くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2019年12月

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八戸市長者1丁目。地内には藩政時代からの神社仏閣が多くあり、長者山を中心に長者山新羅神社大慈寺、光龍寺、南宗寺、弾源寺、八坂神社などが鎮座しています。
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長者山東側の鳥居・石段から長者山新羅神社に向かうと右手に穴守神社が鎮座しております。長者まつりんぐ広場から向かいました。
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穴守神社。
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社殿。由緒等は調べておりません。東京の穴守稲荷神社と似たような由緒を持つのかな。拝殿神額の奉納者は千葉県の方でした。
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狐三対、石祠があります。
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7.5
穴守神社の裏手の方に犬がおりました。近寄ろうとしたら激しく吠えられたので写真はありません。たぶん阿形です。そして、こちらは長者山新羅神社社務所前にいた犬です。近寄ってもピクリとも動きません。よって恐らく吽形です。
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八戸市長者1丁目。地内には藩政時代からの神社仏閣が多くあり、長者山を中心に長者山新羅神社大慈寺、光龍寺、南宗寺、弾源寺、八坂神社などが鎮座しています。
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社号標・神額には「祇園宮八坂神社」。
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狛犬一対(昭和46年10月15日)。
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燈籠一対。
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長者山の八坂神社(長者山牛頭天王・天王堂)は享保2年6月14日、長者山元神明宮の古社跡地に牛頭天王を勧請(願主自在山豊山寺当時は永久寺支配)したもので、後に(神仏分離令の時)新羅神社に合祀されています。社日は旧2月15日で、昔は学校の生徒等は皆紙旗に奉納八坂神社と書いて社前に納め、其の数千以上に及んだ由ですが今もなおその余習があるそうです。
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※神明宮は昔金浜村にあり新井田村に移り、更に中居林に移るも寛文9年10月朔日に中居林から長者山の東北隅へ遷座し、正殿拝殿鳥居等を藩で建設。寛永6年9月16日長者山より二十六日町に移転。現在の二十六日町の神明宮。
※長者山牛頭天王が享保2年に勧請された理由は、その年に領内に悪疫が流行したため。
※願主となって造営した豊山寺は廃寺(内丸二丁目・八戸南部家の祈願寺)。
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享保12年以降には、新羅神社祭礼時に歌舞伎芝居の興行が行われ、明和4年からは商宮律の練習所として天王堂の拝殿があてられたりしました。
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手水石。
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小祠3基。
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八坂神社御由緒…『【社名】祇園宮・八坂神社【祭神】素盞嗚命【例祭日】6月15日【宮司】柳川浩志【八坂神社敬神会長】北村新三郎【御由緒】八戸南部藩主廣信公の享保元年頃、当地に悪疫流行し病没者が続出した。藩主は心配し、内丸に在った祈祷寺の豊山寺に「此の悪疫より領民を救うには何神を祀ったら良いか?」と御下問された。住職は「豊葦原の瑞穂の国をしろし召し給う天津日継の御位に坐す天子様は万民を病難から救う思召しを以て京都に祇園宮八坂神社の牛頭天王を御奉斎しておられます」と御応答、皇室の御仁政を言上した。「良い事を教えて呉れた」と藩主は使者を遣わして京都の名工に牛頭天王の御神像を刻ませた。牛の頭を頭に乗せ右手に斧左手に縄を持って岩上に座す印度人風の木像で素盞嗚命の神像である。祇園宮で分霊を頂く開眼式を挙げさせ享保2年6月朔日に長者山上の新社殿に勧請し、神主を豊山寺末寺の楊柳山永久寺住職の柳川家先祖の観了宥為に五十石を給してお命じになった。宥為宮司は全精力を注いで祈祷に励んだ所、悪疫流行は不思議にも漸次衰え病気は無くなったと云う。明治2年の廃仏令に因り廃社になり御神体を柳川家に遣わされたので、山伏小路の柳川家旧邸内に新社殿を建立して奉安したが、其の後現在地に遷座して今に至っている。当社は牛頭天王略して「天王様」又は「熊野宮」とも「新羅様」とも申し上げ、御神徳は文学・農業・武徳・海・山・川・健康の守護神として広大無辺であり、長い伝統を守り伝えて、今でも病気消除の神社として旧市内の住民から広く崇敬を集めている。平成8年6月15日』
