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二天門。
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明治29年建立。入母屋造瓦葺の楼門。
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初層左右には四天王の増長天と広目天の二天(平安時代の作・妙国寺(大阪府堺市)から寄贈)を安置していることから命名。
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二天門の装飾彫刻。
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二天門の横の門。
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大鐘楼。
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玉垣には渥美清氏を始め、著名人の名が多数刻まれていました。
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柴又七福神・毘沙門天・題経寺…『甲冑を着けた毘沙門天は、インドの神様で右手に宝棒(鉾)を持ち、左手に宝塔を捧げ、足下に悪業煩悩の天邪鬼をふみつけている。仏教の教えを守るとともに、招福・財福を授けてくれる神様である。また、別称多聞天といい、四天王のひとりとして、北方守護神として祀られている。』
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御神水。
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御神水裏の水神。陶製双頭蛇体像がたくさんありました。
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浄行菩薩。
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瑞龍松。これは凄い!
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瑞龍松の根元に南無妙法蓮華経の碑があり、その台座には江戸橋と彫られていました。特に説明はなし…。
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帝釈堂。
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経栄山題経寺(日蓮宗)といい、寛永年間に開基、開山上人を下総中山法華経寺第十九世禅那院日忠上人とし、その弟子の第二代題経院日栄上人が実際の開基。昔より日蓮聖人御親刻といわれる帝釈天の御本尊が安置されていましたが、江戸中期の一時所在不明となっていました。安永年間に至り当山の第九代亨貞院日敬上人はこの寺のお堂が荒廃したのを嘆き、その復興を計ったところ、安永8年の春、本堂改修中の梁上にこの御本尊を見出し、ついに御本尊の再来の法悦にあったのです。その吉日が庚申に当たったことが、当山と庚申の結縁の始まりになりました。日敬上人は自ら誌した略縁起に「本堂棟上より出現した本尊は長さ二尺五寸、幅一尺五寸、厚さ五分の板で、形に似ずまことに重く、且つ堅く媒塵に汚れてよく判らなかったが、水でよく清めたところ、片面は日蓮聖人の真刻、病即消滅本尊の形木、片面は帝釈天王の像である。これこそ疑うべくもなく、当寺相伝の祈祷本尊である。」と非常な驚きと悦びを述べられています。この御本尊の片面には、中央に「南無妙法蓮華経」のお題目が書かれており、両脇には、法華経・薬王品の「この経はこれ閻浮提の人の病の良薬なり、もし人病あらんに、この経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」という経文が彫られており、もう一面には、右手に剣を持ち、左手を開いた忿怒の相をあらわした帝釈天御本尊が彫られています。これは悪魔降伏の尊形であり、即ち我々仏の教えを信仰し、従う者には、もし病難や火難、その他一切の災難に遇えば、帝釈天が必ず守護し、この悪魔を除き退散させてくれるというものです。世は安永が9年で終わり、次いで天明となり、あの飢饉、大疫蔓延の年、即ち天明3年を迎えます。日敬上人は災難に遇っている人々救うはこの時にありと、この板本尊を自ら背負い、江戸をはじめ下総の国の諸処を訪れ、感得した一粒符を多くの病者に施与し、本尊を拝ませて不思議な御利益を授けました。こうして江戸を中心とした帝釈天信仰が高まり、特に江戸時代末期に盛んであった庚申待ちの信仰と結びついて、「宵庚申」の参詣が盛んになります。明冶初期の風俗誌には「庚申の信仰に関連して信ぜらるるものに、南葛飾郡柴又の帝釈天がある。帝釈天はインドの婆羅門教の神で、後、仏法守護の神となったが、支那の風俗より出た庚申とは何の関係もない、此の御本尊は庚申の日に出現したもので、以来庚申の日を縁日として東京方面から小梅曳舟庚申を経て、暗い田圃路を三々五々連立って参り、知る人も知らない人も途中で遇えば、必ずお互いにお早う、お早う、と挨拶していく有様は昔の質朴な風情を見るようである。』と書いています。見渡す限りの葛飾田圃には提灯が続き、これが小梅、曳舟から四ツ木、立石を経て曲金(高砂)の渡しから柴又への道を又千往、新宿を通って柴又へ至る二筋の道に灯が揺れて非常に賑やかだったといいます。人々は帝釈天の本堂で一夜を明かし、一番開帳を受け、庭先に溢れ出る御神水を戴いて家路につきました。
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文化文政の頃、既に6間4面の本堂があり、正面の小さな山門を潜って石畳を進むと、突き当たりに本堂があり、お堂の前には瑞龍の松があり、その右に祖師堂、左に庫裡があったそうです。明治21年本堂の拝殿を建て替え、庫裡を新築。明治29年二天門完成。大正4年帝釈堂内殿の造営を完成。昭和4年帝釈堂拝殿と大客殿の造営を完成。昭和27年祖師堂大改修。昭和30年大鐘楼堂を完成。昭和35年大回廊を完成。昭和40年大客殿前庭を大改修して邃渓園と名付けました。昭和42年外帳場福聚殿を夫々完成。昭和48年鳳翔会館を完成。昭和50年境内西側玉垣を完成。昭和53年祖師堂の大改修。昭和57年南大門並びに玉垣完成。昭和59年庭園をめぐる廻廊が完成。平成3年彫刻ギャラリー完成。平成6年本堂欄間に「群猿遊戯図」を完成。
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装飾彫刻のすべてが見応えありますね。
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題経寺(柴又帝釈天)・諸堂内及び二天門(葛飾区登録有形文化財・平成4年2月5日登録)『帝釈堂、祖師堂、二天門、には多くの木彫による建築浮彫装飾が施されています。特に帝釈堂は設計林門作、棟梁坂田留吉の指導のもとに作られました。内陣外側の胴羽目彫刻10枚は法華経説話を題材にして、加藤寅之助・金子光清・木嶋江運・石川信光・横谷光一・石川銀次朗・加府藤正一・山本一芳・今関光次・小林直光等の彫刻師により制作されました。大正12年(1923)9月、それぞれの彫刻師のもとに運ばれていた欅の彫刻材は、関東大震災によって、すべて焼失しました。その後欅材を全国に求め、発願から十数年の歳月を費やし、10枚の胴羽目彫刻は昭和9年に完成しました。彫刻の下絵は高山栄州が描いています。胴羽目の寸法はそれぞれ縦1.27m、横2.27m、厚さ20cm襖一枚の大きさです。他堂や二天門の内外に、施された彫刻も、同じように貴重なものです。』
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