くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2019年10月

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久保田城跡(千秋公園)其之弐』からの続きです。
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報恩碑(明治21戊子年秋八月建立)。藩政時代から明治初期にかけて藩や県から表彰された人々が「おかみ」に感謝するとともに、若い人たちの奮起を期待して建てたもののようです。
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碑文はちょっと読み取りにくい状態。
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船木靱負紀功之碑(大正11年7月)。靱負は「ゆぎえ」と読みます。船木家は佐竹氏の前に秋田を治めた安東氏に仕え、土崎湊代官を務めた家柄。慶長7年(1602)安東氏が常陸穴戸に移った際、靱負は従いませんでした。代わって入部した佐竹氏は現在の千秋公園に築城するとき、靱負を特に普請方支配を命じ、更に久保田肝煎職としました。これにより、靱負は川尻一帯を開発したほか、八橋-寺内を経て土崎港に至る新道を開きました。その子喜兵衛も寛永8年(1631)通町川下より川口まで旭川の堀り替えを担当した工事支配として知られています。碑文…『舩木靱負紀功碑 世有治亂邦有盛衰通邑大都變為黍離麥秀之地荒原窮野化為棟連屋接之區俾人興桑海之感者古今所毎覩也能保其治盛而防其衰糺者固為政者所當務而使為政者克成其功者亦有從事服勞以致之力者也舩木氏世居于出羽秋田其家襲稱日靫負往時秋田氏在土崎城舩木氏仕之専任海備掌其兵舩慶長壬寅秋田氏遷封于常陸茨城當時舩木氏十一世靫負有故不從其歳佐竹侯來封于秋田翌年相地于神明山築新城以為藩府尋營市街闢道路修川流舩木氏以地之舊族從事服勞開府之業皆與有力焉藩屡加賀賜給廩禄特優遇之又為市正兼監運舩舩木氏辭其廩禄唯職俸以自給爾後國家無事舩木氏世守其職幾三百年可謂善處於治盛之世也既而明治戊辰皇政維新百度更張辛未定廢藩置縣制佐竹侯徙于東京藩城廢為墟縣人因建藩祖祠曰秋田神社歳時祭之又設公園為衆庶遊觀之地縣廳兵營及諸廨舎與市街相聨鐵道亦置停車場於是棟連屋接遂不失治盛之觀者固雖昭代縣治之所普及抑亦非曩時相地開府得其所之故哉舩木氏亦承餘慶以保其家可謂不忝祖先也今茲辛丑適當藩祖來封三百年紀縣人因欲設祭典於神社以頌其徳於是追念舩木氏之勞者胥謀欲建碑於神社域内以紀其事其裔孫四郎治屬余以文余及叙其概略為之銘曰 維昔封建 高城深池 市井區畫 經緯有規 誰服其勞 維舩木氏 奉公累世 祖孫濟美 母謂郡縣 城復于隍 公園鐵路 更觀國光 藩祖之祠 士民來謁 勒石其下 芳名不没 正四位子爵佐竹義理篆額 狩野良知撰 農商務次官從四位勲三等田中隆三書』※自信ありません。
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歩兵十七聯隊之碑(十七比島会長尾張三郎謹書)。
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久保田城表門。※本丸側から向かっています。
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久保田城表門は二の丸売店脇の長坂を上がりきった本丸に位置しており、久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていました。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、南側には門の警備を担当する「御番頭局」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていました。この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに、平成11年から2カ年計画で再建したもので、構造は木造2階建て瓦葺きの櫓門で、20万5千8百石の正門にふさわしい壮大なものとなっています。市民が選ぶ都市景観賞を受賞(平成13年度)。
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2層櫓門(1階:四方吹き降ろし屋根・2階:真壁造り入母屋屋根桟瓦葺き)。材料は1階部分が主にケヤキ材(鑑柱、冠木は材齢約250年)。1階部分外側は主にヒバ材。
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1階は桁行き(横)方向:5間(9.10m)、梁行き(奥行き)方向:2.6間(4.80m)。2階は桁行き(横)方向:6間(10.92m)、梁行き(奥行き)方向:3間(5.46m)。高さ41尺1寸(12.46m)。