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曹洞宗福聚山大慈寺。
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糠部三十三観音第九番。八戸市長者1丁目。地内には藩政時代からの神社仏閣が多くあり、長者山を中心に長者山新羅神社、大慈寺、光龍寺、南宗寺、弾源寺、八坂神社などが鎮座しています。
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大慈寺で配布している小冊子がHPから閲覧できますので、より詳細に知りたい方はそちらを参照下さればと思います。
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燈籠一対。
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永代供養宝篋印塔。比較的新しいものです。
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六地蔵。帽子が素敵。しかもなぜかミニカーが供えられています。
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市川荒二郎一座死亡者供養塔がありました。大正4年1月、二十八日町にあった劇場「当り座」の火災で焼死した8人の旅役者たちの供養塔です。他に「大正四年一月失火之舊當座罹災死亡俳優各霊供養塔」、「大悲観世音」(安政5年11月17日)などあります。
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こちらの碑は…
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魚籃観音ですね。
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裏面。どうやら海難者慰霊碑(正進丸)のようです。昭和40年8月13日。願主株式会社丸吉吉田商店代表取締役吉田利八郎。
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願文…『霊位にもうさく各位は大平洋の荒天波濤を乘り越え海の幸獲得に挺身し良く其の職責を果しつゝありし処不幸人智を以て測りえざる海難に遭遇し一死以て職に殉じたり今茲に塔を建立し諸氏の御冥福を祈り且照鑑守護を願うものなり』
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第五正進丸(昭和18年3月7日北海道襟裳崎東十五哩)、第貳拾壱正進丸(昭和28年7月31日湊川口船上にて)、第拾壱正進丸(昭和34年7月23日塩釜港船上にて)、第貳拾八正進丸(昭和35年12月16日エトロフ島沖)、第拾正進丸(昭和36年10月14日北海道襟裳崎西南十五哩)、第八拾貳正進丸(昭和38年3月13日ミッドウェー島沖)、第八拾五正進丸(昭和38年12月22日石巻にて網運搬作業中)、第参拾五正進丸(昭和39年12月18日犬吠崎東百二十哩)。※
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慈母観世音菩薩。
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鳥獣觀音像。
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願文…『我等現代に生きる文化人として猟の犠牲となった鳥獣の霊を慰めると共に、今後鳥獣の保護繁殖を願って茲に鳥獣観音を勸請するもの也。願わくは天地同根の萬物相互に隣愍し、永へに萬物一体の真理を顕現せんことを。創立55周年記念 昭和39年5月17日』
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禁葷酒(宝暦2年6月)。
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山門。
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糠塚大慈寺は、松館の大慈寺の宿寺として延宝年間(1670年代)に創建されたといわれていますが、山門については残されている棟札から天保2年(1831)十六世興文要曹逸代に建立されたことが知られています。三間一戸の楼門で、屋根は入母屋造り、中備に蟇股を置き軒支輪を回しています。そして上層の正面三間のうち中央に棧唐戸、両脇間に花頭窓、十六羅漢を祀っています。この山門の大きな特徴は、一階の正面中央の間が琴柱の形をした火燈窓の形式を取り入れ楼門の中央に用いる例は他にはないといわれています。
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扁額には「金獅峯」(月舟書)とあります。
