くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2019年02月

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三戸町貝守。三嶽神社の一之鳥居から数メートルの所に未舗装の道があり、その少し先に貝守地蔵堂があります。その昔、甲斐武田氏の末裔である中村式部尉勝氏が、源義家に従って奥州に下り、貝守の地に住みました。地蔵堂は勝氏の霊を祀ったものと伝えます。境内には大イチョウ(推定樹齢300年以上・樹高26m)があり、勝氏の墓標に植えたものと云われています。勝氏から3代の娘が、1度嫁ぎながらもほどなく離縁して実家へ帰されます。娘は「身重であれば屍は2個となるであろう。そうでないなら白玉1個となっているだろう。3年後に発掘してみよ」という遺言を残して自殺しました。3年後に掘ってみると、白玉が1個出ました。これを哀れみ娘も地蔵堂に合祀したといいます。大イチョウは乳が出ない母親がさらし袋に白米を入れて祈願すれば霊験あらたかであると伝えます。三嶽神社に参拝した後に寄ろうと思っていたのですが、三嶽神社参詣に満足して、すっかり忘れていました。イチョウの巨木に興味がある方は近いので行ってみてください。
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参道にあった石碑。よく見えませんが明治期の庚申塔かな。
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倒れていた碑。
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途中に墓所。
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旧貝守小学校跡地が貝守館跡。貝守館の出城と考えられる横館は猿辺川の右岸、貝守館の南方500mの地点で、南北にのびる台地の先端を利用した館。ちなみに『青森の伝説』には「貝守が岳の頂上に、大昔のこと手長婆が住んでいた。毎日この山から遠くの八戸の海を見ていて、手をのばしては海中の貝をとって食べていたという。だから今でも、頂上の岩に婆の食べた貝殻が、たくさんくっついているのだという。」とあります。
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社号標。
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参道石段。
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「邦内郷村志」によりますと三嶽神社について「神岳権現堂、重信公元禄6年再興。大同2年田村将軍の開基。往古百石有領、別当貝守弥七郎、依無調法而被取上、又二百石共云」とあります。
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御祭神は広国押武金日命。例祭日は旧8月3日。戸来三嶽神社よりも更に古い創建です。
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大同2年(807年)、坂上田村麻呂により創建され、天暦時代に蔵王権現を勧請したと伝えます。康平3年(1060)、源義家東征の折、別当貝守孫作の祈願にて神託を授かり大勝。南部家29代重信公によって神嶽権現堂が再建され、神仏混淆の時代には威徳院同行神嶽権現堂として尊崇を受けました。明治に至り三嶽神社と改称され、貝守の産土神として厚く信仰されています。
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境内には大杉や古欅が数多く生息しており、神々しい雰囲気を醸し出しています。
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拝殿。
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拝殿蟇股・木鼻・海老虹梁。
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向拝下神額。
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拝殿脇障子。
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拝殿内。
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幣殿・本殿。
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本殿脇障子。
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拝殿横に連結している建物。恐らく神楽殿。
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拝殿前石灯籠二対(明治35年旧3月7日・明治49年9月1日)。
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手水舎。
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手水石2基。
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狛犬一対。