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久保田城表門…『表門は久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていた。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、左手には門の警備と管理をする「御番頭局」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていた。久保田城は慶長8年(1603)に築城して翌年に完成し、表門は元和8年(1622)に最初の建て替えが行われている。その後、寛永10年(1633)、安永7年(1778)など何度か火災に見舞われている。この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、構造は木造二階建て瓦葺き櫓門であり、佐竹20万石の正門にふさわしい壮大なものとなっている。平成13年3月秋田市』
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秋田御城内御座敷廻絵図(「秋田沿革史大成」付録)。
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御物頭御番所。久保田城内の二ノ門(長坂門)の開閉の管理と城下の警備、火災の消火等を担当していた物頭(足軽の組頭)の詰所。久保田城内に唯一残っている藩政時代の建物。間口10.499m、奥行9.454m、総床面積125.70㎡、総事業費19,551千円(昭和63年3月保存修理)。秋田市指定文化財。
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御物頭御番所前から見た久保田城表門。
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御物頭御番所内。
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15.4
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御物頭御番所…『御物頭は秋田藩の行政機構の中では番方に属す役職であり、配下の足軽を指揮して二の門(長坂門)の開閉及び城下一帯の警備を担当した。御番所の南側14畳の部屋に物頭が詰めて登城者を監視した。北側には7畳半の休息所や台所・便所があり、中二階には8畳の部屋が配置されている。「国典類抄」などの史料によれば、御物頭御番所は宝暦8年(1758)に焼失したのち再建され、安永7年(1778)以降の火災では類焼を免れたと考えられることから、建築年代は18世紀後半と推定される。久保田城内で旧位置のまま今日まで残っている唯一の建造物である。昭和63年3月、保存修復工事を行い、平成2年に秋田市文化財に指定された。形式:切妻造南庇付、こけら葺屋根。間口:約10.5m(5.5間)。奥行き:約9.5m(5間)。平面積:約100㎡(30坪)。平成13年11月秋田市』
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久保田城跡…『久保田城は秋田20万石佐竹氏の居城である。秋田初代義宣が慶長7年(1602)入部し、翌8年現在地に築城した。天守閣と石垣のない城として知られている。本丸は明治13年(1880)7月の火災で全焼した。同23年公園として開放されその後千秋公園と称し現在に至っている。公園面積162,900平方メートル。平成10年10月秋田市』
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順路としては逆ですが西方(穴門方面)に向っています。
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あきた文化産業施設松下前。
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巨木。
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あきた文化産業施設松下前の坂道。
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松下門跡。
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松下門跡標柱より…『中土橋方面からの二の丸の入り口に位置する。藩政時代、正式な登城路は黒門側であったが、土崎、城下町中央部に近い松下門側も多いに利用された。門の周囲の縄張りは初代義宣自身が手がけた自慢の設計であったと伝えられる。』
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佐竹小路付近に下りてきました。
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この堀の向こう側を上った所に鐘楼(千秋公園時鐘)並びに茶室宣庵(加藤清正が朝鮮から持ち帰ったと伝える長さ約3mの手水鉢)があるようですがパス(※以下案内図参照)。
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時鐘は寛永16年(1639)、2代藩主佐竹義隆が城内二ノ丸の一角に鐘楼を設置したのが始まりとされ、幾度かの改鋳、移転を経て、明治25年(1892)に現在の位置に建設。昭和18年(1943)に太平洋戦争により供出され、同23年「平和の鐘」として復活。しかし、同43年には鐘楼(当時木造)の老朽化等の理由により廃止。現在の鐘は同48年に三たび復活したもので、公募による愛称「千秋の鐘」として、家臣・吉敷家の末裔が今も1日2回(朝7時・夜9時)時鐘を打ち続けているそうです。