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福聚山大慈寺山門・経蔵(市指定文化財建造物・昭和38年7月26日)…『大慈寺は、根城南部氏の菩提寺として応永18年(1411)に創建された松館の大慈寺の宿寺として、延宝年間(1670年代)に創立されたといわれます。この山門の建立時期は、残されている棟札から天保2年(1831)であることが知られます。山門の構造は、3間1戸の楼門形式で、屋根は入母屋造になっています。一階の正面中央の間が琴柱火燈の形式を取り入れているのが特徴です。琴柱火燈は、琴柱の形をした火燈窓の一種で、窓の意匠としてはよく見られますが、楼門の中央間の意匠として用いるのは例のないことです。何度か改修された形跡もありますが、市内には数少ない本格的楼門の遺構として貴重な建物です。経蔵は、建立時の棟札によると、大慈寺17世智法宣隆が嘉永4年(1851)から安政2年(1855)までの5年間経蔵建立の願いを立て、近郷を托鉢して回り資金を集めた後、翌年上京して大蔵経全部と転輪蔵一宇を求め、安政4年から建設にかかり、翌安政5年(1858)8月に上棟式を迎えたことが記されています。経蔵の構造は、3間4方が建物の母屋となり、これに裳階と呼ばれる庇が1間ずつ付いているので2層に見えますが、1層の建物で、宝形の屋根がのっています(5間4面宝形造1層裳階付)。細部の建築様式は、禅宗様と和様の折衷したものと考えられる建物で、転輪蔵または輪蔵と呼ばれる珍しい形式の経棚は建物の中央に据えられ、八角形で回転するようになっております。平成8年3月八戸市教育委員会』
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ちなみにこの案内板は平成8年のものであり、私が訪れた直後(平成30年夏)に以下のような内容のニュースがございました。
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22.5
県文化財の県重宝(建造物)に、「大慈寺(糠塚)本堂」、「山門」、経典を保存する「経蔵」を指定すると承認。本堂は文化2(1805)年の再建に携わった大工の名前などを記した棟札が残されており、建築年代が明確。屋内の天井などに施された特殊な意匠も県内に見られないことから県文化財保護審議会で指定が適当と答申されていました。山門は天保2(1831)年の建立。門に取り入れた、琴の弦を支える琴柱に似たアーチ状の形式(花頭)は全国的にも珍しいもの。経蔵は安政5(1858)年に建てられ、東北地方でも非常に少ない大型経蔵。建立時の棟札は山門と経蔵にも残っています。
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南部通信歌碑(南部信克書)。
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赤松(八千とせの松)。
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鐘楼堂。文化11年再建、昭和42年建替。
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天女の彫刻があります。
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27.5
梵鐘。大慈寺には元禄3年南部直政の乳母岩野氏が葬られ、その五輪塔が現存。翌年4月に追福のため江戸から船便で運ばれた梵鐘が寄進されており、直政自ら撰した鐘銘が刻まれていたと伝えます。
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庫裡の裏方面。東司・土蔵・茶室等があります。
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イチョウ(八戸市指定保存樹木・平成22年3月30日第11号)。
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推定樹齢は600年以上。
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本堂。
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木造平屋建。鉄板葺き入母屋屋根。内陣外陣の柱頭及び中備に和様の出三斗の組物及び折上格天丼の特長を持ちます。
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33.5
文化2年建立。昭和30年に内部を活かして茅整麗根から鉄板葺入母屋屋根に改修。前庭には右遠三回の円形石墨あり。詳細はHPを参照下さい。
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通称糠塚大慈寺と呼ばれ、八戸市松館にある大慈寺の本寺。八戸城下の宿寺として延宝年間に四世明鑑幡察利尚が長者山南側裾野に創立した奮洞宗の寺で、天保元年頃に大慈寺 (松館)の宿寺から本寺に格上げされました。八戸南部家二代藩主直政や三代藩主通信と深い縁があるだけではなく、野村軍記や大沢多門などの重臣の墓もある八戸南部藩に縁のある寺院。八戸藩御勘定目記や八戸藩史料によりますと、天明3年、天保7年、天保10年に大慈寺御救小屋を建てて藩民の救済に当たっています。
