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象頭山。
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黙々と石段を上り続けて、ようやく赤い鳥居が見えてきました。
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毘沙門天。
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五社堂境内地(市指定史跡)…『周囲を土塁で囲まれており、その中に五社堂や姿見の井戸、御手洗の池が残っている。江戸時代の絵図などによると、五社堂の前には読経する所である長床をはじめ、境内地内には中門、熊野堂、毘沙門堂などがあったことが知られ、今も建物の礎石や石だたみが残っており、貴重な宗教遺跡である。男鹿市』
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土塁。
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門跡。
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御手洗の池。
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あまり水はありません。
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中島。無明橋が無くても渡れます。
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11.5
五社堂周辺案内。五社堂周辺の建物等造営・修築の概観についてはHPを参照ください。
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『蓮池から石段をのぼりつめた五社堂の境内地は、標高約180-190メートルある。周囲を土塁と堀り切りで区画し、そのなかに三段の整地面がある。参道左側の池は中島のある御手洗池で、無明橋がかかっていた。そばの井戸は、姿見の井という。池の左側に、推定・熊野堂、馬頭観音堂があり、飛び石状の参道をたどると、不動堂跡、その右に未命名の礎石が残っている。参道をはさんで池の右側にも整地面があり、建物があったらしいが、礎石は失われたようである。長床跡は、切り石の参道をのぼった平坦地に、礎石の一部を残している。右側に、逆さ杉がある。五社堂は、長床跡から左右両端に設けられた石段をのぼる。』
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13.5
姿見の井戸。
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緊張しながら覗いてみます。
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15.5
はっきりと見えました。良かったです。
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菅江真澄の道「姿見の井戸」…『文化元年(1804)8月27日姿見の井戸を見る(男鹿の秋風)。姿見の井戸がある。この水鏡が曇り、ほんとの形が写らない人は、命が長くないと占なわれる。』
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五社堂姿見の井戸(男鹿市船川港門前字抜川5番地)…『菅江真澄、男鹿遊覧記の記述によると「坂を遙に登ると、姿見の井戸がある。この水鏡が曇り、真個の形が写らない人は、命が長くないと占われる。」とある。また、鈴木重孝編著本キヌブルイによると、「弘法大師加持の御供水といい三尺余の丸石の井なり、深さ一丈余。井水に姿を写し見えざれば、三年の中に没すという清水なり。登山の男女嗽をなす。」と記されている。』
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周辺の石碑等。
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こちらは読み取れず。風化しているというより削り取られている感じがします。手前の首のない地蔵様らしきものにも廃仏毀釈を感じます。
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こちらは読み取れます。「住蓮宮社」とあり、紀年銘は宝暦9己卯年6月吉日。
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21.5
切り石の参道に戻りましょう。
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既に五社堂は見えております。
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五社堂。
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私の第一印象は…
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台湾の中正紀念堂自由廣場門のような…
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もしくはこんな雰囲気。