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千秋公園の由来…『この公園は、秋田20万石佐竹氏の居城、久保田城の城跡である。久保田城は、慶長7年(1602)常陸から国替となった初代秋田藩主佐竹義宣が翌8年に築城したもので、天守閣と石垣のない城であった。明治23年(1890)城跡を秋田市が佐竹氏から借り受けて公園としたが、明治29年(1896)秋田県に移管され、造園家・長岡安平の設計により整備された。昭和28年(1953)再び秋田市に移管、継続的に整備、管理されてきたが、昭和59年(1984)に、15代佐竹義榮(よしなが)氏の意志により秋田市に寄贈されて、名実ともに市民の公園となった。千秋公園の命名者は、秋田県出身の漢学者・狩野良知で、「千秋」の由来は、秋田の秋に長久の意の千を冠し、長い繁栄を祈ったものと言われている。公園面積16.29ヘクタール。平成15年11月秋田市』
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案内図。現在地は赤丸。地図によりますと東海林太郎胸像・顕彰碑があるようですが、秋田県民会館解体に伴い一時的に移転していたようです。
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穴門の柳。
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旧下中城町標柱…『城内三の丸にある渋江、梅津両氏を主とした重臣の屋敷町で、城の搦手にあたる地区であった。』
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中土橋へ向かいます。
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久保田城跡石碑。
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中土橋門跡から見た大手門の堀。
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大手門の堀標柱。
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中土橋門跡から見た穴門の堀。
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穴門の堀標柱。
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中土橋。
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反対側(穴門堀展望デッキ)から見た穴門の堀。奥に中土橋通り。この場所は本丸に鎮座する八幡秋田神社の雄柳龍神由来にまつわる蛇柳がかつてあった場所かと思われます。
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久保田城跡(千秋公園)』からの続きです。
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まだこの辺りしか見ておりません。
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胡月池。公園を設計した長岡安平が最初に築造した池。石灯籠や噴水が趣を添えます。
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大賀ハス(Ohga lotus(学名:Nelumbo nucifera))…『1951年(昭和26年)、ハス研究家の大賀一郎博士が地元中学生などの協力を得て、千葉市検見川の泥炭層下の青泥層から、約2千年前のハスの種を発掘、発芽に成功しました。この古代ハスは、博士の名にちなみ「大賀ハス」と名付けられました。大賀ハスの花は、一重咲きの大輪で色は淡紅色、花びらにはっきりした条線はなく先端は内向きにややカールし、葉の表面は滑らかです。花の大きさは25cm前後の大型品種で、花の高さは1.5mほどになります。2002年(平成14年)4月26日、大賀ハスの品種保存に力を入れている蓮文化研究会理事長印南洋造氏のご厚意により、蓮根を6株譲り受け、純粋を保つため鉢植えにし、この胡月池で栽培しています。秋田市公園課』
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裏門坂下付近のつつじ。
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6.4