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八戸城下の宿寺になった延宝年間に本堂及び庫裡を建立したことが始まりで、現行の伽藍は文化2年に本堂を再建したことに始まります。文化11年鐘楼及び観音堂再建の棟札が残っており、本堂及び庫裡の建立から間を置かずに鐘楼と観音堂が建立されたと推定されます。文政2-3年頃には庫裡を再建し裏門と長屋を建立。天保2年に山門、安政2年に薬師堂、安政5年に経蔵を建立、更に元治元年に鎮守稲荷堂を再建して七堂伽藍が整ったと推定。
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昭和30年に本堂を茅葺屋根から唐破風付向拝及び干鳥破風付入母屋屋根に改修。昭和42年に 鐘楼再建、昭和52年に薬師堂跡地に福衆会館新築、平成19年に新位牌堂及び新坐禅堂を新築して現在に至ります。
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西有穆山禅師。
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大黒天立像。
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仏像千佛中尊観音立像(大慈寺六世奇峯学秀作)…『江戸時代の中頃に、「学秀」と云う大慈寺6代目の住職をつとめた和尚様がおりました。学秀はその生涯を通じて庶民の幸せを願いつづけ、千体仏(千体をセットとする仏像)を3度も彫ったのを始めとして、観音、地蔵、韋駄天、大黒等々たくさんの仏像を彫りました。学秀仏と呼ばれるそれらの仏像は、当地方で百体ほどが確認をされています。その1つが大慈寺に残されている「千仏中尊観音立像」です。その背面には、次のように刻まれています。「八戸願主摂待宗碩 大慈寺奇峰作 寄進之 正徳二壬歳竜岩五世融遵 六月十八日 龍祝伐 千佛中尊」。このことから正徳2年(1712)に、この仏像が制作され、岩手県二戸市の竜岩寺に寄進された、千体仏の中心の観音様であることがわかります。願主の摂待家(接待)は、かつて九戸の乱の時に、九戸方に加勢した久慈氏の子孫であり、その時の戦死者の供養のため、千体仏をまつることにしたと云われております。北福岡の九戸城跡にほど近い馬渕川のほとりに、この仏像をまつる「千体堂」が作られました。ですが川の洪水でこの仏像が流され、拾いあげられたものが、大慈寺におさめられたと考えられます。学秀は大慈寺住職に就任する前は、九戸の乱の総大将の九戸政実の菩提寺の九戸村長興寺の住職も勤めており、八戸藩士の摂待宗碩と交流も、そのあたりにあったのかも知れません。竜岩寺の下の馬渕川のほとりには、そこに千仏堂があったことを示す石碑が残されています。青森の円空(円空仏の作者)とも呼ばれる、すぐれた数多くの仏像を残した学秀和尚は、大慈寺に大きな「大黒様」の木像も残されています。』※大黒天立像の説明については一般的な大黒様の説明と奇峯学秀に関する内容であったため省略。かつてはこの大黒様にあやかってその一部を削りとったりする不心得な人がいたそうです。
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福聚山大慈寺全景。
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参考になります。
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42.5
HPより抜粋…『応永17年(1410)、南部の嫡家十三代守行は隣国出羽の領主安藤鹿季が、守行公の領内に侵入して来たため、根城南部九代長経十代光経に出撃を要請しました。ところが地理に暗い南部軍は、苦戦の連続でした。そんな折、1人の老僧が陣中を訪れ「この先に秋田側では伏兵を配置して待ちかまえています。用心なさい」と言い立ち去りました。この老僧のおかけで南部軍は勝利をおさめ、帰国することができました。この敵の様子を知らせてくれた寶山正彌(珍)(ほざんしょうや・ちん)和尚を尋ね求め、八戸に招いて八戸の松舘に一寺を営構して「福聚山大慈寺」と号し田料百石を寄進して、根城南部氏の菩提寺としました。このことにより大慈寺は松館の地に根城南部九代長経を開基殿として開山しました。寶山は師僧の龍谷寺(石川県金沢市)二世龍傳慧金(りゅうでんえきん)大和尚を開山和尚に勧請し、自らは2世となりました。応永18年(1411)のことです。ところが、寛永4(1627)盛岡南部初代利直の命により伊達領との境を守るために根城南部は岩手県遠野へ国替えになり、大慈寺も共に遠野へ移ってしまいました。明治36年発行の『糠部五郡小史』によると「その後の八戸は盛岡南部領となるも八戸殿移封により人家まばらになり大慈寺の住持も無く廃れつつあったところに、盛岡南部利直公が寛永5年(1628)に鹿角(祝融山)萬松寺三世虎山玄龍和尚を招き五十石を寄進して中興開山とした」と伝えられています。その後江戸時代の寛文4年(1664)になると、幕府の指示で八戸藩(二万石)が生れ、大慈寺は寺領五十石をおくられました。八戸の城下町が整備され発展するにつれ松舘は遠くて不便だというので四世の明岩幡察和尚は糠塚(現在地)に宿寺(出張所)を建てました。さらに十六世の文要和尚は、天保年間の初めの頃、現在の地に大慈寺を建て、本寺を松舘から糠塚へ移すことにしました。松舘は檀家の関係もあり、末寺としてそのまま残すことにしました。祖院とも考えられる松舘と、糠塚と両大慈寺が同じ名前のまま独立し、正式に本寺と末寺になったのは、明治21年のことでした。ちなみに、現在の山門(八戸市文化財)が完成したのは、棟札によれば天保2年(1831)4月と書きしるされています。』
