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秋田県秋田市泉三嶽根。秋田市平和公園南。泉とは湧き水のことで、五庵山と前面の平地とが交わる辺りからかつては湧き水が見られていたようです。農村地帯が広がっていた泉地区は、上流から筏で流されてくる木材や薪炭などを役人が検収する重要な関所でした。泉で検収を終えた木材は、旭川と雄物川の合流点にある川口の材木置場まで運ばれました。また、五庵山は古くから信仰の聖域で、多くの庵(寺坊)が営まれていたことが地名の由来となっています。三嶽根の地名も熊野山・高野山信仰により、御嶽精進(修行)が盛んであったことから生まれました。平和公園は、市街地の北側約2キロの地点に位置する五庵山(通称天徳寺山)の丘陵にあります。
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「第三代秋田市長 御代弦翁墓所」(市制施行50年記念・昭和13年4月・當寺境内)
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不動明王。
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国指定重要文化財「天徳寺四棟・本堂、書院、山門、総門」…『曹洞宗・萬固山天徳寺は、秋田藩主佐竹氏の菩提寺で、境内には代々の墓と御霊屋がある。佐竹義人が、夫人を弔うために常陸国(現茨城県)に創建したもので、佐竹氏の転封によって久保田に移し、当初は楢山に建てられた。寛永元年(1624)の焼失に伴い、翌2年に現在地へ移された。延宝4年(1676)に再び火災にあったが、幸い総門・山門・御霊屋は残った。総門は、寛永元年の火災で残ったものを移築したもので、境内で最も古い建築物であり、山門とともに平成7-10年に復元整備を行っている。また、天徳寺は「佐竹侯累代の肖像(12幅)」など県・市指定等の文化財を多く所蔵している。平成2年3月19日指定、文化庁、秋田市教育委員会』
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総門。
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切妻造瓦葺きの四脚門。慶長年間の建立と推定。
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菅江真澄の道「天徳寺」…『文化10年(1813)頃《勝地臨毫》にスケッチを載せる。《勝地臨毫秋田郡》。スケッチの中に、夏は涼しく流れて七筋水に螢いと多し』
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山門。
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宝永6年建立。
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三間一戸、瓦葺きの楼門。
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仁王像。阿吽ともに頭部を大きく強調した童子を思わせる体形で、忿怒の表情には迫力があり、胸を張った大きな身のこなしが巧みに表現されています。
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天徳寺仁王像(秋田市指定文化財(彫刻))…『仁王像(一対)は、桂材の寄木造で、高さは約3.2mである。九代藩主佐竹義和の命令によって造られ、寛政9年(1797)に完成した。右側を阿形、左側を吽形と呼び、製作者は当代一の大仏師といわれた京都の七条左京であり、台座に「大仏師・七条左京」の墨書が認められる。』
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重要文化財天徳寺本堂ほか2棟保存修理工事…『天徳寺は秋田藩主佐竹氏の菩提寺で、曹洞宗に属します。その開創は常陸佐竹氏十四代義人が夫人の菩提のため、寛正3年(1462)、常陸国太田(現在の茨城県常陸太田市)に寺を建立したことに始まると伝えられています。慶長7年(1602)佐竹義宣が初代秋田藩主として国替えした時に天徳寺も移り、はじめ現在の秋田市楢山村金照寺山の山麓に建てられましたが、寛永元年(1624)に火災焼失し、翌年に現在の場所に再建されました。現在地でも延宝4年(1676)に火災にあい、現在の本堂は貞享4年(1687)に再建されました。現在の書院は文化3年(1806)の建替によるものです。なお、本堂の西側には佐竹氏歴代藩主の墓所があり、菩提寺としての姿を今も留めています。平成2年3月に総門、山門、本堂、書院、佐竹家霊屋が重要文化財に指定となり、総門と山門は平成10年に保存修理工事を行いました。今回の工事は、本堂、書院、本堂に附属する開山堂の保存修理を行います。本堂、書院はともに建立以来根本的な修理はなされておらず、定期的な維持修理(茅等の部分修理)や増改築が行われてきたのみであり、長年の建物の重さによって基礎石が沈下し柱や梁の構造体が歪んでいます。そのため、主体構造部分(柱・梁・小屋組等)を残して、屋根や壁、床などを解体し、歪みの修整や破損部分の修理を行う「半解体修理」を行います。平成27年10月-平成31年3月までを1期工事とし、本堂、書院の素屋根(工事のために建物をすべて覆い、工事中の雨風を防ぎ、作業の足場を確保するためのもの)の建設と解体を行います。解体の際に、過去の増改築や補修の痕跡等の調査や耐震診断を行う予定です。それらの結果をふまえて第2期工事以降の実施の計画をたて、組立工事を行い平成36年3月に事業を完了する予定です。』