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狛犬の上の台座には「大正14年旧3月3日・三戸郡蛇沼村願主・藏瀧宮」とあり、下の台座には「大正14年旧3月7日・猿辺村大字蛇沼本村納主・三滝宮」とあります。
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三嶽神社(三戸市長松尾栄謹書)…『三嶽神社には正確なる古書記録なく、詳細を欠くが「貝守家の言伝え」、「邦内郷村誌」によれば桓武天王の大同2年(808年)頃、坂上田村麻呂の開基と伝えられ、廣国押建金日命を祭祀すると云う。また蔵王権現を祀った年代は、村上天皇の頃(950年)と伝えられる。御冷泉天皇の御代(1060年)の頃、源義家東征の折、別当貝守孫作の案内にて当神社に戦勝を祈願し、神託を授り大勝したという。南部家29代重信公によって、神嶽権現堂を再建敬信した記録が邦内郷村誌に明記されている。神佛混淆の時代には威徳院同行神嶽権現堂として、世の尊崇を受けたという。明治に至り、三嶽神社と改称され、村社として近郷近在を鎮守されている。特に当神社と深い縁故がある貝守家は数百年に亘り、別当として奉仕した家柄である。或る時代には山伏となり、蔵王葛城山京都などを遍歴し、坊号、院号を許されている。郷に帰っては信仰を説き経済文化の導入に力を注ぎ、地域の安泰を祈って当神社を守護した足跡は、人々の等しく認めるところである。また神社の尊厳のために植えたと伝えられる杉の巨木は、稀にみる荘厳な神域を造成し、数大に亘る社殿の改築等に尽した実績は貝守家の誉れとして永遠に銘記するとともに、ここに名家としてその功労を顕彰するものである。』
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裏面碑文…『趣意書…三嶽神社の縁起は、時代の変遷により遠く忘れられてきている。このときにあたり、関係者が協議し古くから貝守の産土神として崇敬された当神社の来歴を明記して永く後世に伝え隆盛を期するものである。昭和51年9月1日』
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明治三十七八年戦役紀念碑・従軍紀念碑(明治27年9月)。
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忠魂碑(陸軍大将西義一書)。
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五訓の森(昭和7年5月建立)。
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石祠。
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石祠。
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末社の若宮八幡宮。
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こちらも境内社ですが何かはわからず。
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中央に祠、脇には「奉納三嶽神社」と書かれた木札。
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本殿両脇には狛犬一対(阿吽)。
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ちょっと見えにくいのですが、個性的な狛犬です。
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十和田市大不動柏木。
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天満宮参道の入口に立っている樹高35m、推定樹齢300年の赤松が目印です。
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かつては左右一対となっており、鳥居の代わりに植えられたものと推定されていましたが、平成25年に東側の1本が枯死。
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柏木の赤松(十和田市指定天然記念物第2号・昭和56年4月24日指定)…『この2本1対の赤松は、共に樹高が約35メートル、幹周りが3.5メートルほどあり、樹齢は300年以上と推定されています。柏木集落の鎮守である天満宮の創建時あるいは再建時にお宮の門がわりに植えられたものとも言い伝えられています。柏木は、江戸時代の文献類にもその名が散見される集落で、元禄6年(1693)に南部藩士木村又助秀晴により、五戸から月日山を経て十和田湖に通じる道が開かれると、その道筋に当たっていた柏木は、十和田神社へ参詣する人々のための宿場として利用されるようになったということです。この2本の赤松は旅人たちの重要な道しるべであったとも言われています。【アカマツ】学名はPinus densiflora.et Zucc.でマツ科マツ属に属する常緑針葉高木。樹皮の色が赤いのが特徴で、日本、朝鮮半島、中国東北部などに分布します。』
