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道の駅あきた港、通称「セリオン」は1992年2月に建設が着手され、1994年4月に「秋田ポートタワー」としてオープン。翌1995年5月にはガラス張り屋内緑地スペース「セリオンリスタ」がオープン。翌1996年7月に「セリオンプラザ」がオープン。現在は道の駅あきた港として、秋田の地元の野菜・果物・物産などが購入できたり、ファミリーが遊びに来れるような室内緑地スペースからちびっ子コーナー、映画鑑賞ができるようなイベントも開催されています。
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「トラックフェスタ2019」他、色々なイベントが行われていました。
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ランチのために立ち寄っただけなのでイベント等は見ていませんが。
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懐かしのうどん・そば自販機。
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昭和48年に佐原商店が秋田市土崎港西1丁目の県道沿いに「うどんそば自販機」を設置。この自販機は40年以上継続して利用され、全国的にも珍しいものでした。平成27年3月6日放送のNHKドキュメント72時間で紹介されて有名になりましたが、翌年3月に佐原商店社長が高齢を理由に廃業を決定。しかし全国から撤去しないで欲しいとの要望が多数寄せられたため、佐原商店と東北ダイケン秋田支店との間でうどんそば自販機の譲渡で合意し、道の駅「あきた港」に設置されて、うどんそば自販機が営業再開(※24時間営業ではありません)。
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現在も人気のようで、また、タイミングも悪くお湯切れ状態。
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再開予定時間が意外にあったのでやめました。ちなみにお持ち帰り用でも売られています。
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ってことでポートタワーセリオン1Fにある土崎湊屋へ。
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海鮮丼を頂きました。海老のヒゲが…
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長っ!!
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ポートタワーセリオン内を見学。
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秋田港の歴史遺産…『古くから日本海有数の港として栄えた秋田港は、雄物川から流れ込む土砂や日本海の荒波により河口の位置や水流が移動することに悩まされてきました。明治に入り、汽船の時代になると、土砂の堆積や河口の移動が、一層、深刻な問題となりました。汽船により大型化した船舶の接岸が困難なのです。秋田港を大型船が停泊できる港にしたいという願いは築港運動となり、1885年(明治18年)に内務省土木技師、古市公威博士の指導により「古市波止場」が完成しました。長さ約667m、高さ2.4mの秋田港初の係船岸壁です。日本海から世界に向けた北東北のゲートウェイとして発展を続けている秋田港に息づく、先人の努力を伝える歴史遺産を紹介します。』
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選奨土木遺産…『古市波止場の完成の後、港の整備は続けられ、1902年(明治35年に)広井波止場、1935年(正和10年)には南防波堤が完成しました。広井波止場と南防波堤は、2007年(平成19年)、歴史上貴重な土木構造物の保存を目的とした選奨土木遺産に認定されました。』
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268mの軍艦防波堤…『秋田港は、かつては土崎港と称していましたが、1941年(昭和16年)、南秋田郡土崎港町が秋田市と合併したことから、港の名前も秋田港と改称されました。同じ1941年からはじまった太平洋戦争は、秋田港にも大きな爪痕を残します。終戦前日の土崎大空襲(1945年/昭和20年8月14日)により港は大きな被害を受けます。さらに、海底にたまった砂を掘りだす浚渫船2隻が爆撃により沈没したことから、終戦後、港内にたまった砂を浚渫することができません。資材も乏しい戦後の混乱期、廃港の危機に立たされた秋田港は、旧軍艦を沈め防波堤を造るという住民の英和により復興します。1948年(昭和23年)駆逐艦「栃・竹」、海防艦「伊唐」の三隻が沈められ、長さ約268m、高さ6m、幅8mの北防波堤が築堤されました。その後、たびたび補修されながら四半世紀にわたり荒波をさえぎり、1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに取り除かれ、その役目を終えました。軍艦の再利用により復興した秋田港の歴史は、戦争の時代から平和な時代への転換を物語っています。現在は、北防波堤の付け根部分の長さ30mに面影が残っています。』
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秋田港の沿革…『秋田港は、県内最大河川である雄物川の河口に発達した港です。元は、土崎港と称していましたが1941年(昭和16年)の土崎港町と秋田市の合併により秋田港と改称されました。秋田港は、秋田杉や米など特産品の移出港として栄え、1602年(慶長7年)に佐竹義宣候が水戸より移封されてからは、佐竹20万石の台所を支える要港として栄えました。さらに、1672年(寛文12年)に「西廻り航路」が開設されると、北前船が往来し、海運の隆盛とともに秋田港は繁栄し、経済・文化の交流も促進しました。明治に入り、和船、帆船から汽船の時代になると、季節風と流砂の堆積等による河口移動への対策が急を要し、1885年(明治18年)に内務省土木技術古市公威博士の指導により「古市波止場」が完成し、初めて秋田港に係船岸壁が出来ました。1902年(明治35年)には、小樽から工科大学教授の広井勇博士を招き「広井波止場」も完成しました。大正時代に入ると、本格的な築港運動が展開され「港の修築は雄物川の改修から」と雄物川本流を分流し、増水被害や流下土砂による埋没を防ぐため、国の直轄事業により1917年(大正6年)から画期的な勝平山の開削工事を開始し、1938年(昭和13年)放水路に導水し完成しました。秋田港の近代港湾としての本格的な整備は、1965年(昭和40年)に秋田湾地区新産業都市の指定後で、同年、中島地区に大型港湾への第一歩として1万トン岸壁が完成、大浜地区の掘込港湾、外港への埋立港湾として展開し、最大4万トン級の船舶が接岸できる岸壁が整備されています。秋田港は、産業拠点、物流拠点としての役割の他、生活空間として1988年(昭和63年)、本港地区の再開発を目的としたポートルネッサンス21事業計画がスタートし、ポートタワーセリオンが平成6年、セリオンリスタが平成7年にオープンして県民に憩いの場が提供されています。また、環日本海交流が活発化し、平成7年11月に韓国釜山港との間にコンテナ航路が開設され、コンテナ貨物は年々増加しております。また、平成11年7月に苫小牧、新潟及び敦賀を結ぶ長距離カーフェリーが就航し、平成の北前船として国内物流、観光の両面で新たな発展が期待されています。秋田港は、日本海から世界に向け、産業、物流、交流の拠点港として、一歩一歩前進しています。』
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ポートタワー・セリオン。
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全高143m。6,272枚の強化ガラスで囲まれたガラスタワーとのことで、高所恐怖症の私はまったく興味の無いタワーなわけですが、付き合いで行くことになりました。
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プロ野球・北海道日本ハムファイターズの吉田輝星が仮契約・入団会見にこの場所を選択し(仮契約及び会見はセリオンリスタ、イベント広場で写真撮影、展望ホールの窓にサイン)、3階ギャラリーの秋田港駅側ガラスにサインをしました。
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吉田輝星ファーストサインです。
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ちなみにポートタワー・セリオンではグッズも売られていました。
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それでは景色をお楽しみください。
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特に説明はございません。
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高所恐怖症の私ですが、ここは全然怖くありませんでした。
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ご当地愛ス「ババヘラ・ソフト」。
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ソフトは初めて!ってことで頂きました。
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