くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2019年08月

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天台宗日光山香華院清瀧寺。下野三十三箇所霊場第一番札所。関東百八地蔵尊霊場第49番札所。栃木県日光市清滝1丁目。1丁目は西部が観音堂・清滝寺・清滝神社の立地する歴史を有する古い集落となっています。
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清滝は男体山東南の溶岩円頂丘の緩やかな傾斜をなす丹勢山と、古生層を主体とする足尾山地北端の三ノ宿山・鳴虫山の山稜との間の大谷川上流谷底平野に位置。丹勢山麓に形成された集落の南端を大谷川が北東流します。近世まで現市街地の大部分は大谷川の氾濫原として不毛の地でした。地名の由来は清滝神社裏に「古杉樹茂り、峻岩数十丈聳えたる所に滝あり。是を清滝と号せり」とあることによります。清滝神社(明治4年まで清滝権現)は、弘仁11年空海来晃の折、滝尾神社・寂光寺(若子神社)とともに勧請されたといわれ、社の別当寺として清滝寺(江戸期に天台宗に改宗)が開かれたとされます。円通寺(長興山福聚院円通寺。明治4年廃寺)境内の観音堂(坂東三十三ヶ所観音霊場第18番札所)には勝道上人が中禅寺千手観音像を彫った末木で彫ったとされる観音像が安置され、女人禁制の中禅寺観音堂の前立の役を果たしました。「日本九峰修行日記」にも「清滝とて中尊寺前札所庵室あり、中尊寺は女人結界故に此所女人堂也、此堂に笈頼み置き中尊寺へ詣づ」と見えます。神仏分離により清滝寺・円通寺ともに廃寺となりましたが、明治42年に清滝寺は円通寺境内に再建(足尾銅山における鉱山開発事業に着手した古河電工により町が復興をし円通寺と合併・再興した形)。
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近くの清瀧神社隣りに清瀧寺跡がありますが、清滝の瀧もそこにあります。清瀧寺跡の案内板には「清瀧権現別当勝福山金剛成就院清瀧寺。弘仁11年(西暦820年)沙門空海上人(弘法大師)により創立。その後、円仁(慈覚大師)によって天台宗に改宗した日光山満願寺(今の輪王寺)別院として、蜜門灌頂の道場であった。」とあります。清瀧神社の由緒沿革についても簡単に触れておきます。弘仁11年(820)弘法大師空海が来山し、滝尾、寂光、生岡等と共に当社を創建。社名は社殿背後のお滝を含めた地形が中国大鷲山の清滝に似ているところから命名。往時は二荒山登拝の要路として、又、密宗修験の霊場として大いに栄えました。お滝の御神水は古来生命保全の霊水として広く信仰されており、又、社前の池は応永12年(1406)鎌倉管領の追討を受けた常陸国小栗城城主小栗判官満重を恋慕する美女照子姫が判官の無事息災祈願の際に洗面したところから、"照子姫の化粧池"と伝えています。御祭神は大海津見神。
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淸瀧千手觀世音菩薩縁起(坂東十八番立木觀音前立本尊)…『抑(そもそも)當本尊の縁起を原(たづ)ね奉るに神護景雲の昔日光山の開祖勝道上人是の山を草創して苦修練行怠らず茲に幾多の星霜を重ね給けるに延暦三年四月二十日黑髪山の半腹なる湖に棹さして西岸に渡り給ふ時忽然として千手觀世音菩薩湖上に出現し給ひ金色の威容堂々として山を壓(あつ)し眉間の毫光赫々として波を射けり上人面のあたり之を拝し奉りて信心肝に銘じ渇仰の念(おも)ひに堪え給はず乃ち湖の邊に一寺を創立して中禪寺と號し境内に桂の巨木を獲て立木の儘湖上感見の尊像を御手づから一刀三禮に彫刻し給ひ之を其の寺の本尊とは爲し給ひぬ斯くて觀音薩■(土+垂)の浄土に因みて此の山を補陀落山とは申すなりとぞ然るに此の地嶮しうして到り易からざれば結縁の便り遂に絶えなむことを憂へ給ひ上人更に彼の桂の餘材を以て又御手づから同尊の靈像を一刀三禮に彫刻して汎く群生を利益せむと誓ひ給ひしもの即ち此の本尊にて在(おは)しますなり爾来千百五十有餘載上人の本誓にも違ひ給はざれば世の渇仰彌(いよいよ)厚く立木の觀音大士と共に坂東十八番の札所に本尊として靈驗今に著く利生猶ほ新なるこそいとも尊き極みなり。仰ぎ願くは大悲の靈光永久に照して上は吾が皇室の盛運を擁護し奉り亦國家を泰山の安きに置き下は信心の輩(ともがら)を攝取して現當二世の幸を得しめ給はむことを敬(つつし)みて白(まを)す。明治44年5月吉辰。晃嶺沙門諶照謹識(日光山輪王寺門跡大僧正正彦坂諶照猊下)。日光山淸瀧寺執事』
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堂宇正面。
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手水舎。
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堂宇。
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8.5
向拝。円空作の「不動明王と脇侍二童子」があるそうです。円空の円熟期の傑作。日光市指定有形文化財。日光市の指定文化財HPから写真で見ることができます。また、内陣には古写経本「大般若」約400巻が蔵されており、書写の記年銘の最も古い大治4年銘の巻末の奥書に「二荒山一切経」とあるそうです。
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庫裡。
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鐘楼。
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決して広い境内ではありませんが色々なものがあります。
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しらみ地蔵。