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狩野旭峰翁頌徳碑。本名徳蔵。有名な狩野良知の弟で、漢学者や新聞記者として名声をはせました。碑はその学徳を慕う人たちが建碑したもので、昭和11年10月1日建立、粘板岩(台座安山岩)、高さ約4m。『狩野旭峯先生碑銘 正三位勲三等侯爵佐竹義春題字 先生姓藤原諱良貴狩野氏通稱徳藏旭峯其號考諱良安妣山田氏天保三年二月朔生於羽後大舘少壮立志遊江都入於古賀謹堂藤森弘庵之門又師事於田口江村及余會祖考宕陰力學八年通經史能詩文擢爲秋田藩日知館教授二十六歳歸郷繼舎兄廣居塾明治初下帷於角間川尋移於秋田門徒大進又創設聚珍社經營印刷業發刊遐邇新聞以振木鐸實爲東北新聞界之先十五年爲山形新聞社所聘二十年筮仕於千葉縣止二年辭歸再入於秋田魁新報社従事於秋田縣史之編纂傍應酔醉経學舎及稷如亭之専講演經史竝詩文等盡力於育英多出俊髦先生天資寡言沈黙持己極厳端坐讀書白髯長垂頗有古夫子風大正十四年二月一日病歿享年九十有四葬於天徳寺先塋配小松氏生四男一女李貞吉嗣家光生夙抱勤王之大志戊辰役秋田藩首應官軍奥羽諸藩兵大擧逼境先生兄弟率一隊轉戰於北羽之野有功役憂勤王史蹟之湮滅歴訪戰場或渉獵群籍有戊辰出羽戰史之著辱賜 明治天皇之叡覧其他所述作頗多旭峯詩抄出羽風土記男鹿名勝誌等五十餘種於郷土史研究可謂著先鞭者矣方今國體明徴論盛起郷人追慕不止門人有志胥謀欲建石以傅遺徳於不朽遙徴余文惟余家與狩野氏有舊診且美郷人之擧乃不辭不文仍而叙其梗曁如此銘曰 峩峩旭峯 洋洋貢水 江山秀靈 産維佳士 著述等身 研經修史 貞珉勒石 流芳千祀 昭和十一年十月一日東京帝國大學教授文學博士鹽谷温撰 姪狩野亨吉書 三浦龜朋刻』※適当です。自信ありません。
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保存樹(馬場のもみ)。
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百日紅(常陸太田市姉妹都市記念)。
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秋田市児童動物園跡。昭和25年開園。動物園は昭和47年に移転し、昭和48年9月に秋田市大森山動物園となります。
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大森山動物園ってここにあったんですね。
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彌高神社については別記事にしております。彌高神社周辺には馬場跡、金蔵跡、不浄門跡、厩跡などがあります。
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フレンチレストラン千秋亭。
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久保田城御隅櫓へ向かいます。久保田城御隅櫓については別記事にしております。
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多門長屋跡。
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17.5
秩父宮殿下御手植之松。
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埋門跡。
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標柱より…『埋門は本丸の背面(西側)に設けられ、土手を切って出入口とし、その上に多門長屋を渡した一種の隠し門である。門は西曲輪の兵具蔵に通じており、攻撃や防御また緊急避難的な役割をはたしていたと考えられる。』
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御本丸跡。佐竹義堯公之像(衣冠束帯立像)があります。第12代秋田藩主佐竹義堯(よしたか)(文政8年(1825)-明治17年(1884))は、近代秋田を築いた最後の藩主であり、戊辰戦争では新政府方に属して戦いました。明治維新の激動期を生きた象徴的な人物です。
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久保田藩主佐竹氏の居城として知られ、矢留城、葛根城とも呼ばれています。雄物川の支流である旭川の左岸、程野村窪田にある神明山(標高40m)に築かれた平山城。石垣は基底部に僅かにあるのみでその上に土塁を盛られており(鉢巻土手)、天守も持たず塁上に「出し御書院」または「御出書院」と呼ばれる櫓座敷を建ててその代わりとし、他に8棟の櫓を建て並べていました。石垣が無いのは幕府に遠慮したためとも言われますが、佐竹氏の旧領常陸国を含む東国では元々石垣を用いない築城法が一般的であり、石垣作りに精通した者が家中にいなかったという説もあります(但し、後に江戸城の修築を命じられた際、佐竹氏は石垣の普請も担当)。山川沼沢を巧みに利用し防御を図っており、水堀や円郭式城郭など西国の様式も採り入れています。なお、天守については、寛永10年(1633)の火災以前には御三階櫓があったという説がありますが、この時期の城内を描いた絵図などは残されていないため確証は得られていません。
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明治13年の大火では城内の建造物を悉く焼失しており、市街再建の過程で堀の多くも埋め立てられ、城下の中通を中心に秋田県初期の官庁街へと変貌しました。現在、久保田城本丸・二の丸一帯は千秋公園となっており、三の丸には秋田県民会館や秋田市立中央図書館明徳館、平野政吉美術館、秋田県立脳血管研究センターなどが整備されています。秋田県知事公舎は三の丸御殿の跡地に建てられています。大火を逃れ、かつ解体も移築もされなかった御物頭御番所は現存しており、本丸新兵具隅櫓(御隅櫓)、本丸表門が再建されています。移築された建造物としては、焼失を免れた裏門が、楼門から平屋へと改修を受けた上で旭北寺町の鱗勝院に現存。
