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青森県むつ市旭町。むつ運動公園のテニスコート付近にある山林の中にひっそりと鎮座。
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明和4年勧請。田名部町の旧家山本家の先祖7代市朗兵衛が、この地域の開墾を始めた頃、市朗兵衛が五穀豊穣と農民の無病息災を祈願して建立したものと考えられています。
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社殿。
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昭和46年に再建。
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社殿内には旧柱3本が残され、柴五郎の兄太一郎が詠んだ歌や、五郎が陸軍大将を退官し、昔を偲んで落野澤を訪れた際にこの柱に書かれた太一郎の歌に感動して、自ら記した歌も残されているそうです。
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また、呑香稲荷神社奉納物の俳諧額2面は市指定有形文化財。A面は文政8年(1825)4月の奉納。額には39人の句が記されており、田名部の俳人等に加え、函館や気仙沼の代表的な俳人の作もあります。
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B面は文政10年(1827)9月に奉納。傷みで文字の判別が難しいものの30数人の句が記されていたと推測されます。当時の田名部文壇の隆盛や、商人を介して他地域文壇との交流が広がっている様子がうかがえることから、下北の文芸史を振り返る上で貴重な歴史資料として文化財に指定。※写真はパンフレットより 
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社殿横の意味深な石垣。
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軽く周囲を探索。
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10.5
旧斗南藩柴五郎一家居住跡の案内板がありました。
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旧斗南藩柴五郎一家居住跡…『明治維新は、斗南藩(旧会津藩)にとって痛恨維新であった。明治3年斗南藩では、士族授産を目途として、当地落の沢を相し松ヶ丘に荒川の渓流を引き、三十余戸の住宅を築造した。柴五郎(後の陸軍大将)が少年期に家族とともに同年9月田名部に到着。厳寒のここ落の沢で越冬した。寒気肌をさし、夜を徹して狐の遠吠えを聞き、五郎の厳父佐多蔵は「ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と言ったという。(「会津人柴五郎の遺書」より)明治4年廃藩置県により、忽然と士族授産は消え失せ士族は四散せざるを得なかった。斗南士族の胸中には、「まこと流罪にほかならず、挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」という憎悪と怨念が残るのみであった。』
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