1
青森県むつ市新町。
2
曹洞宗吉祥山円通寺。恐山菩提寺の本坊。御本尊は釈迦如来。
3
3.4
3.8
室町時代後期の大永2年(1522)、南部氏の援助により曹洞宗の僧聚覚によって創建(下総国東昌寺末寺として東昌寺3世覚翁能正の弟子宏智聚覚の開山)。聚覚和尚は享禄3年(1530)に恐山菩提寺を再興し恐山菩提寺の本坊となっています。その後衰微するも万治2年(1659)に根城南部家が東昌寺6世大休善遊を招き中興し東昌寺(茨城県猿島郡五霞町)の末寺となっています。寛政11年(1799)に13世千明冠古が恐山の檜1559本を貰い受けて本堂・庫裡・山門を再建。なお、冠古は菅江真澄と交遊し、よく俳諧を好みました。戊辰戦争のうち東北戦争で新政府軍に敗れた会津藩(23万石)が、明治2年に五戸に転封となり、斗南藩(3万石)となりましたが、明治4年に藩庁が円通寺に移されています。
4
平成29年5月に完成した新御本堂。
5
本堂前の松。
6
鐘楼。
7
梵鐘。
8
宝篋印塔。
9
斗南藩史蹟地円通寺標柱。
10
斗南藩史蹟地「円通寺」…『明治維新は会津藩にとって、まさに動乱の時代でした。朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった会津藩は、翌明治2年9月、全国唯一の移封処分を受け最花の地へ挙藩流罪となったのです。ここ円通寺は、明治4年2月18日数え年3才の松平容大公を藩主に迎え、斗南藩の仮館として藩庁が置かれた場所で、容保公、容大公が起居をともにされました。現在も容大公愛玩の布袋像などが保存されています。また、同時に田名部迎町大黒屋文左衛門方に開設中の藩学校日新館もここに移されました。境内にはこの地に残った会津人の手により、明治33年8月容大公揮ごうによる会津藩士の招魂碑が建てられました。碑文は会津藩士族南摩綱紀博士の撰によります。』
11
位牌堂入口。
12
12.5
位牌堂前。
13
左手に慈眼堂。
14
田名部海辺三十三番順禮礼所標示板(市指定有形民俗文化財)保管。
15
正面中央に田名部海辺三十三観音霊場第一番札所、如意輪観音像。更に三十三観音像と十六羅漢像が見えます。両脇には仁王像。
16
左側にも観音像と、上部に地獄絵図。
17
右側には十王堂。
18
位牌堂前にある会津藩士招魂之碑。
19
会津藩士招魂之碑裏面碑文「碑陰記」(石工伊東平太郎)…『明治戊辰之亂會津藩士奮戦各地死者數千人其忠勇節烈凛乎凌風霜矣及亂平生者皆浴一視同仁之澤而死者幽魂獨彷徨寒煙野草之間不得其所吁嗟哀哉今茲庚子爲其三十三年忌辰於是舊藩士居南部下北郡者胥謀建碑圓通寺招魂祭之寺則舊藩主容大公封斗南時所館也 明治三十三年八月 舊會津藩士從五位勲五等南摩綱紀撰并書』※読み下し文…『明治戊辰の乱、会津藩士各地に奮戦す。死者数千人、その忠勇節烈は凛乎(毅然として)として風霜を凌ぐ。乱平ぐに及び生者は皆、一視同仁(差別をつけず全ての人を同じように愛する事)の澤(恩恵)に浴す。而して死者の幽魂は独り寒煙(物寂しい)たる野草の間を彷徨(さまよう)し、その所を得ず。ああ哀しいかな、今茲(ことし)庚子(カノエネ)(明治三十三年の干支)はその三十三年忌辰(命日)なり。是に於いて旧藩士の南部下北郡に居する者、碑を圓通寺に建て、招魂の祭りをあい謀る。この寺は即ち旧藩主容大公の斗南に封せらる時の館なる所也。』
20
位牌堂。
21
六地蔵。
22
小祠。
23
狛犬二対。個性的な狛犬です。この小祠に係る狛犬なのか、違う場所から移されたものなのかはわかりません。
24
24.4
24.8
下調べでは万延元年庚申年建立の庚申塔があったはずなのですが見逃したみたい。それにしてもそうじ小僧さんが多いですね。
25
「掃けば散り 払えばまたも塵り積る 人の心も庭の落葉も」
26
26.5
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