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27.5
赤神神社について(HPより)…『男鹿半島の本山、真山に祭られている赤神は古くから「漢の武帝」であるとされています。これは、江戸時代に久保田藩士梅津利忠が撰した「本山縁起別伝」にあり、ほとんど通説になっているものです。「当山赤神は、前漢の孝武皇帝の祠なり。旧記にいわく景行天皇二年、赤神天より降れり、あるいはいわく、日本武尊化して白鳥となり、漢の武帝を迎う。武帝は白馬に駕し、飛車に乗り、赤旗を建て、西王母と此の嶋に至る。五鬼は化して五色の蝙蝠となりて之に従う。故に蝙蝠を以って使者となす。時に景行十年冬十月のことなり。天皇、武内宿禰をつかわして北陸道を巡視せしむ。宿禰、此の嶋に至り、神異を見てこれを奏せり。ここにおいて朝廷皇女をして行かしめ、これを祭る。号して赤神という。皇女はすなわち赤神明神という(後略)」』
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HPに赤神山本山縁起(天和元年10月梅津利忠作成)が掲載されています。※なお、菅江真澄翁の『牡鹿の嶋風』では「赤神山大権現縁起」という名称で、更に鈴木重孝翁が著した『絹篩』でも「伝記」としてほぼ同じ内容で記述されています。
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五社堂前に長床跡。
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長床跡標柱。
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菅江真澄の道「五社堂」…『文化元年(1804)8月27日門前から五社堂に登る(男鹿の秋風)。五社といって、五柱の神が並び祭られている。五社ともみな萱葺きで、その様式はいまのものとは違い、古い時代を思わせる。古い棟札に、建武2年(1335)、阿倍季、応安5年(1372)に高季が修理を加えたとあった。』
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赤神神社五社堂…『赤神神社の創立はきわめて古く、赤神は漢の武帝の飛来したところと伝えられ、貞観2年(860)、慈覚大師がここに日積寺永禅院を建て、赤神をその山神としたという。建保4年(1216)に源実朝は堂社をことごとく比叡山に模して造営したとされている。その後、應安5年(1372)に安倍高季によって修復され、元和3年(1617)拝殿造営、寛永15年(1638)、寛文2年(1662)再興、延宝3、4年(1675-76)には堂全体の造営があった。現在の社殿は、秋田藩主第4代佐竹義格の命により大久保小左衛門が普請奉行となり、宝永4年(1707)から7年(1710)にかけて建替えられ、江戸中期様式を示す建築である。五社は、向かって右側から三の宮堂、客人権現堂、赤神権現堂、八王子堂、十禅師堂で、五棟とも格桁行二間、梁間三間一重、正面入母屋造、背面切妻造、妻入、向拝一間、唐破風造、栩葺の建造物である。中堂は厨子をおさめるため他より大きい。 また、同型式の社殿五棟が山中に横一列に並んで現存しているのは極めてまれである。この地は、平安時代末から天台宗山岳仏教の修験道場として発展し、後に真言宗に改宗、藩主から多くの神田を寄進され、衆徒の存在も知られ、おおいに栄えていたが、明治になり神仏分離令により赤神神社として残る。●国、県、市指定文化財(建造物、彫刻)…一、赤神神社五社堂(平成2年3月19日国指定重要文化財)二、五社堂の収納する文化財…イ、厨子(中堂)昭和42年6月15日国指定重要文化財。ロ、木造十一面観音立像(八王子堂)昭和27年11月1日県指定有形文化財。ハ、木造聖観音立像(八王子堂)昭和27年11月1日県指定有形文化財。ニ、石造狛犬(中堂)昭和27年11月1日県指定有形文化財。ホ、木造十一面観音立像(客人権現堂)平成19年3月20日県指定有形文化財。』
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五社堂前へ。向かって左から「十禅師堂」「八王子堂」「赤神権現堂」 「客人権現堂」「三の宮堂」。
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十禅師堂。
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八王子堂。県指定有形文化財の木造十一面観音立像、木造聖観音立像が納められています。
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赤神権現堂(中堂)。厨子、石造狛犬が納められています。
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せっかく999段上ってきたのでじっくりと見させてもらいます。
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彫刻が素晴らしいですね。
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せっかく999段上ってきたので裏も見させてもらいます。
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40.5
中堂からの眺望。特に何も見えません。