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神明山の最高所を均して本丸とし、ここに藩主の居館である本丸御殿と政務所を置きました。周囲を多聞長屋と板塀で取り囲み、表門・裏門・帯曲輪門・埋門・切戸口という5箇所の出入口を設けました。表門は一ノ門ともいい、そこから二の丸へ通じる手前に長坂門(二ノ門)がありました。南西隅で岬のように突出した最高所の土地を「出し」と呼び、「出し御書院」「御出書院」という櫓座敷を設けました。本丸東側の一段低い土地を二の丸とし、勘定所・境目方役所・祈祷所安楽院・時鐘・金蔵・厩などを置いています。外部からの出入りは全て二の丸に集まるようになっており、松下門・黒門・厩門(不浄門)・土門(北御門)という4箇所の出入口を設けていました。それぞれ下中城、上中城、山ノ手、八幡山に通じます。現在は松下門跡が千秋公園正面入口となっていますが、藩政期の正式な登城の道は黒門を経由するものでした。
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二の丸の北・東・南を取り囲むように三の丸があり重臣屋敷を置きました。東部を上中城、南部を下中城、北東部を山ノ手(手形上町)といいます。山ノ手の西(本丸の北西)にある八幡山も三の丸に含まれますが、ここには重臣屋敷ではなく正八幡社(小八幡社)・稲荷社・別当寺金乗院を置きました。八幡山の更に北側には北の丸があり、大木屋(おごや、木材加工所)と籾蔵を置いています。また、本丸西側で内外堀に挟まれ島状になった西曲輪(捨曲輪)には兵具蔵を置きました。本丸・二の丸を内堀で囲み(西兵具蔵前堀・南堀・東堀・北堀)、三の丸を外堀で囲んでいます(八幡宮後堀・西兵具蔵外堀・東外堀・南外堀)。その他も北の丸の周囲(北の丸下堀・北の丸下北の方堀)、中通廓と亀の町廓・長野下の間(大堀)、亀の町廓と築地の間(上堀)、亀の町廓と楢山の間(下堀)などに堀を設けました。堀の多くは旭川の旧河道であり、現在ではほとんど埋め立てられており、現存するのは南堀の一部、東堀の一部、西兵具蔵外堀の一部(穴門堀)、南外堀の一部(大手門堀)のみです。城の直接的な機能を持つ本丸・二の丸・北の丸・西曲輪を総じて「一の廓」、重臣屋敷が設けられた三の丸を「二の廓」、同じく重臣・高禄の家臣の屋敷町となった中通を「三の廓」、それに続く亀の町を「四の廓」と呼び、土手・堀を持たないその他の侍町を「外廓」と呼んでいました(但し時期によって変遷あり)。一門や重臣の屋敷を丸の内から広小路や長野町・古川堀反町など本丸に近い町に配置し、楢山や保戸野など離れたところには主に小録の家臣を配置(但し門の近くなど重要な場所には重臣を置きました)。侍町を総じて「内町」と称しました。町人町は外町と呼ばれ、城の西側に旭川を挟んで配置。内町は防衛のため屈曲・食い違いの多い道路線形になっていますが、外町は交通の利便のため碁盤の目状に区画されています。外町の更に西側へ寺院を集中的に設置。
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以下、歴史・沿革。
【江戸時代以前】
神明山には安東氏(秋田氏)配下の三浦氏(川尻氏)が所在し、氏神として総社大明神・神明宮・別宮攝末社を奉っていました。三浦氏の城は「鎗留ノ城」「矢留ノ城」と呼ばれ、久保田城の別名の由来となっています。また、神明山の名も神明宮に由来。更に古くは大嶽山・小嶽山・光明山の3つの頂がある様から三森山、又は三嶽山と呼ばれていました。
【江戸時代】
・慶長7年(1602)9月17日、久保田藩初代藩主である佐竹義宣、秋田氏の居城であった湊城に入城。湊城は平城で防衛に向かないうえ、54万石規模の家臣団を抱えていた佐竹氏にとって秋田氏5万石(ほか蔵入地2万5000石)の城は手狭であり、これが久保田城築城の理由となりました。
・慶長8年(1603)5月、梶原政景と渋江政光を普請奉行とし神明山に新城を築城開始。同時に城下町と徳川家康が推進していた主要道を整備。三森山神社は川尻村下浜(現在の楢山川口境)へ遷座しましたが、低湿地のため神地には不向きであり、元禄7年(1694)に川尻村上野岱へ再度遷座し、宝永4年(1707)9月6日に社殿造営し本遷宮。明治45年(1912)に3社を合祀し総社神社となります。
・慶長9年(1604)8月28日、窪田城本丸竣工。湊城を破却し窪田城を本城と定めます。また、年内に他の藩へ通じる主要道が完成。
・慶長12年(1607)内町の町割(第一期)が開始。三の丸と中通廓が新設。外町の町割もこの頃開始されたと見られます。
・元和5年(1619)内町の町割(第二期)が開始。中通廓が割直しされ亀ノ町廓が新設。
・寛永6年(1629)内町の町割(第三期)が開始。楢山・保戸野・手形・川口の侍町が新設。
・寛永8年(1631)鍛冶町と馬口労町を結ぶ道を新設し、大町筋を通町から馬口労町まで貫通。街道(羽州街道)を茶町筋から大町筋へ変更。
