方に自生する植物を含め、古くから伝わる代表的な薬草薬木を植えています。主に4月には、れんぎょう、こぶし、からたち。5月には、さんざし、ぼけ、かりんなど。6月には、ぼたん、すいかずら、うつぎ。7月には、むくげ、みそはぎ、きりんそう。8月には、しらん、みずひき、うつぼくさなど季節の折々に咲く花々を楽しめます。
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薬草園…『根城南部家が岩手県の遠野へ移封された後の様子を伝える「遠野古事記」には、城の中に薬草になる植物が植えられていた記録が残されています。西洋医学が伝わる以前は、身近にある植物などを利用し、病気や怪我の治療が行われていました。ここには、この地方に自生する植物を含め、古くから伝わる代表的な薬草を植えております。』
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薬草園の隣に東善寺跡。根城跡の北東に位置しており、根城の祈願所東善寺があった場所と伝えます。
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東善寺は真言宗で、南部氏とともに住職が遠野へ移住したとき、建物はここに残っていたといわれています。後に八戸藩二万石の祈祷所として八戸城二の丸(北東隅)に移されて鬼門鎮護の寺となり、延宝3年に「豊山寺(ぶざんじ)」と改称(南部領内に同じ寺名が三カ寺もあったため)。末寺としては八戸の永久寺、是川の福善寺、田面木の善照院がありました。明治4年の神仏分離によって廃寺。
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現在は一部墓地となっていました。この墓地は豊山寺住職だった豊山氏とその関係者のものです。
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園路に沿って進みます。
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実のなる木(梅、桃ほか)。
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実のなる木…『城の中には、籠城に備え、ふだんから食糧が蓄えられていました。籠城が長引き食糧が尽きたときは、あらゆる草・木も食べなければならなかったため、城には実のなる木が必ず植えられていたと考えられます。ここには、発掘調査で出土した種子の鑑定結果をもとに、籠城に備え植えられたと考えられる「実のなる木」を展示しています。』
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観賞の対象となった木(しだれ桜ほか)。
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観賞の対象となった木…『中世の城跡の中で、堀や井戸跡などのように水が湧き出す所を発掘すると、樹木などが腐らずに発見されることがあります。これらの中には、桜や松などが含まれていることから、武将たちが木々の花や枝ぶりを鑑賞していたと考えられます。なお、城内の「しだれ桜」は、根城南部家の初代当主「南部実長」が手厚く保護した日蓮宗の総本山「久遠寺」にある見事なしだれ桜の古木に倣って植えたものです。』
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通路跡と花菖蒲。
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通路跡…『この通路は、堀を埋め戻した上に砂利などを敷いてつくられました。通路は中央部で広がり二手にわかれますが、この分岐点から中館側(左手)は、掘立柱建物や溝などに壊されており、通路として使わなくなったことがわかりました。もう一方の通路は、下町方向にのびると考えられます。通路の発見は、根城では初めての貴重な例です。』
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通路跡を歩いてみました。他の郭より一段低い三角形の郭です。下の写真は二手にわかれる分岐点から見た伝護摩堂跡・下町方面。
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中館側。
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堀跡…『この堀は、幅が狭く傾斜が急なV字形の空堀です。発掘調査で堀が発見されたため、中館の東隣りに、他の郭より一段低い三角形の郭があることがわかりました。ここを何と呼んでいたか、全く記録や伝承は残されていません。その後この堀は埋められて通路がつくられたりしており、三角形の郭の性格も変化していったと考えられます。』
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再び園路に戻り中館方面へ…
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で、再び堀跡案内板…『この堀は、V字形の空堀ですが、現在でも1mほど掘ると水が湧くことから、堀底を水が流れていたことも考えられます。堀の規模は、本丸や東善寺館と並び、根城の中では大きい方です。また、城の中央を東西に横切る国道も堀跡であったと推定されており、その堀を境にして、郭の区画が北側は三角形等、南側は短冊型になっています。』
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堀跡に沿って進んだ先に…
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中館の四阿。茅葺きの建物の四阿は、発掘調査で発見された建物跡に復原したもので、元々は馬屋であったと考えられています。中館から見下ろせる一段低いところは下町で、住居や作業場が見つかったため、お城に仕える人たちが住んでいたところと考えられます。
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中館は根城の重臣中館氏の屋敷があったところといわれています。
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中館中央に屋外模型がありました。
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史跡根城の広場全体屋外模型…『右側が根城跡の郭や堀跡などの縄張りを示した根城跡全体(300分の1)、左側が本丸跡の復原建造物を詳細に示した本丸跡全体(50分の1)を現しています。<根城跡全体模型>根城は、西側に本丸、その北東側に中館・東善寺館、国道を挟んだ南東側に、岡前館(住宅地)と沢里館があります。東善寺館・岡前館の東側から沢里館にかけて三番堀が巡らされて、本丸の西側に西ノ沢、城郭の北側に馬淵川があり、各郭ごとに巡らされた堀と自然地形をうまく利用した堅固な城跡となっております。この史跡全体の面積は約18万平方メートルあります。<本丸跡・全体模型>本丸跡は、全体が柵で囲まれ、入口は、中館と本丸の間の堀に渡した木橋から通じる東門(通常の入口)と北門及び西門があります。本丸内は、中央に主殿が造られ、その南側に常御殿・奥御殿(平面表示)があります。北側には、北門から通じる中馬屋、下馬屋(平面表示)、西側に物見・番所、常御殿の西側には工房、南側には野鍛冶場・鍛冶工房、奥御殿の南側に、板倉、東門の南側には、納屋が三棟あります。これらは、全て復原建造物で、それぞれの建物内では当時の様子を表現した展示を行っております。根城は、本丸や各郭の立地・縄張りなどがよく保存・復原されている優れた史跡(文化財)であること、日本の城郭発達史上、典型的な中世城郭として、地域的特色を代表する城跡であることなどが認められ、「城の日」にちなみ平成18年4月6日に日本百名城に認定された。』
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長くなりましたので、『根城跡~其之弐(八戸市)』へ続く。
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