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中堂前の石塔「湯殿山・月山・鳥海山」。
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客人権現堂。
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客人権現堂には木造十一面観音菩薩立像が納められています。
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円空と十一面観音(HPより)…『円空は江戸時代の木地師の娘が生んだ私生児だった。その後子供のころこ母が亡くなり孤児となった円空は私度僧(官の許可を得ないで出家した僧)となった。円空の彫像は全国で五千体程あると言われている。寛文6年(1666)円空は北海道に渡り2年間の遊行のあと青森県弘前市に戻りそこから秋田の遊行を行った。男鹿半島は異国の歴史と異邦人たちの漂着など多くの伝説があり、それらを背景にした男鹿半島本山、真山は最大の修験場でした。赤神神社に着いた円空は院主に滞在の許可を得て十一面観音像を作仏したのです。これは五社堂客人権現堂に祀られており、円空前期最終盤の傑作といわれています。一本作りならではの素朴さと力強さが、見る者の心を穏やかにさせてくれます。円空はこの作を境に後期の作風の境地にはいっていきます。この十一面観音は現在向かって右側2番目の「客人権現堂」に奉納されています。』
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三の宮堂。
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46.4
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どれも似ているようで微妙に異なりますね。なお、区別が付かない方でも、このように分かるようになっております。
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札所。
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逆さ杉があります。
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逆さ杉…『その昔、この山奥に鬼たちが住んでいて、村へ下りて家畜や娘をさらう悪さをしては村人を悩ませた。困りはてた末、村人たちは「毎年一人づつ娘を人身御供に出す。その代わりに、村から五社堂までの間を一夜のうちに石段を、しかも一番鶏のなく前までに、千段を築きあげること。」「それができなければ、今後村へ下りてこないように」と鬼たちと約束をした。鬼たちは日暮れを待ってせっせと作業をし、あれよあれよと見るまに石段を築いていった。それを見た村人は九百九十九段まで積んだ時、大慌てで、物まね上手なアマノジャクに「コケコッコー」と鶏の鳴き真似をさせた。これを聞いた鬼たちはとびあがって驚いた。あと一段で目的を果たせたのにと、じだんだを踏んでくやしがり、やがて怒り狂い身をふるわせながらその腹いせに、かたわらに生えていた千年杉をめりめりと一気に引き抜き、それを真逆さまに大地へ突き刺しこんで、やがて鬼たちはしおしおとお山へ帰っていった。後に鬼どもの作った九百九十九段の石段が残され、再び鬼は村へは現れなかったという。根抜きして逆さにたてられた杉は枝葉繁茂していたが、何時の頃よりか枯れ朽ちて今は古株だけが現存している。』
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札所より「なまはげ発祥の神社」…『赤神神社五社堂 男鹿のナマハゲ (行事)には、元、モデルとなっている五匹の鬼がいます。眉間(みけん)…父・逆頬(さかつら)…母・眼光鬼(がんこうき)・首人鬼(おびとき)…子・押領鬼(おうりょうき)。なまはげ(人間+面)行事の、元、モデルの鬼を今日に伝える神社が赤神神社五社堂です。』
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九百九十九の石段(秋田のむかし話より)…『むかし、むかし、漢という国(今の中国)に、武帝という人がいた。その武帝があるとき、白い鹿のひく飛車に乗り、五ひきのこうもりをひきつれて男鹿にやってきた。そのときの五ひきのこうもりは、五ひきの鬼に変わってしまった。武帝は、この五ひきの鬼たちを家来として使っていた。ある日のこと、五ひきの鬼があつまって、「どうか、一日だけでもいいから、わたしたちに休みをあたえてくれ。」と武帝にたのんだ。武帝は、ふだんよく働く鬼たちのことだから、「それならば、正月十五日は、たった1日だけ休みをあたえよう。」とゆるされた。さあ、喜んだのは、五ひきの鬼たちだ。初めて人間の社会へでれるうれしさでいっぱいだった。そこで、鬼たちは、村の畑作物や家ちく、しまいには美しい娘たちまで、さらって行ってしまったではないか。さあ、ふんがいした村の人たちは、鬼を退治しようと決心して、ある夜、武器を手に手にもって、鬼退治にいった。ところが、力のある鬼たちのために、さんざんな目に会わされてしまった。そして、鬼たちはますますカをふるい、らんぼうをするというあばれかたであった。ついに、たまりかねた村の人たちは、みんな集まって相談した結果、武帝にお願いをすとにした。「毎年、ひとりずつ娘をさしあげる。そのかわり、五ひきの鬼どもは、五社堂まで一夜のうちに、しかも、一番どりのなく前に、千段の石段をきずくようにしてくれ。