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太田茂八郎翁之碑…『地方開墾發に貢献する者世に其の数多しと雖も我等が尊敬する太田茂八郎翁の如く専心郷土發展に意を用ひ能く村民を愛撫薫化すること慈父の如きは甚だ稀なり 翁は夙に地方産業の振興に力を盡し殊に愛林の念強く永遠の策として字外沢松谷沢切谷久保の地百数十町歩を下げて柏木共有地となし明治廿5年より丗箇年の継續事業として松杉栗等丗万本の造林をなさしめ以て今日に至れるは一に翁の啓導の賜にして其の功績洵に顯著なり 翁は又敎育者として或は郡會村會議員或は産業組合設立者として或は各種團体の指導者として地方の巨人たりき翁業成り昭和6年6月廿9日69才を以て卒す今翁の恩顧を受けたる我等相圖りて天満宮の境内に碑を建つるに當り聊か蕪辞を列ねて以翁の靈に奠ぐること爾り 昭和12年8月25日建立 發起人柏木村中』
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参道石段。
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石段途中から振り返るも、自分自身も上がって行ってるので高さが伝わりませんね。
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社殿前鳥居。
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社殿前から鳥居。
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やはり高さが伝わりません。
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社殿。
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由緒等は不明です。創建年は柏木の赤松(樹齢300年以上)からある程度推定できます。御祭神は菅原道真公。
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拝殿前に並べられている石や手水石。
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向拝神額。
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拝殿内。
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拝殿内にあった東奥日報(1997.10.4)あおもり110山「月日山」「日月神社社殿新築」記事。
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『恵みに感謝。信仰今も。【社殿新築でクリの標柱設置】日月神社付近には大岩、タカのツメ跡がある岩、古墳、賽の河原、寺屋敷跡など見ものがさまざまある。1997年の神社社殿新築の際、これらのそばにクリの木で作った標柱を設置した。とくに大岩は磨崖碑と言われ「日月山」と刻まれた字がはっきり見える。かなり昔に掘ったとみられ、月日山は以前、日月山と言われていたことをうかがわせる。山頂は神社から林道を歩いて3-4分の所にある。三等三角点が埋められている。【月日山(十和田市)標高549.4m】十和田市西南部の柏木地区からさらに西南に向かって車を走らせると、やがてなだらかな山が見えてくる。これが月日山だ。植林した杉や、かなり伸びたミズナラなどで覆われ、こんもりしている。藤島川土地改良区理事長を務める同市大不動柏木、太田悦朗さん(50)は「月日山は昔、炭焼きと馬の産地だったんです」と教えてくれた。月日山は、人々に大きな恵みを与えてくれる“宝の山”だったのだ。炭焼きの人たちは夏と冬に山に入った。山の中に炭焼き小屋をつくり、長期戦で炭を焼いた。定期的に場所を変えて木を伐採するため、山はいつも同じ状態に保たれていた。このような炭焼きは30年ほど前まで続いたという。以前は太平洋のイカ釣りの明かりや名久井岳が見えるなど眺望は抜群だったというが、今は山項や神社前に立っても木に遮られて眺望はきかない。炭焼きをやらなくなり、定期的に木を伐採しなくなったためだ。【自然の放牧地】太田家はかつて40-50頭の馬を飼っていた。戦前、戦中は軍用馬を拠出し、戦後は農耕馬として育てた。「子供のころの夏、馬を放牧するため月日山に登った記憶がある。山は自然の放牧地だった」と太田さん。このように月日山に馬を放す家は多かった。今でいう林間放牧をしていたわけだ。が、炭焼き同様、今は放牧していない。月日山は、人々の生活と密接にかかわっていたとともに、信仰の山でもあった。古くから「死者の霊は、いったん月日山に集まり、それから恐山に行く」と伝えられるなど霊山として知られていた。これに加えて、人々は月日山から多くの恵みを受けてきたため、山に対して深い崇敬の念を抱いてきた。信仰のよりどころになっているのが、山頂付近にある日月神社だ。山名が「月日」、神社名が「日月」なのが不思議だが、そのなぞはだれも分からない。神社への参道は、五戸方面から十和田湖に通じる十和田山参道と重複していた。太田家は、十和田山参道を歩く参拝客の“宿”でもあった。人々は当時、こうして民家に泊まりながら参拝をしていたようだ。「みんな日月神社に参拝してから十和田湖に向かった」と太田さんは話す。【参道を整備】炭焼きをする人たち、馬を放牧する人たちは、入山の前に必ず日月神社にお参りし、旧暦の7月3日の例大祭には、境内は参拝客でごったがえしたものだ、という。しかし、人々の足は次第に神社から遠のいていく。太田さんは「車社会になってから、歩くのがおっくうになったためだろう」と言う。太田家は江戸時代末期から同神社を管理してきた。このため太田さんは毎年の例大祭の参拝は欠かしたことはないが、奥さんと2人だけの参拝のときもあった、という。それが、ここ5-6年、参拝者が急に増えてきた。参道が整備され、神社まで車で行けるようになったためだ。今年の例大祭はいつにないにぎわいを見せた。1951(昭和26)年に建てた社殿が老朽化したため、太田さんが音頭をとって新築。その落慶式典が行われたためだ。式典の最後に同市大不動の鶏舞が演じられた。雨中の熱演に涙を流す人もいた。涙は信仰の厚さを物語っていた。』