・寛永9年(1632)久保田城下大洪水により町内浸水。
・寛永10年(1633)9月21日、本丸全焼。二代藩主義隆(義宣は同年江戸で没)は三ノ丸下中城の渋江内膳邸を仮殿とします。寛永12年12月15日修築。
・寛永16年(1639)久保田城西南曲輪の先に鐘楼を設置し時鐘を鳴らします。
・正保4年(1647)この年に描かれた「出羽一国絵図」に初めて「久保田城」と表記。「窪田城」から「久保田城」への改称時期は寛永10年から正保2年にかけてであると推測。
・慶安3年(1650)久保田大火にて2000軒焼失。
・明暦元年(1655)はじめて土崎湊から東廻り廻船を江戸へ出します。
・寛文4年(1664)はじめて領地判物(20万5800石)を与えられます。
・寛文11年(1671)楢山愛宕下を町割。
・寛文12年(1672)久保田城西穴門脇に寄合評定所新設。三代藩主義処になります。
・延宝元年(1673)築地・長野下を町割。
・延宝2年(1674)久保田大火。焼失町数31町、家数1966軒。
・元禄12年(1699)手形東新町・手形西新町を町割。これ以降幕末まで城下町に大きな変化はなし。
・元禄16年(1703)三代藩主義処が江戸からの帰途、横手城で没。四代藩主義格。
・正徳5年(1715)藩主義格没(22歳)。五代藩主義峯。
・享保15年(1730)久保田大火で1110軒焼失。
・寛延2年(1749)藩主義峯没。六代藩主義真。
・宝暦3年(1753)藩主義真没。七代藩主義明。
・宝暦7年(1757)銀札事件(秋田騒動)。久保田町大火で1288軒焼失。
・宝暦8年(1758)藩主義明没(36歳)。八代藩主義敦。
・安永5年(1776)4月2日、本町六丁目から出火し、穴門・西矢倉門(松下門)・東矢倉門(長坂門)・表門・本丸御殿・出し御書院まで延焼。
・安永7年(1778)閏7月10日、本丸全焼。藩主義敦は三ノ丸下中城の渋江敦光邸を仮殿とします。
・天明元年(1781)5月24日、本丸御殿を修築。
・天明5年(1785)藩主義敦没(38歳)。九代藩主義和。
・天明8年(1788)12月24日、焼失していた御用局(吟味役所)復旧の記録あり。
・天明年間、表門付近で出火。
・寛政9年(1797)5月10日、本丸北方で出火し、北方多門長屋1棟49間、北方櫓1ヶ所(帯曲輪門上御隅櫓)、西方多門長屋1棟12間、西方櫓1ヶ所(新兵具御隅櫓)、北西方塀25間を焼失。
・文化元年(1804)鳥海山地震にて象潟隆起。
・文化12年(1815)藩主義和没(41歳)。十代藩主義厚。
・弘化3年(1846)藩主義厚没(35歳)。十一代藩主義睦。
・嘉永2年(1849)久保田町大火で内町2500軒、外町2000軒焼失。
・安政元年(1854)土崎湊に西洋流砲台を築いて海岸防備強化。
・安政4年(1857)藩主義睦没(19歳)。十二代藩主義堯。
【近代】
・明治元年(1868)戊辰戦争。久保田藩は新政府軍を支持したため庄内藩・盛岡藩から攻撃を受け、領内の大半が戦場となり、特に庄内藩には城下12kmの椿台まで迫られましたが、仙台藩・米沢藩の降伏を受けて庄内藩が撤退したため、久保田城は戦禍を免れます。
・明治2年(1869)7月25日、版籍奉還。佐竹義堯は知藩事任命。城地は兵部省(後に陸軍省)の管轄となります。
・明治3年(1870)2月7日、藩庁を三ノ丸下中城の渋江内膳邸へ移します。同年、三ノ丸上中城に藩知事義尭の官邸を移します。
・明治4年(1871)3月3日、久保田藩を秋田藩、久保田城下町を秋田町と改称。8月29日廃藩置県。
・明治5年(1872)4月20日、本丸に秋田県庁を開庁。11月12日秋田県庁が東根小屋町の旧明徳館へ移転。
・明治6年(1873)1月14日、全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方により存城処分。
・明治13年(1880)7月21日、大火により城内の建物がほぼ全焼。
・明治19年(1886)、4月30日の俵屋火事で焼失した寺町鱗勝院の山門として裏門が払い下げられます。
・明治23年(1890)、陸軍省から佐竹氏に城跡が払い下げられます。
【現代】
・平成元年(1989)、本丸新兵具隅櫓(御隅櫓)を復元。
・平成13年(2001)本丸表門を復元。
・平成16年(2004)秋田市建都四百年記念祭が挙行。
・成18年(2006)4月6日、日本100名城(9番)に選定。
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佐竹義堯銅像台座。
27
27.5
久保田城本丸跡…『久保田城が築かれた神明山は、3つの高地からなる標高約40メートル程の起伏のある台地で、別名三森山とも呼ばれていた。築城は慶長8年(1603)5月から着工され、翌9年8月に完成した。本丸は、最も高い所を削平や土盛をし、平らにして造られた。東西65間(約117メートル)、南北120間(約215メートル)のほぼ長方形を呈し、周囲には高さ4-6間半(約7.3メートル-11.8メートル)の土塁を構築している。本丸の建造物には、表門から入った正面に玄関が置かれ、政庁である政務所が設けられており、池を配した中央部には藩主の住居である本丸御殿があった。また、土塁の上を多聞長屋と板塀で囲み、要所には隅櫓を置き、北西隅には兵具庫を兼ねた御隅櫓を設けた。西南隅の土塁上には櫓座敷と呼ばれた書院風二階建ての「御出し書院」が造られた。出入口は周囲に表門(一ノ門)、裏門、埋門、帯曲輪門の四門に、御隅櫓に通じる切戸口があった。』