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13.5
石造地蔵菩薩坐像(日光市指定有形文化財)…『年紀銘から天正年間(1573-1591年)に製作されたことがわかり、この時期の日光における石仏研究の貴重な資料である。像容は近世の坐像と比較し、肩が極端になで肩となっている。袈裟の文様線は単純で、首部の襟ぐりが深い。像の厚みもあり量感にあふれるが、全体的に簡素である。かつては清滝神社付近の路傍に祀られていたと伝えられ、この前で浮浪者がひなたぼっこをしながらシラミ取りをしていたといい、そのことから「しらみ地蔵」とも呼ばれている。平成18年3月3日指定日光市教育委員会』…しらみ地蔵の由来が何とも微妙です笑
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観音堂大修繕記念塔。
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宝篋印塔。
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「中禅寺前立」。
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馬頭尊等。
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大仏。
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水かけ観音。標柱「念ずれば花ひらく水かけ観音」。
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不動明王。
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「得大勢至菩薩」。
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六地蔵・如意輪観音。
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追分の碑(紀文句碑)。中禅寺と足尾への道を分けた道標。元文5年「紀伊国屋立之」の銘があり「右中せんし道 左あしをみち」「山高水長」「青葉からひと雫づつ大谷川 東江李喬」と刻まれています。
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紀文句碑二…『日光市内にある「紀文三句碑」のひとつ。中禅寺と足尾への道標を兼ねているので、追分の碑とも呼ばれている。紀文は、紀伊国屋文左衛門。姓は五十嵐、江戸中期の豪商。みかん船で知られ、俳句もたしなんだといわれるが、本人が日光に来たかどうかは、わからない。元文5年(1740年)の建立。』
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石灯籠。
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26.5
星野面山句碑。
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『「甘露法雨 観世音 沙羅菩提樹も 茂り居て 観音の 慈悲に醒むるや 春の夢 面山」星野面山は、本名利一。日光市清滝で薬局を経営、読売新聞清滝販売所長。俳句・水墨画にいそしむ。清水比庵・若山牧水・与謝蕪村などの文学碑を市内に建てゝいる。碑の文字は、面山の自筆。昭和47年7月の建立。』
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清水比庵歌碑。
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『「下野の国 巡礼札所第一番 日光清滝観世音 雨ほととぎす 九十三叟清水比庵」清水比庵は、本名秀。明治16年岡山県生まれ。日光電気精銅所を経て、昭和5年、日光町長に就任し、特に観光行政に尽した。昭和33年、初の日光市名誉市民。短歌の会「二荒」「窓日」を主宰。昭和41年(84歳)宮中歌会始めの召人(めしうど)を務める。昭和50年10月、93歳で死去。碑は、93歳の時の自筆で、昭和50年11月16日、星野利一氏が建立』
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栃木県日光市本町。かつての四軒町。江戸期は日光門前西町の1町。四軒町は寛永年間に東照宮の楽人屋敷が四軒置かれたことに由来し、楽人町とも称されました。中世には寛喜3年山内仏岩から日光山の往生院及び墓地、応永年間には光明院の阿弥陀堂が移転され、いくつかの堂坊がありましたあg、寛永17年の町割の際にこれらは大工町に移転。東照宮鎮座後徐々に堂社の移転が始まっており、これらの跡地を中心に町並みが整備されたと考えられます。当町の氏神でもある青龍神社は、馬町に日光火之番屋敷が設置された承応年間に現在地に移転され、旧社地の前にあった池が埋め立てられたと伝えることから、この前後に付近の家並みも整えられたと考えられます。町内には東照宮楽人の他、日光目代山口氏の下僚、寛政以降は日光奉行配下の役人の役宅が多く、幕末期には社家1、楽人12、奉行配下役人15が居住。明治7年に日光町の一部となり、同年日光町、同22年からは日光町日光の通称地名。明治6年にカテッジイン、同24年には新井ホテルなどの外国人を対象としたホテルが開業。大正3年に旧日光目代屋敷跡に日光真光教会が建てられました。昭和19-22年に袋町と合併して田母沢町と称し、昭和29年日光市の町名、昭和44年本町となります。
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四軒町…『江戸時代の始め、東照宮の「楽人」の屋敷が四軒おかれたことから「四軒町」と呼ばれた。本来は日光山内の一部で、日光奉行所関係の役宅や「日光火之番屋敷」があり、民家中心の西町では特殊な地区であった。現在は「本町第一」の一部になっているが、地区内には「殉死の墓」や「釈迦堂」などの史跡も多く、「金谷記念館(侍屋敷)」は楽人屋敷の遺構である。』