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境内の石塔群。
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菅公千年祀記念碑(明治35年建立)。
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「字切谷久保松谷澤外沢ノ三所ニテ向後五十年ヲ期シ杉松栗三十万本植ルヲ起誓」(柏木村中・明治35年建立)。
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「太田金藏殿 布施市殿 右者當村共有地造林事業に盡力せられたるに付其功労を謝す 昭和12年8月25日柏木村建立」
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こちらの石はよくわからず。
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末社。
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何かはわからず。
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脇野沢です。北限のサル生息地。
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付近の道路には堂々と猿がおります。
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中々避けようともしない図太い猿まで。
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完全になめられています。
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道の駅「わきのさわ」。野猿公苑・いのしし館もあります。
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野猿公苑には昔行きましたが、道中で猿を見まくったのでスルー。
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ソフトクリームの幟に釣られて寄っただけです。そのせいで帰りのフェリーに乗り遅れたのは内緒です。
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さて、脇野沢八幡宮です。文献によっては本村八幡宮とも(元本村旧村社の八幡宮であり旧号岩清水千手観音社)。青森県むつ市脇野沢桂沢。脇野沢村の北端、静海山または観音山と呼ばれる標高100m余の小高い山の南麓、桂沢の地に南面して鎮座しています。
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両部鳥居(昭和49年8月13日建立)の先にも参道が真っ直ぐ伸びています。鳥居は3基あり、2の鳥居(※見逃していなければ現存せず…石造ではありませんでした。)と3の鳥居は石造で安政5年角屋藤次郎寄進。加賀で造らせて銭屋共八郎の船で運んだといわれます。
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鳥居脇の建物。
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護摩堂。
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別当渡部家の修験僧の時の守護仏大成不動尊を祀ります。
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鯛島弁天社の弁天像も一緒に祀られ、祭りには持ち出されます。
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参道石段。
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参道脇にも色々と建物がありました。
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何かはわかりません。倉庫的な建物に見えます。
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三之鳥居(上記参照)。
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社殿脇の水漱盤は天保9年加州石工浅野権右衛門の作で、寄進者西田四郎兵衛、能登屋与左衛門、世話人加州宮越菓子屋太兵衛の銘があります。ちなみにきちんと確認はしていません。フェリーの時間が迫っていたのでじっくりと見ていられなかったのです…結果として遅れましたが笑
