くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2018年11月

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秋田県大館市池内上野。米代川右岸の河岸段丘上とその斜面は縄文前期の池内遺跡として有名な場所です。
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社号標が2基。向って右の紀年銘は明治43年8月15日。
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左は破損しており所々読み取れず。奉納者は畠山友治で還暦紀念。
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石段下の石碑2基。1基は廿三夜塔。
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もう1基は見え辛いけど八聖山・岩手山と見えるような気がします。
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憶測です。
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石段途中のスペースに自然石と石塔がありました。
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いずれも注連縄があり、信仰されていることはわかりますが何かはわからず。
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石塔には模様も施されています。
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石段上で最初に出迎えてくれたのは二宮尊徳。
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周辺の石。
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二宮尊徳向かい(石段上右手)の建物。中には入れません。
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馬頭観音ですかね。台座が石灯籠みたいに立派です。
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さて、八幡神社の鎮座地はかつての池内村。藩政初期より大館給人指導による藤兵衛沢の湧水利用による谷地開発が積極的に進められ、寛永18年池内開発の指紙現存。正保国絵図、元禄7郡絵図ともに池内新田村137石と図示され、新田村として黒印村であったことがわかります。寛政村附帳では大館村を親郷とする寄郷に位置付けられ、秋田風土記以後、幕末までは大館町の枝郷扱いとなっています。村鎮守は八幡社。
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御祭神は誉田別命。例祭日は9月15日。
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大館城主佐竹氏が崇敬した八幡大神を、池内の豪家畠山宅稲荷神社と隣り合わせて建立。
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正徳元年の大洪水で付近一帯災害を受け、同地区戸田氏の所有地寄進により現在地に遷座して産土大神として祀りました。
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拝殿向拝神額。
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狛犬一対(安政6年・畠山和右衛門寄進)。
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崩壊している石灯籠一対。
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五重塔(昭和48年2月1日・畠山良助(62歳)、畠山良治(42歳)他42歳奉納者7名、33歳奉納者2名)。
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御神木。
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不明の石祠。
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大山祇神。
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手水石(昭和16年旧2月1日)。
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石灯籠一対(昭和13年旧2月1日)。
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社殿の横、少し離れた場所にある建物。
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上記で紹介した馬頭観音らしき石祠と、まるで一対であったかのように造りが似ています。
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隣の大きな木札らしきものは読み取れませんでした。
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台座には「大正9年8月16日建立・池内御中」とありました。
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三八城神社境内では三八城山朝市(4-11月・朝5-8時)が開かれているようです。八戸市は朝市に溢れていますね。
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青森県八戸市内丸。旧八戸城本丸の御殿屋敷地跡に鎮座。旧県社。例祭日は8月6日。御祭神は(上)天照大御神、(右)南部三郎光行命、(中)南部左衛門佐直房命、(左)新羅三郎義光命。
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石灯籠二対。
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殉職殉難慰霊碑。
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手水舎。
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神楽殿。
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石灯籠一対。
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境内社の稲荷神社。かつてはもっと鳥居があったと思われますが、現在は台石部分だけが残されていました。
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狛犬一対。
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現在は使われていない天水桶。明治11年の紀年銘が見えます。
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狛犬一対。
