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秋田県鹿角市八幡平谷内。
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鹿角三十三観音霊場第十五番札所(谷内観音堂)。
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公式HP及びwikipediaより…『古来より谷内観音堂と呼ばれ親しまれていた。二度火事により、正しい記録は燃えてしまって不明だが、境内にある板碑は少なくとも七百年以上前に作られたものであり、谷内観音同創建は、勿論それより古いものと推測される。1564年(永禄7年)秋田近秀に谷内観音堂が戦で焼かれる。1574年(天正2年)天照皇御祖神として再建される。1659年(万治2年)再建される。1785年(天明5年)再建される。1873年(明治6年)村社に指定される。』
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神社庁より…『社記によれば谷内観音堂と呼ばれ明治初年廃仏棄釈の令によって天照皇御祖神社と社名が変更された。以来神明社と尊称されて現在に及んでいる。永禄10年の兵火によって焼失したがこれを機会に天正2年に社地を約150m下方の現在地に移転し、万治2年再建、天明5年再建(現在拝殿、幣殿)し現在の社殿になっている。その間明治43年無格社八幡神社、駒形神社、出羽神社、滝沢神社、八坂神社、明治45年熊野神社を合併し、明治6年村社指定社となった。境内の石造物の磨崖仏、板碑(県無形文化財指定)等あるが、その年号により700年を経ているものと推定される。』
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御祭神は大日霊貴神(天照大御神)、素盞嗚命(須佐之男命)、保食神、大鞆和気命(誉田別命)。例祭日は8月16日。
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社殿前神明鳥居。
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奉納碑など。石段に関するものかと思います。状態が悪かったので詳しく見ていません。
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8.5
紀年銘はいずれも明治。
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手水舎。
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手水石は二基並んでおり、低い方へと流れ落ちています。
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石灯籠二対(明治22年7月吉日・明治29年8月8日)。
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12.2
12.4
12.8
板碑。全4基あります。3基に紀年銘があり鎌倉時代末期のもの。種子、銘文あるいは経文の一部が刻まれています。板碑については後記。
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紀念碑(明治40年3月19日建設)。
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裏面に出征軍人名。
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更に社殿前に石灯籠二対。
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紀年銘は手前から明治22年7月吉日、明治42年5月。
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苔生している手水石。
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拝殿。
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境内神社として天神社、五大社(五大尊社)、八坂神社(飛地境内社)があります。
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特殊神事として大日堂舞楽(重要無形民俗文化財)、五大尊舞奉納社、神輿渡御、先祓舞(谷内天照皇御祖神社先祓舞)があります。市指定無形民俗文化財の先祓舞(例祭)は8月15日-16日に行われます。天照皇御祖神社から御神輿に御神体を乗せて八坂神社へ移動し、そこで例祭を執り行うという特殊な形をとっています。江戸時代中期に現在の八幡平市兄川稲荷神社から伝えられたといわれており兄川舞ともいわれています。明治20年頃から中断し、古老たちが酒席で昔を偲ぶ程度でしたが、昭和22年再び兄川から舞人、太鼓、笛の指導者を招いて復活しました。演目は11、このうち「きねとり舞」は若者のみで行われ、その他は小中学生男子によって舞われます。舞い手は女物の肌着、襦袢、襷、腰帯、鉢巻、白足袋に草鞋で華やかに着飾り、襷に日の丸扇をさし、飾り棒を持って舞い踊ります。五大尊舞は12月26日に正式奉納。ユネスコ無形文化遺産、国重要無形民俗文化財。だんぶり長者伝説の主人公であるだんぶり長者の舞。
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拝殿横の窓からは…
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何も見えず。
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幣殿・本殿覆屋。
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拝殿向拝蟇股・木鼻・海老虹梁・手鋏。
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拝殿向拝神額「天照皇大神」(昭和4年春三十三才記念(4名の奉納者名省略))。今写真を見て気付きましたが、天井に「修築建立向拝一宇」の棟札がありますね。紀年銘は皇紀2610年7月24日。
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拝殿内。正面に金剛力士像一対。その他絵馬や金剛力士像の棟札、谷内五大尊舞の幟も見えます。
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正面神額両脇の巨大絵馬。素戔嗚尊八頭蛇を退治し給う図と神武天皇東征図。
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境内神社。
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棟札には「奉齋國常立神神位(明治30年丁酉11月吉日)」と見え、横の木箱には「正一位谷内稲荷大神」とあり、巳神も見えます。
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境内神社。稲荷大神・大山祇神。
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境内神社。水天宮。
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こちらの建物はわからず。
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立派な御神木。大きいですね。
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34.4
34.8
忠魂碑(37、8年戦役戦死病没者・明治43年8月建立・長谷川小學校同窓會外有志一同)。
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戦死病没者名省略。
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手水石。
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合併記念碑(大正2年)。
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奉献鳥居記念碑(阿部隆之介・阿部由悦、昭和51年10月16日)。
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境内神社。
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棟札はよく見えず。紀年銘は昭和31年旧4月。
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山神宮。紀年銘はたぶん寛政8年7月22日。ってことで神社庁が記している境内神社とは一致しないというか…よくわからず!