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御神灯碑は文化3年徳宝丸与治右衛門、松右衛門並びに同船中一同の寄進。これらは幕末に北前船で活躍した商人たちが航海の安全を願って寄進したものになります。脇野沢八幡宮例大祭は、毎年8月15日から17日までの3日間にわたって盛大に行われますが、二百数十年前に北前船で活躍した商人たちによって始められ、彼らが脇野沢本村に定住していく過程で祭礼に関与していったと言われています。寛政年間に神輿や神具一式が能登の商人からもたらされ、神輿渡卸による祭礼が始められました。その後も本村の夏祭りには、海運による経済的発展でもたらされた山車神楽などが加わって拡大し、船山、蛭子山の山車、新井田・瀬野からは道中神楽、滝山神楽、源藤城神楽、更に、九艘泊・寄浪からは神輿担ぎらが町内を練り歩き、今では脇野沢地区を代表する夏祭りとして親しまれています(県無形民俗文化財)。
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ちなみにこちらの石灯籠は昭和43年8月15日奉納のもので、文化3年の石灯籠は見ませんでした。
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狛犬一対。
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昭和5年旧7月吉日。
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神社庁によりますと、御祭神は誉田別尊。例祭日は8月17日。寛永元年(1624)8月勧請と伝えます。岩清水千手観音安置。弘化2年に社殿改築再建。明治元年神仏混淆沙汰により社号を八幡宮に改め、岩清水八幡大神を御祭神としました。明治6年5月村社列格。同15年に神体寄進、同21年本殿建立して遷座。明治39年4月神饌幣帛料供進神社。昭和21年6月25日宗教法人令による届出。昭和25年9月19日国有境内地譲与許可。(以上神社庁HPより)
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明治元年の神仏分離令が出るまでは旧号を岩清水千手観世音社と称しており、千手観世音を本地仏として祭神に祀る神仏習合の社堂でした。創建は寛永元年と伝えますが、由来及び縁起については明らかではありません。但し作者及び年代不明の「静海山碑文」が残されています。これは当村の代表的伝説である坂上田村麻呂伝説と関連付けて当社の旧祭神であった観音像の縁起を述べるもので、内容は必ずしも事実であるとは言い難いのですが、一つの伝承としては興味深いものです。なお、『青森の伝説』によりますと「(前略)坂上田村麻呂が蝦夷征伐のためこの地に来たとき、ここの酋長の娘が田村麻呂に仕え、やがては都に伴われるよう約束した。しかし娘を残して田村麻呂が去ってしまったので、海上はるかの船を望みながら娘は泣き暮らし、ついに狂死してしまった。村人は娘をあわれんで、鯛島へ葬ったという。田村麻呂が娘に残した観音像は、海上を望む脇野沢の高い丘に祭られた。これが今の八幡宮であるといわれる。」とあります。
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静海山碑文…『夫レ祭トハ礼ヲ厚クスルノ本ナリ。故ニ礼正シカラザレバ即チ心乱レ、心乱ルレバ即チ鬼神必ズ祟リテ、ココニ大乱ヲ生ズ。去移、延暦二十一年壬午秋八月、東征大都督坂上田村麿短夜鬼ヲ追イテ此ニ来タル。和締シテ明年帰洛ス。寓スルコト一年ナリ。田野ノ長、某、女ヲ奉ズレバ則チ胎アリ。別レニ臨ミテ筐玉中ニ観音アリ。是レ即チ当山根元ノ本尊ナリ。此レヨリ半バ、千五十有六歳、正平十六稔、従三位民部卿、封ニ依ッテ着岸ス。県令瀬尾貞行上言シテ、大造営ヲ賜ウ。善ヲ尽クシ美ヲ窮メルコト雲ニ堂塔ノ聳ユル如シ。而シテ後九十有七歳、逆臣蛎崎信純、王命ニ背キテ、ココニ荻兵壱万五千屯ス。破ルルニ至リテ自ラ焼イテ以ッテ拒グ。天兵、時ニ什窟霊器皆コレ喪失スルナリ。ソレカクノ如キハ何ゾ又ト久シク得ンヤ。忽チ康正春渠断滅シテ、長禄元丁丑秋七月十有七日、北部追討大都督河川刺史源朝臣政経、臣荒川茂秀服部忠重等ト之レガ再建ヲ仰グ。ソレ民望ヲ失ワズ、専ラ徳ノ格ヲ致ス。コレ薩■(土+垂・さった)ノ用イル如シ。慈悲深重所以ナリ。謹シミテ爾カ云ウ。』
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旧祭神の岩清水千手観音像は正軍地蔵と毘沙門天を左右の脇侍仏にもつ、高さ1尺5寸6分(約50cm)の本像で光背裏面には「享保七年丑寅年七月十七日、脇野沢忽氏子、檀那石河源之尉、別当権大僧円祥院改之」と刻記されており、観音像がこの年に新たに作製されたことがわかります。神仏分離令により仏体は中寺悦心院に移されましたが、同寺にはこれと対になる千手観音像が安置されています。社号を八幡宮と改め、八幡大神を祭神としたものの、当初は神体もなく、明治15年になり角屋松村藤次郎が応神天皇像を求めて加賀金石港より順栄丸で運んで神社に寄進し、明治21年に本殿を建立して遷宮。
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神社所蔵の「社堂建立書上扣」に社名に並んで春日大明神の記載がありますが、伝説によりますと藤原藤房卿の臣下春日少将源顕信が藤房卿の草庵のあったという現在の社地に春日山藤房院顕信寺を建立したといい、何らかの関連が考えられます。また、現在、滝山稲荷神社に合祀されている春日神社との繋がりも考えられます。
