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山形県米沢市林泉寺1丁目。長尾家、上杉家の菩提寺(直江兼続・武田信清菩提所)。ふれあし観音霊場。拝観料金は堂内300円ですが、この日は丁度法要が行われており、境内拝観(100円)のみとなりました。堂内撮影禁止。
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山門前の石塔。読み取れず。
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現在の山門は門東町にあった竹俣家(今の九里学園高等学校所住地)の門を明治35年に移転したもの。
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家老竹俣当綱当時、藩主上杉鷹山公がくぐられた門。
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元家老竹俣当綱家の門…『この門は、上杉氏10代鷹山公時代の名家老竹俣当綱(1729-1793)家のものであったが、その跡地を受けた売間信任氏の特志により、明治41(1908)年8月、林泉寺に寄進されたものである。もと萱ぶき屋根であったが、損傷と老朽化がはげしいため、平成5年(1993)9月大改修により面目一新した。山主謹白』
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明応5年(1496)に越後国高田(新潟県上越市)の蜂ヶ峯の麓に一宇が建立されます。開山は曹洞宗開祖道元禅師から下って11代にあたる勅特賜宗猷大光禅師、曇英慧應大和尚が、本師である一州正伊大和尚を勧請し開山。開基は越後守護代であった長尾能景公(上杉謙信祖父)が、その父である重景公の勲業を子孫万歳の福基に残そうとの御志願から建立。寺号は長尾重景公の法名である「林泉寺殿實渓正眞大居士」から定められました。山号は長尾景虎公(後の上杉謙信公)が上杉氏を相続された時に、上杉家の氏神である奈良の春日明神を勧請し春日山としました。2代景勝公の折に上杉氏は会津を経て米沢移封(慶長6年)となり、その後、元和3年に萬安大悦大和尚の時に米沢の現在地に移ります。舞鶴城(米沢城)の南現在の地域を選び、高田林泉寺の古規にならって堂塔伽藍を建立。なお、現在の伽藍は享保17年9月に火災に遇った後に建てられたものです。
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春日山林泉寺…『上杉家(長尾家)の菩提寺で、上杉家と共に越後から米沢に移る。境内には、直江兼続・お船夫婦の墓が建あり、直江兼続逝去時の位牌も祀っている。また、藩主妻子や一族の墓所でもあり、重臣たちの墓が並ぶ。』
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春日山林泉寺…『上杉謙信の祖父長尾能景が、父重景の菩提を弔うため、明応5年(1496)に春日山城(新潟県上越市)の麓に開基した曹洞宗寺院。その後、上杉氏と共に会津、米沢に移る。上杉家の菩提寺であり、藩主奥方や子女、上杉支侯家(米沢新田藩主)の廟所の外、直江山城守兼続夫妻の墓や武田信玄の六男信清の墓(共に県指定の史跡)、長尾家・杉原家・吉江家・甘粕家など上杉家重臣の墓が数多くある。斜平山を借景とした庭園は、米沢三名園の一つに数えられている。』
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曹洞宗春日山林泉寺…『この寺は明應5年(1496)に上杉謙信公の祖父長尾能景によって越後・高田(新潟県)に創建され、100年後上杉景勝(2代藩主)の時代に米沢に移りました。旧藩時代、領内曹洞宗寺院の総支配をしていた面影が偲ばれ堂内の諸資料に重厚な歴史がうかがわれます。代々長尾、上杉家の菩提寺ですので、今日でも両家の立派な霊牌が数多く安置され境内には上杉家歴代正室の廟所をはじめ上杉家家臣の墓がたくさんあります。名将直江山城守兼続及び武田信清(武田信玄の六男)の墓は山形県指定史蹟になっております。【拝観の要点】1.釈迦三尊及毘沙門天などのお仏像 2.御開山及天室禅師真筆の巻物 3.上杉家霊牌所と直江兼続真牌 4.鷹山公御書等宝物十数点 5.上杉家祖神春日大明神及山門 6.ふれあし観音さま 7.上杉家廟所並武田信清の墓 8.直江山城守瑩域及万年塔群 9.庭園(米沢三名園の一つ)【行事】●毎週日曜参禅会●随時錬成坐禅会』
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禅定石。
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禅定石…『禅定とは、坐禅によって、きまるところにきまっていることです。人も石も坐禅すればそのまゝ佛なのです。山主』
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境内案内図。
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本堂。
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順路に従ってまわります。
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吉江常陸介宗信の墓。吉江家は桓武天皇より出て平姓・村岡姓・三浦姓・大川戸姓を経て、21代に至って吉江姓を名乗りました。天正10年6月3日、23代吉江宗信が越中魚津城を守り織田信長の大軍と戦い、宗信以下一族5名壮烈な戦死を遂げました。法名永輝院殿顕宗義忠居士。上杉家譜代の重臣として37代連綿として現在に至ります。