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板碑(嘉元3年7月・ボ)。
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板碑(無紀年銘・サク)。
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板碑(正和2年5月30日・キリーク)。石材及び形状が武蔵国のものに似ており、関東御家人である成田・安保・奈良・秋元の四氏が鹿角地方に地頭として入部したことと関連があるものと考えられています。
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45.5
板碑(正安2年7月・ア)。
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46.5
最も古いものですが読み取るのはかなり厳しい状態。
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47.5
案内板「秋田県指定史跡、天照皇御祖神社境内の磨崖仏及び板碑(昭和60年3月15日指定)」より…『山側の岩面に線刻された磨崖仏は、その刻字の力強さから鎌倉期と推定され、境内の板碑はその紀年銘から鎌倉時代末期に造立されたものである。これらの石造物は、いずれも死者の菩提を願って造られたもので、弥陀三尊及び種子や銘文の偈がよく当時の信仰を物語っている。板碑は関東の武蔵武士団に発生したもので、鎌倉時代の鹿角の地頭たちが関東出身の武士であったという史実を具体的に裏付けている。◆弥陀三尊磨崖仏一基…石英安山岩の露頭部分高さ6メートル、幅7メートル。上方右寄りに、弥陀三尊を線刻。中央の月輪は径96.5センチメートル、中に阿弥陀如来坐像が描かれ、像容の高さは63センチメートル。左(向かって右)に「サ」観音菩薩、右に「サク」勢至菩薩を脇侍とし、種子をもって表わし、その月輪の径は44センチメートル。種子の彫りが深く風格があり、年代は鎌倉末期と推定される。◆板碑四基…社殿裏手に造立された正安2年(1300)銘板碑が最も古く、月輪に種子「ア」を置き、大般涅槃経の四句を偈としている。嘉元3年(1305)銘板碑は月輪に種子「ボ」、金剛般若婆羅密多経の四句を掲げる。正和2年(1313)銘板碑はいわゆる関東型の典型を示し、頭部山形の下に二条の線を引き、身部を枠線で囲み、種子「キリーク」と願文等を刻している。無紀年銘板碑は月輪の中に種子「サク」を刻み碑面に銘文はみられない。秋田県教育委員会・鹿角市教育委員会』
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磨崖仏(案内板より)。
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磨崖仏は境内の東側にあります。
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標柱「秋田県指定史跡、天照皇御祖神社境内の磨崖仏及び板碑(昭和60年3月15日指定)」より…『磨崖仏は中央に阿弥陀如来座像が描かれており、左に観音菩薩、右に勢至菩薩が梵字によって表されています。製作年代は鎌倉時代末期と推定されます。板碑は、三基に紀年銘があり鎌倉時代末期のものであることがわかります。』
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中世のものでは北限のものとされる磨崖仏。
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52.5
中央に阿弥陀如来座像…
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左に梵字「サ」(観音菩薩)…
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右に梵字「サク」(勢至菩薩)…
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ってことで…
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56.5
一生懸命見たのですが…
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ほぼ見えません。刻字の力強さ…鎌倉期だから仕方ないですね。
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この写真が一番わかりやすいかな…かなり厳しいですけど。
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谷内の磨崖仏・板碑…『現在の天照皇御祖神社は、明治の初めまで、古い由緒をもつ谷内観音堂として、地域の人人の信仰をあつめていた。観音堂創建の年代は明らかでないが、ここには、国の重要無形民俗文化財「大日堂舞楽」のうち、古代菩薩舞のひとつ、五大尊舞がうけ継がれている。近世、谷内の社人大博士はだんぶり長者縁りの者として、盛岡藩より代代祭田を給されてきた。観音堂域内には、鎌倉後期の「弥陀三尊磨崖仏」があり、同じく当時の紀年銘をもつ板碑「正安2年(1300)銘碑」・「嘉元3年(1305)銘碑」・「正和2年(1313)銘碑」等が遺存されている。県内最古に属するこれら石造物は、昭和60年3月、県史跡に指定された。なかでも「正和2年銘碑」は、関東の秩父青石に見まがう緑泥片岩を用い、山形の頭部、横二条線を施した、典型的な関東型板碑で、本県唯一のものといわれている。この谷内に拠った郷地頭は、おそらく最初の鹿角郡地頭職武蔵国成田惣領家から派遣された代官のひとりであった。成田氏は、後年の天文期(1532-54)に、谷内城が南部氏支流一戸弾正左衛門の手に落ちるまで、この熊沢川右岸一帯に、大きな勢力をふるっていたとみられている。平成7年9月撰文安村二郎・八幡平史談会・東京八幡平会』
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