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ってことで、本堂はこのような状態です。本堂は貞享4年建立。入母屋造、茅葺き、間口約30m。内部は左右4室・前後2列の8室に分かれ、前面に板敷きの内縁があります。建物の正面右側に玄関、背面左側に開山堂が付属。本堂東に接する書院は文化3年建立。寄棟造、鉄板葺き。藩主の墓参時の休憩に用いられた上段の間があります。
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曹洞宗万固山(萬固山)天徳寺。御本尊聖観音。久保田藩(秋田藩)主佐竹氏の菩提寺です。本堂、書院、総門、山門からなる境内は大名の風格を感じさせます。市民が選ぶ都市景観賞受賞。
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寛正3年(1462)、当時の佐竹家当主佐竹義人(義憲)が、夫人(佐竹義盛娘)を弔うため、常陸国久慈郡太田村(茨城県常陸太田市)に創建。天正18年(1590)、水戸霊松山(水戸市宮町、現在の水戸東照宮所在地)へ移転。慶長7年(1602)、佐竹氏の転封に伴い、出羽国秋田郡楢山村の楢山(現在の金照寺山)に移ります。
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寛永元年(1624)12月27日、火災により総門を残して全焼したため、翌年5月に現在地である秋田郡泉村の泉山に移されました。この際、焼失を免れた総門も移築されています。寛文12年(1672)には本堂西の墓所に佐竹家の霊屋が建てられ、歴代久保田藩主と夫人の霊が祀られています(※平成10年に東京の総泉寺にあった正室や側室などの墓も移されています)。延宝4年(1676)12月に再び火災が起こり、総門と山門を残して全焼。その後9年の月日をかけて再建されて現在に至ります。
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平成2年に本堂、書院、山門、総門の4棟と佐竹家霊屋が重要文化財に指定された他、十六羅漢像など多くの寺宝が秋田県・秋田市の文化財に指定されています。これらの寺宝は毎年8月17日・18日に虫干しを兼ねて無料で一般公開されているそうです。
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パンフレットより…『天徳寺は、秋田藩主佐竹家の菩提寺です。佐竹氏の国替えによって当初楢山金照寺山の麓に建てられましたが、寛永元年(1624)に火災にあい、翌2年に現在地に移築されました。延宝4年(1676)に再び火災にあい、同5-6年にかけて1万石の巨費を投じ再建されました。境内には本堂・書院・山門・総門のほか、藩政時代を偲ぶ佐竹家累代の墓所があり、江戸時代の曹洞宗寺院の伽藍配置を窺い知ることができます。※2023年まで本堂等大修理中。国重要文化財は当面の間見学不可』
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市指定文化財「絹本著色八幡太郎義家・新羅三郎義光像」…『近世期の肖像画。ニ幅の画面に源義家・源義光の姿が描かれた対幅像。寸法は義家像が立て98.9cm、横53.2cm。義光像は立て98.6cm、横53.5cm。佐竹氏の始祖である義家・義光を描き武家権威の誇示と佐竹氏の先祖崇拝を示す像とし注目されている。ともに大鎧姿で手には扇を持ち、義家は折烏帽子、義家は立烏帽子を被った姿で描かれている。』
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佐竹家霊屋。
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本堂西側の墓域にあります。
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入母屋造、鉄板葺き。歴代秋田藩主の霊を祀る建物で、3代藩主佐竹義処が寛文12年に建立。周囲は塀で囲まれており非公開です。
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パンフレットの写真。天徳寺伽藍の建物と一体となって、大名の菩提寺の姿をよくとどめています。
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佐竹家霊屋一棟(国指定重要文化財)…『秋田藩主佐竹氏歴代の墓所で、菩提寺天徳寺本堂の西側にある。入母屋造、妻入で、正面に唐破風造の前殿を設けている。内外とも要所を彫刻で飾り、漆や極彩色が施されている。この建物は近世霊廟建築として豪華な造りであり、天徳寺伽藍の諸建物とあわせて藩政期の大名菩提寺の姿をよくとどめている。平成2年3月19日指定、文化庁、秋田市教育委員会』
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