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吉江常陸介宗信の墓…『吉江宗信は上杉謙信・景勝に仕えた勇将。子の景資や孫の景泰も謙信の旗本として活躍した。天正10年(1582)6月3日、宗信らは魚津城(富山県)を守り、織田信長の大軍と戦い、宗信以下一族5名が壮烈な戦死を遂げた。信長が本能寺で自害した1日後であった。吉江家は景資の三男長忠が継ぎ、以後上杉家譜代の重臣として仕えた。米沢市』
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万年塔(万年堂)がたくさんあります。万年塔は兼続公によって考案された墓石であり、四角柱の形をした外側の覆いとその中に納められた五輪塔の二重構造で造られているものです。戦時には積み重ねてバリケード(穴は銃眼)となり、洪水の際には土を詰めて土嚢になるようにと考えられたものらしく、米沢市のお寺の至るところで見られます。
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3代定勝公に殉死した三股隼人吉親の墓。九兵衛吉次の二男で、3代上杉定勝公の小姓頭。正保2年9月10日に領主定勝公が42才を以て逝去された折、岩井久親、香坂弥五右衛門と共に追腹殉死。法名正忠院殿傑山勝英居士。
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本堂裏の林泉寺庭園へ。
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林泉寺庭園(米沢三名園の1つ・廻遊式)。西方の斜平山を借景とした雄大なつくりの禅庭。
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本堂裏。
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庭園内の石祠。
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直江墓所(向って左が直江兼続・右がお船の方)。山形県指定史蹟。当時の墓としては珍しく、夫と妻が同じ大きさの墓となっています。
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直江山城守兼続(1560-1619)は初め樋口与六、永禄3年越後魚沼郡上田庄坂戸城に生まれました。父は同城主長尾政景の長臣樋口惣右エ門兼豊、母は山東郡与板の城主、直江大和守親綱の娘。天正9年(1581)に直江家を継いで山城守兼続と称しました。兼続は幼少より才気群を抜き、上杉謙信・景勝の信任厚く、数十年の間藩政を一身に統括し、慶長3年に主君景勝が会津120万石を領した時には、兼続は米沢6万石(一説に、秀吉特命の30万石説あるも、根拠資料未発見)を領し、移封後の領内掌握と、新機軸打出のために敏腕を振るいました。慶長5年、世に天下分け目と云われる関ヶ原の役で石田軍が敗れ、天下の大権は自ら徳川家康に帰しましたが、同6年主君景勝は120万石から米沢30万石に減封となりました。兼続はそのうち5万石を与えられましたが、自分はただ5千石を受けただけで、余りは悉く家中の諸士に分け与えました。兼続は風采堂々、躯幹長大、弁舌爽やか、かつ博学多識であり、殊に文を好んで詩歌をよくし、天文地理・軍学・経済学等…皆達しないものはなく、米沢に於ける学問は兼続に発したと云われる程です。しかも、その居常は極めて簡粗で、身を保つことも謹厳でした。又、その才略は実に雄大であり、米沢城市の建設、荒蕪地の開拓、更には水利の疎通、産業の開発、学問の興隆等…まさに直江侯は米沢開拓の大恩人です。元和5年12月19日、江戸鱗屋敷に於いて病歿。行年60才「達三全智居士」。時の将軍秀忠より香奠として銀70枚を賜りました。享保4年、百回忌に当って、英貔院殿と追謚されました。一方、お船の方は、越後与板の城主、直江大和守景綱の娘で、初め与兵衛信綱に嫁して信綱の歿後、兼続に再嫁しました。その人と為りは、賢明にして胆力がありました。年63才の時、夫と死別し薙髪して貞心尼と号しました。以後禄3千石を受け、寛永14年正月4日江戸鱗屋敷に於て歿しました。行年81才。法名は宝林院殿月桂貞心大姉。
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境内案内図では近くに新貝弥七の墓がありますが撮り忘れたようです。万年塔(万年堂)がどれもこれも似ているのでわかりにくいのです。新貝弥七は喜兵衛安親の二男で始め大蔵。無給にて元禄3年1月31日、吉良左兵衛君(綱憲公の二男で吉良家を嗣いだ)小姓を命ぜられ、江戸へ勤めました。元禄15年12月14日吉良一件(赤穂浪士打入)の際、堀部弥兵衛その他と渡り合い玄関先において討死。腹中に槍の穂先が残っていたと記録にあります。法名刀山宗剣居士。
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直江兼続夫妻の墓(昭和28年2月20日指定)…『米沢藩の基礎を築いた直江兼続とお船の方夫妻の墓で、向かって左が兼続、右が夫人の墓である。墓は「万年堂」と称される家型塔婆で、中には五輪塔がある。正面の3つの穴は、直江家の家紋「三盛亀甲花菱紋」を象ったといわれている。直江兼続(1560-1619)は、上杉景勝の側近として活躍し、上杉家の米沢移封後は、米沢城下の整備を指揮し、禅林文庫を創設するなど米沢藩の基礎を築いた。お船の方(1557-1637)は賢夫人として知られ、兼続の死後も三千石の知行を受け上杉家に尽くした。』
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