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3.5
青龍神社…『弘法大師空海が、滝尾、寂光を開いたときその弟子が仏法の守護として、京都醍醐の青龍神を移し祀ったという。今は、大海津見命を祀る。東照宮及び二荒山神社の例大祭のとき晴天を祈って祈晴祭が行われている。本町(もとの四軒町、袋町、下本町の氏神。正月三が日の後の日曜日に五社祭(磐裂、青龍、八幡、花石、久次良の各社)、9月15日に例祭が行われる。』
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石灯篭一基。
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参道石鳥居二基。石灯篭も石鳥居も江戸期のものです。日光の歴史を感じることができます。
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青龍神社は日光西町五社(磐裂神社・清瀧神社・八幡神社・花石神社・久次良神社)の一社。気象の守護。
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手水石。
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石灯篭一対。
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9.5
参道石段の途中に狛犬一対。
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10.5
かなり個性的です。
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写真ボケボケですいません。阿形の前足と顔面(鼻と上唇)は破損しているようです。吽形の前足は修復されています。
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狛犬の体には「明暦四戊戌年六月」(左前足)、「奉納天狗兩疋」(胴体)、「篠原益右衛門」(左後足)と彫られているように見えますが、暗かったので名前は自信ありません。
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紀年銘ははっきりと見てとれます。明暦4年なのでかなり古いものです。
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青龍神社社殿。
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向拝。
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隣の鳥居。
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境内社の稲荷社。
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境内の石祠群。
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青面供養塔(元文4年9月16日)。
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参道。
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栃木県日光市稲荷町。入口向かって左の木は「虚空蔵尊のしだれざくら」として親しまれているしだれざくら。開花時期は4月中~下旬なので咲いていません。高さ約18m、幹周約3m、推定樹齢350年。近くにはほぼ同じ推定樹齢の「高田家のしだれざくら」もありますので、開花時期には是非そちらもご覧になってみるといいと思います。ちなみに石鳥居紀年銘は天保4年、宝暦4年。
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稲荷町は江戸期は日光門前東町の1町。古くは稲荷川左岸に位置し、皆成川村・稲荷川町と称しましたが、寛文2年の洪水の後、人家が大谷川右岸の現在地に移転してからは主に稲荷町と称し出町とも称されました。日光神領。元禄年間頃の「日光古図」(東照宮蔵)によりますと、稲荷川左岸には2筋の道筋が通り、1筋には北から1-4丁目・火之番屋敷が見え、川沿いのもう1筋に裏町通が見えます。また「堂社建立記」によりますと、寛文の洪水に際し「稲荷川四町、上一町残、萩垣町・鍛冶町三百軒余押流」とあるので、稲荷川町の一部が萩垣町・鍛冶町などと称していたことがわかります。「慶安郷帳」では「皆成川村」と見え、村高62石余(畑のみ)、「元禄郷帳」では「古皆成川村、稲荷川町」と見え39石余。元禄14年「日光領目録」では「外山分」として39石余が見え、「天保郷帳」では「古者稲荷川町、外山村」とあり村高は41石余。寛文2年の洪水による流失家屋300軒余、死者148人、被災者915人。被災後、宅地移転者200軒に3両宛、貧民60人に6両宛の救恤があり、稲荷川町の大多数の人家が移転。その後、洪水にあった元稲荷川町地域は、外山村あるいは萩垣面と称しましたが、行政上は移転後の当町に属して当町の1地区となりました。貞享元年の日光大火による当町(出町)の焼失家屋127。明和7年家坪数書上帳によりますと、家数92軒、うち萩垣面5軒と見えますが、同年の潰家坪数書上帳に潰屋36軒が書き上げられているため同年の家数は56軒だったと思われます。文久年間の記録では、日光奉行配下役の当町内居住者12。慶応年間の家数53・人数252。文政12年の年中御役勤方帳によりますと、当町も他の門前町と同様に日光山の祭祀や日常生活に関係する人足夫役を負担しており、その内容は4月御祭礼供奉御役109人、9月御祭礼供奉御役78人、3月御祭礼供奉御役16人、他に御宮御霊屋大掃除栗石返シ、御門主様三度御登山之節御発駕役、御宮日勤御掃除1日2人、御殿地石垣上草刈りなど多岐に渡っています。神社は建保2年禁裡守護の稲荷を勧請したものと伝えられ、河川・町名にもなった稲荷神社があり、民家と同様に洪水の後に現在地に移転。また、虚空蔵堂は寛永年間に神橋高台の星の宮(磐裂神)を現在地に分祀したもので、東町6町の総鎮守です。寺院には元多聞坊と称した天台宗香煙山瑞応院多聞寺があり、廃寺となった後も多聞坂の名を残しています。地内に西行戻石があり、往時西行登晃の砌、地元の小童が麦のことを「冬もえて夏枯草」と表現した才智に驚いて立ち戻ったという口碑を伝えます。