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殉職消防組員招魂碑(昭和3年7月27日建立)。碑、台石とも白御影石で高さ約5m。
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なお、この付近は御白州跡のようですがその痕跡はありません。お白洲は江戸時代の奉行所など訴訟機関における法廷が置かれた場所で、砂利敷に敷かれた砂利の色に由来します。砂利敷に敷かれた莚に原告・被告らが座りました。大岡越前や遠山の金さんのお白洲を思い浮かべればわかりやすいかと。
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本丸跡には八幡秋田神社と與次郎稲荷神社が鎮座しておりますが、いずれも別記事にしております。
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長くなりましたので『久保田城跡(千秋公園)其之参』へ続く。
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腹が減っては戦ができぬ!ってことで、まずは腹ごしらえでそば処四季へ。レディースセットやにしんとろろそばが人気のようでした。広東そばという変わったメニューも。お店側のおすすめはぶっかけそば、にしんとろろそば。
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私が注文したのは天ざる。920円でエビ3本とししとう。天つゆは別で漬物付き。大量のネギ・天かす・薬味(辛味)・わさびが大量に付いて、更にうずらの卵も付きます(ほぼ使わなかったけど)。下調べもなしに突然入ったお店ですがコスパに大変満足しました。
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大手門跡。標柱より…『久保田城の正門にあたる大手門の跡である。城下町から外堀に架かる上土橋を渡りかぎの手を左に曲がった所に二層の大手門があったが明治初期に取り壊された。』
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外堀。
5
5.5
唐金橋跡を通り黒門跡へ。
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6.5
黒門跡。
7
案内板「久保田城跡」…『久保田城は秋田20万石佐竹氏の居城である。秋田初代義宣(よしのぶ)が慶長7年(1602)入部し、翌8年現在地に築城した。天守閣と石垣のない城として知られている。本丸は明治13年(1880)7月の火災で全焼した。同23年公園として開放され、その後千秋公園と称し、現在に至っている。公園面積162,300平方メートル。昭和61年3月秋田市』
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案内板より。
1.中土橋門跡
2.大手門跡
3.穴門橋跡
4.穴門跡
5.唐金橋跡
6.松下門跡
7.安楽院.境目方役所.勘定所跡
8.鐘楼跡
9.黒門跡
10.長坂
11.二ノ門(長坂門)跡
12.物頭局
13.一ノ門(表門)跡
14.多門長屋跡
15.白洲跡
16.出シ書院跡
17.埋門跡
18.裏門坂
19.裏門跡
20.奥庭跡
21.隅櫓跡
22.帯曲輪門跡
23.土門跡
24.金蔵跡
25.不浄門跡
26.馬場跡
27.厩跡
28.大手北門跡
9
黒門跡の先の桝形。
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二の丸跡。
11
佐竹史料館。内容は省略。現地でご覧ください。観覧料100円です!秋田市ってこういうところの観覧料がとても安い気がします。下の資料はパンフレットより。
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12.5
佐竹氏略系図。
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初代藩主佐竹義宣所用人色皮包仏胴黒糸縅具足。
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三代藩主佐竹義処所用紺糸素懸縅二枚胴具足。
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秋田初代藩主佐竹義宣書状。
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佐竹史料館は安楽院、境目方役所、勘定所跡。佐竹史料館裏に鐘楼跡。
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太平山三吉大神崇敬之碑(御大典記念・昭和3年11月・正四位勲三等侯爵佐竹義春書)。昭和天皇の即位を記念して秋田市河辺出身の田近勇蔵が建立。台石は安山岩、粘板岩の碑だけで高さが約6mあり千秋公園内の碑では最大。
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鳥人聲華騰騰。
