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蓮池、五社堂駐車場付近。五社堂駐車場まで車で来た方はここからのスタートです。
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沢木隆子詩碑「杉」…『驚かず 怒らず 悔やまず 風吹けば風を受け 雪降れば雪をいただき 陽かがやけば光る 直ぐなる性よ 忘れられて卑下せず 久しき年輪を重ねて誇らず しっかりと大地を抱く大いなる愛 斯くあらばやと仰ぐ ふるさとの杉』
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碑文「沢木隆子氏」…『明治40年9月6日男鹿市に生まれる白山詩人・詩の家同人として活躍戦後は詩誌ハンイ・序・舫を発行し詩壇の興隆発展に尽くす昭和45年度秋田県文化功労章受章詩集にROM・石の頬・迂魚の池・漁村の短冊・男鹿叙情詩選等がある。昭和49年5月建立。沢木隆子詩碑建設実行委員会』
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菅江真澄の道「門前(男鹿の秋風)」…『文化元年(1804)8月26日小浜から門前に入り、赤神山の由来や伝説を真澄は「男鹿の秋風」の中に、次のように記述している。「門前の浦に入った。袖垣に着物を干しかけてある。小橋を渡ると萱ぶきの堂がある。なにが祭られているのか。飽海郡落伏寺(山形県遊佐町)、陸奥の黒石寺(岩手県水沢市)などのように、自然石をたたんで御坂としていた。これも、一夜のうちに鬼が集まって築いたという物語がある。伝え聞くところによると景行天皇の御代、庚長10年に、近江の竹生島と同じくわき出た山という。紀伊の国(和歌山県)熊野の新宮、本宮になぞらえ、金剛、胎蔵ふたつの峰として、いま真山、本山という。円仁(慈覚大師)が仁明帝の承和4年(837)のころ唐にわたり、文徳帝の仁寿の年(851-854)この山で修行され、天台の仏法を行い、赤神山日積寺永禅院といったが、近世になって真言宗に改宗したという。その昔には自寂院、仙壽院、印象院、円月院、照光院、泉光院など多くの寺々があったが、今は吉祥院、長楽寺だけ残っている。大門の仁王は運慶の作と伝えられている。楼の大鐘は明徳3年(1392)に鋳たものである。多宝塔は元徳3年(1331)阿倍高季が建てた。食堂はいかめしく、蓮の生えた池の面に、半ばさしでて建てられ、中島に弁財天の小さな祠があり、松が生いている風情はことにおもしろい。坂をはるばる登ると姿見の井戸がある。この水鏡がくもって、姿がぼんやり映った人は命が長くないという占いがあるという。またこの山に、五百人もの童をつれ、乱をのがれて不老不死の薬を採りに来たという、秦の徐福の塚というものがある。』
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赤神神社五社堂・鬼のつくった石段…『この地には貞観2(860)年に慈覚大師円仁によって開山された赤神日積寺永禅院という寺院がありました(縁起による)。その後、明治3(1870)年に赤神神社となりました。五社堂は標高180mのところに同形式の五棟の社殿が並び建っています。現在の五社堂は宝永6(1709)年に造営されたものです(平成10-13年に大修理)。五社堂へ登る石段は鬼が積んだ999段の石段と伝えられており、「男鹿のナマハゲ」の由来の一つともなっています。石段の先に続く道は本山から真山を経由し、真山神社まで至ります。全長約11kmのその道はかつて山伏などが修行をした修験の道でした。現在でも「お山かけ」と呼ばれ、人気の登山ルートになっています。』
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「昔ばなし999段の石段」…『中国の漢の時代、武帝は不老不死の薬草を求め5匹のコウモリを従えて男鹿にやってきた。5匹のコウモリは鬼に変身して武帝のために働いたが、ある日「一日だけ休みを下さい」と武帝に頼み、正月15日だけの休みをもらい村里に降りて作物や家畜、村の娘たちまでさらい、あばれまわった。困り果てた村人は武帝に「毎年ひとりずつの娘を差し出すかわりに、一番どりが鳴く前のひと晩で、鬼たちに海辺から山頂にある五社堂まで千段の石段を築かせてくれ。これができなかったら鬼を再び村に降ろさないでほしい」とお願いした。ひと晩で千段は無理と考えた村人だったが、鬼たちはどんどん石段を積み上げていった。あわてた村人は、鬼が999段まで積み上げたところで、アマノジャクに「コケコッコ」と一番どりの鳴き声のまねをさせた。鬼たちは驚き、怒り、そばに生えていた千年杉を引き抜き、まっさかさまに大地に突き刺して山に帰って行き、二度と村へは降りてこなかった。』
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江戸時代末の嘉永5(1852)年に描かれた絹篩(秋田県指定文化財)。
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菅江真澄が描いた文化元(1804)年の池。
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男鹿半島・大潟ジオパークの成り立ち。