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狛犬一対。
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4.5
紀年銘は文政10丁亥歳正月。
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5.4
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手水舎。
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常夜燈。
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常夜燈他、石仏、石祠。
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8.4
8.6
8.8
本殿。残念ながら修理中でございます(平成30年現在)。平成28年より改築及び境内の整備が行われているようです。貞享元年の火災で焼失した後の元禄5年に再建。平成元年修築。
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ブラタモリの日光宿場町のエンディング前のロケ地がここになっています。そちらで堪能ください。立派なものです。
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御祭神は虚空蔵尊(磐裂神=根裂神・石析神・根析神)。栃木県においては虚空蔵尊は神仏分離によって星宮神社、磐裂神社と改称させられましたが、ここは虚空蔵尊としています。
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虚空蔵尊…『・寛永17年(1640)、神橋右岸の磐裂神(虚空蔵尊)を分祠し、東町六ヶ町の住民の鎮守として祀る。・例年、正月9日-10日に大祭を執行。・御宮造、本朱塗極彩色の社殿は、栃木県文化財指定。・境内に太子堂もある。』
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社殿向かって右。
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不動明王。
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隣の石祠は何かわからず。
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境内。虚空蔵尊のしだれざくら横に建物があります。
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聖徳太子堂。
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狛犬一対。
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18.4
18.6
18.8
年代不明。
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19.5
常夜燈一基。
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聖徳太子堂内。
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大杉神社。
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神輿がありました。
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境内にはたくさんの庚申塔があります。
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この内、日光型庚申塔7基が有形文化財(建造物)に指定されています。
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日光型庚申塔…『日光型庚申塔の特徴は板駒型で上部左右に日月を陽刻し、中央上部に梵字を彫り、銘文に「奉信禮庚申青面金剛供養攸」などと刻む。さらに、上部に向かい合って合掌する二猿が陽刻され、下部に蓮華が刻まれている。この形式の庚申塔は日光地区に多くみられるが、天和2年(1682)以降は確認されていない。この境内では寛文2年(1662)から延宝8年(1680)の間に建てられた7基が指定されている。寛文2年6月には稲荷川の大洪水があり、かつて対岸にあった稲荷町が流失して多数の犠牲者がでた。その後、この地域に町が移転するが、年紀銘に「寛文二壬寅歳南呂十九日」とあり、8月に供養塔が建てられたことがわかる。寛文6年から延宝8年までは毎年のように建立されており、人々が町の安泰を願っていたことがうかがわれる。平成18年3月3日指定。日光市教育委員会』
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