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ブロンズ像「空」(北村治禧作)。昭和45年10月15日建立。芸術院賞・文部大臣賞・日展特選賞を受けた北村治禧(日展理事)の代表作の一つ。題字北村西望書。
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台座より…『空は雄大である 人が大きな望みを抱くとき まず 眺めるものは空である 青く澄みきった大空を仰ぐとき ひしひしと迫りくるものは 誇り高い闘志であり あすへの 飛躍する意志である 空は 青少年諸君の心のふるさとであり 大きな希望と 真実を求める勇気をはぐくみ たくましい意志と実行力をわきたたせ 寛容の心をうえつけずにはおかない 緑ふりそそぐ千秋の森にたつこの像は 大空の清純さを生きる青少年諸君に 輝かしい未来へのよびかけを約束するにちがいない われら 秋田ライオンズクラブの全会員は 結成十周年の記念として 青少年諸君に 空のような豊かさと 果てしない希望と 大きくふくらむ夢の実現を期待して ブロンズ像「空」を贈呈しよう』
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牧水・旅人父子歌碑「鶸めじろ山雀つばめなきしきりさくらはいまだひらかざるなり 牧水」「旅さなか秋田にやどりし父のうたふかきゑにしに今日きざまれぬ 旅人」(平成7年10月21日建立)。福島産の吾妻御影石製で高さ約2.3m。
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案内板より…『若山牧水(宮城県東郷町出身)は、旅と酒をこよなく愛した漂泊の歌人である。当然、酒のくに・秋田にも大正5、6年の2回、足を運ばれ、数首を詠まれている。この酒の取り持つ縁で平成7年10月、秋田ライオンズクラブの篤志によって「千秋公園での一首」が歌碑となった。さらに平成11年10月16日、秋田市制施行110周年記念事業の一つとして、長男旅人の一首を加えた父子碑が実現した。父子の大らかで平明暢達な歌風がいつまでも人びとに愛されることを希う。平成11年10月16日秋田市長石川錬治郎』
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長坂。
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24.5
長坂を上ると二ノ門(長坂門)跡。
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25.4
25.8
標柱「長坂門跡」より…『長坂門は本丸の玄関口である表門(一の門)の前に設けられており、二の門とも呼ばれていた。現在、久保田城跡に唯一残っている御物頭御番所(秋田市指定文化財)がこれらを管理していた。長坂門の名称は、二の丸から本丸へとのぼる長い石段「長坂」にちなんで名付けられたものである。』
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長坂下にあった案内板「千秋公園(久保田城跡)」より…『千秋公園は、秋田藩主佐竹氏が12代約270年にわたって居城とした久保田城跡を、明治期の造園家長岡安平の設計によって整備した近代公園である。公園整備は、本丸御殿の御池や城内の土塁・通路などの遺構を活かして行われ、明治30年(1897)に近代的な城跡公園として千秋公園が完成した。長岡は、その後も城跡公園などの設計を多数行ったことから、近代公園の先駆者と呼ばれている。城跡を本格的に公園化する事業は、全国でも初の試みであり、千秋公園は、全国の城跡公園および近代公園のさきがけとして貴重であることから、秋田市の名勝に指定された。平成20年3月25日指定秋田市教育委員会』
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秋田犬ふれあい処in千秋公園。運よくこの日がオープンだったようで、夕方のニュースにもなっていました。千秋公園では5月11日から「つつじまつり」が開催されており、それに合わせてのオープンだったようです。
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ちなみに私はつつじまつりの情報すら得ていないまま、11日のお昼に訪れたのでラッキーでございました。
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29.5
秋田犬保存会の会員が飼育する5頭が交代で登場するそうです。今回お会いできたのは北宝丸(1歳・オス)。触れることもできます(手は要消毒)。
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記念バッジも無料で貰いましたよ。
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ってことで長くなりましたので『久保田城跡(千秋公園)其之弐』へ続く。
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32.5
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