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手水石。
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庫裡(文化2-3年再建)。
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観音堂。山門とイチョウの間。
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文化11年に再建。昭和10年に後部を半間増築。 
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糠部三十三観音霊場第九番札所。御本尊阿弥陀如来。
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御詠歌。
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経蔵。
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安政5年竣工。大型転輪蔵を内蔵する東北地方では珍しい転輪蔵覆屋。桟瓦葺裳腰付方形屋根。八戸市指定文化財。 
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HPより抜粋…『経蔵とは、たくさんのお経を収納する蔵のことである。内部のお経を納めた八角形の棚(経棚)がぐるぐるまわる珍しい形式で、輪蔵とも呼ばれている。大慈寺十七世の宜隆和尚が、5カ年もかけて、資金集めの托鉢を行い、安政5年(1858)8月に上棟式が行われた。外から見ると、屋根が二層になっているが、中は一階の建物である。建物の正面の幅は五間、左右一間ずつには格子入りの化火燈窓、正面の三間は、唐桟戸と呼ばれる出入り用の戸がつけられている。屋根には相輪(宝珠)が乗っている。建築やお経の購入資金の不足は、富くじで募集したことが「一切経寄進富講差定」の記録が建物内部に残されている。東北地方ではまれにみる立派な「経蔵」である。』
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池がありましたが水はありませんでした。
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錦乃池(花の紅・松の緑・公孫樹の黄)碑。
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お掃除お疲れさまです。
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常恒會紀念碑(明治28年10月30日常恒會免牘御下附ニ付報恩金獻納篤志者(※名前省略)大慈寺18世田川雄禅代建立・明治36年9月1日)。
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福衆会館。安政2年に薬師堂建立。昭和52年に新位牌堂・福衆会館に建て替えられました。
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福聚会舘落慶記念碑…『当山は、ここ20数年間、伽藍の増改築を連行し、15の建造物が輪奐の美を競い、現代的活動の設備を完備するに至った。茲に開創以来の大事業である福聚会舘落慶を記念して、大本山総持寺貫首岩本勝俊禅師の御親化を仰ぎ、落慶式、開山歴住忌、因縁授戒会等を厳修するに当り、記念碑を建立し以て山門鎮護と檀信徒の福祉の増進を祈るや切也。至祈至祷。昭和51年10月28日』
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坐禅堂。元衆寮禅堂。平成19年に現在の坐禅堂に建替え。
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経蔵と坐禅堂。
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動物慰霊碑。
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本堂裏手へ。本堂裏手には墓地の他に開山堂と稲荷堂があります。
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また、歴代住職墓地の他、大澤多門(八戸藩士。八戸町戸長。えんぶりの再興や八戸三社大祭の振興に寄与。)、蛇口伴蔵(江戸時代の八戸藩士で水利開発に尽力。)、広沢家墓、野村軍記墓、太田広域墓(階上町出身。青森県の生みの親。廃藩置県に伴う青森県の誕生に貢献。)、松屋妙亀大姉墓、摂待家墓、永島暢子墓(旧名川町剣吉出身。社会運動家で女性解放運動の先駆者。毎年4月12日に永島暢子を偲ぶ会により「菊の花忌」を開催。)などがあります。
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建物が見えます。長者山新羅神社の建物。長者山を中心にして周囲に神社仏閣があるので方向音痴になりそうです…いや、元々方向音痴なんですけど。
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