まん一、これができなかったときは、ふたたび村へおりてこないでほしい。」村の人たちの考えでは、いかに怪力があっても、一夜のうちに干段の石段をつくることはできないだろうと思っていたのだった。いっぽう、鬼たちは、さっそく日のくれるのを待って石段づくりにとりかかった。鬼たちは大きな岩石をかかえ、あれよ、あれよという間に、石段をつみあげていった。これでは、一番どりがなく前にできあがりそうなので、あわてた村人は、ものまねのうまいアマノジャクにたのんだ。鬼たちが九百九十九段までつみ上げ、あと一段というところで、アマノジャクにとりのなき声の「コケコッコウ。」をやってもらった。鬼たちは、はね上がっておどろいた。やがて、おどろきがいかりにかわり、ぶるぶる身をふるわせ、かみをふり立て、雷のようなおそろしい声で、そばにはえていた千年杉の大樹をむんずとつかんだ。この木の根を上にして、まっさかさまに投げつけ、大地にぐさりとつきさし、鬼たちは、さっさと山へ帰ってしまった。それからというものは、ふたたび村におりてくるということはなかった。そのさかさ杉は根を空にむけてはえていたが、今は立ちがれてしまい、横になったまま保存されている。門前にある赤神神社から五社堂までの石段は、今も続いている。五社堂には、今なお、この五ひきの鬼たちをまつり、むかしを物語っている。これが、今日のナマハゲのおこりともいわれている。』
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黒神と赤神の戦い(秋田のむかし話より)…『むかし、むかし、津軽の竜飛というところに、黒神という神さまがいた。また、南部の十和田湖には、ひとりの美しい女神がいた。それに、出羽の男鹿にも、赤神という神様がいたそうである。ところが、その美しい十和田湖の女神を、黒神と赤神がおたがいにわれのものにしようと、あらそいがおこった。女神は、どちらからも言いよられたので、困りはててしまった。女神のすがたは、それはそれは美しかった。女神の着物のすその色といったら、百里四方に美しくかがやいたという。その女神は、黒神と赤神のことのためになやんでいた。赤神のなさけ深く、やさしい気持ちに、いったんはひかれたけれども、顔はくろがねのように光り、すべてが元気よく、いさましい働きぶりをする黒神にも心が動いたので、どちらともきめかねていた。きのうは、黒神が竜に乗って女神をたずね、身にしみるような心のあたたまる気持ちをつたえられた。また、きょうは、赤神の鹿が使いに来て、赤神の気持ちをこまごまと書いた手紙をもって言いよられた。けれども、女神は、黒神の話を聞いたり、赤神がしたためた手紙を読んだら、どういっていいやらわからなくなってしまった。これが自分のしあわせかと思い、手紙の上にくずれ、ほろほろと声をたてて泣いてしまった。さて、黒神は、自分と競争相手の赤神がいることに気づいた。また、赤神も自分より先に女神に近づいている黒神のいることを知った。いつとはなしに、ふたりの間であらそいが始まったのである。そして、とてもはげしい戦いとなってしまった。おたがいに、何回も何回もせめ合ったけれども、勝負はつかなかった。そのとき、八百万の神たちは、津軽の岩木山に集まって、ふたりのはげしい戦いを見物していた。そして、黒神が勝つというほうは右へ、いや、赤神が強いというほうは左にというように、見物の神々も二つに分かれてしまった。黒神が勝つというほうが大部分で赤神が勝つとみるほうは少なかった。岩木山の右のかたが低くなっているのは、その戦いのときふみくずされたあとだそうである。いかに戦いがはげしかったかよくわかる。赤神のほうにりっぱな武者がいたが、太陽が空から海に落ちるというまぼろしをみて、とうとうなくなった。それからというものは、赤神の勢いは、どんどんおとろえてしまった。黒神はそのため、すぐ男鹿の根城の下にせまった。黒神にせめられた赤神は、刀が折れ、矢がつきて、「空寂」という穴にかくれて、再び出てこないとちかったそうである。それを聞いた黒神も、さらばと、がいかをあげて帰ってしまった。黒神は、このめでたい知らせを女神につげようと思い、刀の血のりもぬぐわずに、十和田湖の女神にはせつけた。ところが、ふしぎに女神のすがたはなかった。戦いに負けた赤神に、女神は同情し、「空寂」の穴に移っていたのだった。黒神は天をあおいで、百千年の息を一度にはいてがっかりした。そのときはいた息で、今の北海道が津軽からはなれたということである。今でも津軽の竜飛にいくと、岩がみな黒い形にかわり、うちよせる波もあらい、ちょうど黒神のような、おおしい神さまのすみかであったように思われる。また、男鹿の岩は、大部分赤みをおびている。大桟橋、小桟橋などには、ほかに見られない鬼のすんだあともある。しかし、岩は、どちらかというとおだやかな形をしている。空寂の窟は、今、高雀窟、または、孔雀窟という名にのこっている。窟の深い探いおくそこには、一つの石のとびらがあって、そのとびらを開くと、雪のように白い女が立っているという話もある。そして、この戦いにたおれた赤神のけらいは、今も男鹿市北浦の山野一面にさく、まんじゅしゃげだとも言いつたえられている。』
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お山かけの道。今回は行きません。
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以上、赤神神社五社堂でした。
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