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社殿は弘仁2年に再建。当初は宮社、幣殿が2間4方、拝殿が3間4方でしたが、昭和17年に現在の社殿が再建され、本殿縦横1間、幣殿縦4間横3間、拝殿縦4間横5間の造りとなりました。幣殿内には神輿が安置されています。
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拝殿向拝神額。
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忠魂碑(海軍大将中村良三書)。
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忠魂碑の場所にはかつて神明宮が鎮座していました。寛永13年の勧請で、天照皇太神宮と称し、大日霊子を祭神としていました。祭日は9月9日。明治4年の神社書上には本社3尺4方、幣殿2間4方、拝殿3間4方とあり、大きな社殿であったことがわかります。この神明宮が無くなった時期については不明ですが、明治9年に神明宮跡地に舞台を建てたという記録があり、恐らく明治4年-9年の間に廃社となったことが推定されます。
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照輝堂。社殿向かって左側にあります。周囲は雑草に覆われており近付けませんでした。照輝堂は明治40年代頃に弁天様を祀るために建立されたものです。この弁天様は九艘泊の市杵島神社にある藤原藤房作といわれる木像で、鯛島から流れ着いたとの伝承があり、漁の神様として信仰されました。九艘泊に置くよりも本村に移し、より多くの人々に参詣させようと、当時の氏子総代(川岸徳十郎ら)が移したものです。しかしこの弁天様が九艘泊を去ってからタラの不漁が続いたために、九艘泊の若い連中数名が秘かに九艘泊へ持ち帰り、現在はこのように堂宇だけが残っている状態です。
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熊野権現堂。参道右手に鎮座。
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昭和50年代前半に親和町で奉祀していた権現様を奉納するために建立されました。祭日は旧3月と9月の21日。
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熊野権現堂内。
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熊野権現堂の横の道を進んだ社務所裏手付近。
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日和山チョコマン稲荷神社があります。美味しそうな社名です。
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石灯籠一対。上記の文化3年の石灯籠かも知れませんが、状態が悪くてわかりませんでした。
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御祭神は稲蒼魂命。社名の「チョコマン」の由来は不明ですが、「千代古万」あるいは「強古万」と当て字されることがあります。通常は「チョコマン様」と呼び慣わされいます。
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創建は正保3年と伝えており、当初は藤ノ崎にあり、弁天島(鯛島)に向けて堂が建てられていました。後年コレラが村に流行し、そこで死体を火葬したために不敬であるとして、山号にある通り日和山(現在の愛宕山)に移しました。
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明治の初めには日和山から境内に遷座されています。最初は社殿向かって左の現在寄付の札場があるところに建立され、昭和17年の八幡宮再建の際に現在地に遷座。管理運営は本村の能舞講中があたり、祭日の6月19日と宵宮の18日には講中による能舞の奉納があります。
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眺望。私が乗るはずだったこの日最終のフェリーの汽笛が境内に虚しく響いておりました。そうです…私はこの日和山チョコマン稲荷神社前から自ら乗るはずであったフェリーを見送ったのです。
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※以下、脇野沢村についてのメモです。長いのでスルーして下さい。