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蓮池の周囲の松。
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男鹿図屏風。
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『これは、江戸時代初期に狩野派の画家、狩野定信によって描かれた(六曲一双、高さ1.49M長さ3.48M)と伝えられている県指定の男鹿図屏風(県立博物館所蔵)を参考に模写したものである。本山、真山を中心とする山岳一帯は、古くから赤鬼権現を信仰する修験者の大道場としてひらけたところで、貞観2年(860年)には慈覚大師によって開かれ、最盛期には九ヶ寺四十八坊を創建、さらに建保4年(1216年)源実朝が寺院の形容を比叡山に模して造営したと伝えられているが今は、往時を物語る建物は赤神神社、五社堂と長楽寺のみで、他に若干の礎石を見るのみである。男鹿市教育委員会』
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14.4
14.8
宝篋印塔。
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徐福塚。
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徐福塚…『司馬遷によって書き表わされた中国で最も古い歴史書「史記」に、秦の始皇帝の命を受けた男が、童男童女数千人を乗せた船で海を渡り、不老不死の薬を探しに東方に向けて旅立った、とあります。今からおよそ二千二百年前のことですが、その向った先が日本であり、その命を受けた男が「徐福」だったと言われています。徐福は、神薬(薬草)を求めてさまざまな所を旅したためか、日本各地に徐福伝説が残されていますが、そのうちの一つが男鹿でした。江戸時代の紀行家・菅江真澄は、男鹿の門前を訪ねたときの日記に、徐福塚(墓)を図絵と文章で記録しました。それには、「古、渤海及び鉄利の人一千百余人が吾国を慕い来て、出羽国に置き、衣食を給して還した、と続日本紀にある。その異国の人たちがこの処に居った頃、武帝の廟或は大保田村の蘇武塚や、この徐福の塚など、その当時祭ったのかもしれぬ」と書かれています。また、船越御役屋の役人だった鈴木重孝が書き残した男鹿の地誌「絹篩」にも「徐福塚」が記録されています。しかし、その徐福塚は道路工事などで失われてしまったのか、今では探しようもありません。そこで門前に伝わる徐福伝説を後世に伝えようと、真澄の図絵を参考に、この地に産する門前石で、徐福塚を復元しました。平成17年7月吉日。建立者門前部落会・徐福塚復元実行委員会』
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菅江真澄が描いた門前。中央に徐福塚が描かれている(白い円内)。
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18.5
食堂跡。
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食堂跡標柱。
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蓮池。弁財天が祀られていたそうです。
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まだこの辺りです。
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999段の石段に戻ります。
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23.5
赤い鳥居の向こうは長福寺宝物殿があります。薬師堂跡に建てられているようです。
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薬師堂跡には「薬師」「赤神」などと彫られた石碑がありました。
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999段の石段はまだまだ続きます。
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26.5
柴燈堂跡。
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児宮社。
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今何段目なんだろう…
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先は見えません。
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私の好きな藤城清治氏の「九九九階段 赤神神社五社堂」が脳裏に浮かびます。
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ってことで長くなりましたので…
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