脇野沢村(脇沢とも)。下北半島西南端、脇野沢川流域に位置し陸奥湾に面しています。海岸線近くまで山が迫る山村的漁村。脇野沢港と九艘泊港を有し、古くは桧材と海産物の積出港として栄えました。地名はアイヌ語に関係しており、坂上田村麻呂伝説から鬼伏という地名が生じ、征服されたという意のアイヌ語「ワンキー」から転じたという説や、岸が耳のように突き出しているという意の「ワ・キサル」に由来するとも云われます。鬼伏自体もアイヌ語で境標のある所を意味する「オニウシ」や、川尻に森のある崖の意の「オニペシ」からきたものとする説もあります。「康正三年下北図」には「鬼沢」「鬼沢主膳」とみえます。蛎崎蔵人が平定される以前、鬼沢主膳を配置したことから一時鬼沢と改められましたが、平定後旧名の脇野沢に復したとされるも委細不明。枝村が多く、山在と呼ばれる山間部に片貝・滝山・源藤城、上在と呼ばれる海岸沿いに瀬野・新井田・寄波・蛸田・芋田・九艘泊があります。武士泊は「邦内郷村志」によりますと牛滝村(現佐井村)に含まれています。源藤城は、菅江真澄の「奥の浦々」に「源藤次郎といふ村也。むかし、その人やすみそめたらんか」とあり、「邦内郷村志」には「源藤二郎」とあり、「国誌」に「源蔵城、或は源蔵次郎に作る」とあります。片貝は「潟貝」(奥の浦々)、「貝形」(邦内郷村志)とも書かれています。瀬野はアイヌ語で貝多き所の意の「セイオ」に由来するとされます。新井田は「新田」とも書かれ、「仮名付帳」や「奥々風土記」では「しんでん」と読ませています。南部信政の臣新井田氏の支族が居住した所からきた村名とする説と、アイヌ語で木を採る所の意の「ニイタ」に由来するという説があります。寄浪(波)は「木浪」(奥の浦々)とも書かれており「よせなみ」(奥々風土記)とも称されます。アイヌ語で菅のある冷たい谷の意の「キナムナイ」に由来するとされます。蛸田はアイヌ語で沼の村の意の「トコタン」に由来するとされますが、地元では田から蛸が出てきたので蛸田と称するようになったともいわれています。九艘泊は「扶桑泊」「扶桑留」と書き「ふそうどまり」とも称されます(邦内郷村志・奥の浦々)。由来は多岐にわたっており、中国伝説の彼岸の意、坂上田村麻呂、源義経あるいは北部王家始祖の源良尹が9艘の船でこの浦に一時停泊したことからきたという口頭伝承の他、松浦武四郎「東奥沿海日誌」では大風雨の際にここに入った9艘のみが無事であったことからきたとしています。アイヌ語由来の説では、油臭い所を意味する「クゾウツ」や、低い所に滝のある泊地を意味する「クソトマリ」などがあります。「奥の浦々」では「こは、ひのもとのはてにして扶桑留ならんと、うべなるものがたりを人のすれど、石脳油など涌いづる川あらんか。松前の西の磯、江差のはまやかたに九艘川といふあり…その小川にあぶらの気ありといふめる人のあれば、むかしは、臭水油ながれたらんよりいひたることしられたり。九艘泊も臭水泊にや」と記されます。武子泊は「武士泊」と書き「ぶすとまり」ともいいます。アイヌ語で良き泊地の意の「ウシトマリ」に由来するとされるようです。九艘泊への9艘の船の停泊は、実は10艘で武士たちがやってきたのであり、そのうち1艘が武士泊に入津したという伝承があります。艘泊と芋田の間の山地中腹には九艘泊岩陰遺跡があり弥生式土器片が出土。また、アイヌ語地名に示されるように、周辺の海岸段丘上に分布する遺跡群からは、縄文・弥生式土器に限らず、土師器・須恵器・江別式土器・北大式土器・擦文式土器などが出土しており、北海道文化の南下と深いかかわりをもっています。また、室町初期に安東氏の海運によって当地に搬入されたとされるアイヌの腰刀があり、「原始謾筆風土年表」によりますと、当村に陸奥湾沿岸の蝦夷を統率していた発府羅という首長がいたと伝えます。
脇野沢村は脇野沢湊と九艘泊湊をもち、桧材と海産物の積出港として栄えました。特に新鱈は脇野沢が主産地で漁獲量も下北半島で最も多く「脇野沢鱈」として江戸へ移出されました。正保2年九艘泊は田名部五か湊の1つに指定されましたが、元禄12年七か湊の指定からは除かれました。江戸中期以降、脇野沢湊の重要度が高まったためで、脇野沢湊は享保6年「田名部記」「邦内郷村志」に田名部七か湊の1つにあげられています。廻船問屋の定着も多く、角屋・佐渡屋・松屋・加賀屋・三国屋・輪島屋・能登屋・新保屋・出雲屋・越中屋・藤屋・笹屋・剣地・坂井・佐藤・黒島・白尾・五十嵐などがありました。角屋は特に有力で、1072石積の順栄丸を有し、嘉永元年には江戸御仕送御用達に任命。佐渡屋は天明4年長崎俵物集荷請人に任命。
神社は本村に旧村社の八幡宮(旧号岩清水千手観音社。明治初年より現社名。寛永元年勧請)、瀬野に市杵島神社(旧号黒岩神社。天保14年より竜神社。明治9年より現社名。文化10年勧請)、新井田に八幡宮(明和3年勧請)、寄波に稲荷神社(文化年間勧請)、蛸田に西宮神社(明和2年勧請)、九艘泊に市杵島神社(旧号弁財天社。明治初年現社名。明和2年勧請)、源藤城に大山祇神社(旧号山神社。正保元年勧請)、滝山に稲荷神社(承応元年勧請。文化10年焼失により再建)が見えます。なお九艘泊の市杵島神社の勧請を国誌では宝暦12年としています。「邦内郷村志」には観音堂・愛宕堂・常法院・石神社がみえます。石神社は小沢村との境の松ケ崎にあり、延宝年間にナマコ漁の網に入った瘤のある石が、仙人より神石と告げられ祀ったものであり、石は年々大きくなるという伝承があります。寺院に浄土真宗閑知(閑池)山正覚寺(田名部徳玄寺末寺。元禄4年草創)、浄土宗大場山(天帰山)悦心院(田名部常念寺末寺。延宝3年草創)、曹洞宗竜臥山脇沢庵(川内泉竜寺末寺。享保16年草創、明治16年より脇沢寺)があります。寺社ともに廻船問屋と深いかかわりを持ち、経済的にも支えられていたようです。海運により文化的発達も早く、天保8年から寺子屋が開設。沿岸警備の要地であり、寛永21年九艘泊に浦番改が派遣。また正保4年の絵図にも翁山に船遠見番所がみえます。文化5年九艘泊に大砲1挺、嘉永年間日和山・新井田崎・蛸田に台場が設置、安政3年には日和山に統合して大砲3挺設置。18世紀初頭より杣夫・漁夫として北海道への出稼ぎは日常化していました。明治元年弘前藩取締、以後黒羽藩取締、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て、同4年青森県に所属、同11年下北郡。
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