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元禄2年(1689)5月7日、八戸藩第二代南部遠江守直政公により、甲斐源氏の祖とされる新羅三郎義光命を邸内に勧請し、新羅宮と称したのがはじまりと伝えます。尚、八戸藩「御日記」には、神明宮御祭典の記述はあるものの、鎮座に関する記載は無いため、神明宮については不明。
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明治4年7月、廃藩置県に際し、八戸城が廃城になり、内部の建物は取り壊しや払い下げとなり、社殿も城外(八幡町11番地)へ移されました。その際、2間4方の切妻造の社殿が造営され、同じく八戸城の鎮守社で城内に祀られていた神明社と、南部家の祖とされる南部三郎光行命と八戸藩祖南部左衛門佐直房命の分霊を合祀して祖霊社に社号を改称、白川神道によって祭祀が行われます。
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明治7年8月15日に再び旧八戸城内の本丸へ遷座し、三戸郡の「三」、八戸城の「八」「城」に因んで三八城神社と改称。当初、社殿は旧城内御殿の御玄関のところに拝殿が建てられるも、その後、西の方へ引き移し、現在の社殿の位置は旧城内御殿の奥御居間の付近。
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明治11年に社殿再建に際して神社創立を願出て同年4月1日付にて許可、正式に神社となり、旧藩士達から灯篭、手洗い、獅子、その他の供え物が献納されており、同年の8月10日から17日まで正遷宮の儀式(正遷座祭)が斎行されています。明治12年8月28日県社列格、明治39年11月10日神饌幣帛料供進定神社指定。
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現在の社殿は大正15年に造営されたもので、拝殿は入母屋、桟瓦葺、平入、正面千鳥破風、正面1間軒唐破風向拝付。社宝には本小札勝色威二枚胴具足附具足櫃(室町時代後期、甲冑師明珍派第14代高義作)や梨子地螺鈿金装太刀(衛府太刀形式、金具は金銅製、随所に南部家の家紋、向鶴紋と割菱紋が見られます)、八戸南部家11代南部麻子氏から寄進された旧八戸藩主軍装用具(陣羽織・采配・軍配団扇・鎧直垂・大口袴・軍鞭・軍扇の8品)があり、いずれも昭和56年に八戸市指定有形文化財に指定。
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例祭日には白川神道奉行事(略式)榊舞が奉納されます。また、南部地方に伝わる古武道、神道無念流居合の奉納演武も行われています。
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拝殿内。
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拝殿前狛犬一対(明治11年8月)。
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砲弾が2つありました。
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大きい方の砲弾には「明治二十七八年役征清威海衛劉公嶋於獲之 沼田清吉 明治三十八年八月吉日奉納」などと刻まれていました。※明治二十七八年=日清戦争、明治三十八年八月=日露戦争終戦年
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「青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)」に次のようにあります…『三八城公園は、藩政時代の城跡である。寛文4年(1664)に、盛岡の南部藩を継いだ重信の弟直房が、二万石で八戸藩主となった。公園に藩祖直房ほか南部家ゆかりの遠祖を祭る三八城神社がある。ここの梅林のあたりに、義経石と弁慶石というのがあった。足型のようなものがついているのが弁慶石で、足駄の歯型のような形のついているのが義経石とよばれた。弁慶石は、今、神社の石段の側に移されているが、義経石はどこへ行ったかわからなくなったという。』
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三八城神社と弁慶石(「伝説」源義経北方コース)…『悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は兄の頼朝に追われ文治5年(1189年)4月平泉の高館において31歳の若さで自害したといわれている。短く華麗だったその生涯を想い、後世の人々は「義経はその前年にひそかに平泉を脱出し、北をめざして旅にでた」という伝説を作りあげたのである。世に言う「判官びいき」であろう。義経が高館の御所から見渡して馬淵川の東の野原を京ヶ原、その北の州先を京ヶ崎と命名したのが今の三八城山である。足下のこの大きな石は弁慶石と呼ばれ、昔は境内南側のコブシの木のあたりに置かれていたという。石のところどころが人間の大きな足型のように窪んでいるのが、力自慢の弁慶が岩にしるした足型だといわれている。公益社団法人八戸観光コンベンション協会』
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弁慶石の窪み。
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青森県八戸市内丸。三八城公園。
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三八城公園(みやぎこうえん)は青森県八戸市内丸にある八戸城跡地です。三八城とは三戸郡八戸城という意味。
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南部師行が八戸根城を築くのとほぼ同時に根城南部氏2代政長の三男信助が根城の支城として築いたのが始まりとされ、築城時期・館の位置・規模については不明。その後、この一族は中館氏を名乗り、居城は中館と呼ばれました。八戸は津軽領と接する要衝であったことから、南部利直は、寛永4年(1627)に根城(八戸)南部氏が遠野へ移封されると、中館氏もこれに従い、八戸は南部(盛岡)藩の直轄地として代官支配によって整備を行っていきました。
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正保元年(1644)、南部氏第28代の重直が盛岡で没し、嗣子がいなかったためにその遺領10万石は、盛岡8万石と八戸2万石に分封され、盛岡は重直の弟である重信が継ぎ、八戸は末弟の中里数馬直好が領主となりました。八戸藩初代藩主である直好は名を直房と改め、新たに居城を築くことなく、三八城山に既にあった盛岡藩時代の建物を引き継いで、館を修築して八戸城として使い、家臣団の編成と城下町の整備に取り組みます(寛文6年)。修築された八戸城は2階建ての屋形と長屋だけの平山城で天守閣はありませんでした。以後明治時代まで八戸南部氏10代の居城として栄えます。
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城跡の三八城公園には、藩祖南部直房、甲斐源氏の祖新羅三郎義光、南部氏の祖である南部光行の3人を祀る三八城神社が鎮座。八戸市民は「みやぎさん」と呼称しているそうです。公園の入口の右手には、旧南部子爵邸(現在の南部会館)があり、その門は「古桜門」と呼ばれ、旧城の表門であった朱塗りの薬医門が保存されています。敷地内には展望デッキや芝生広場、築山、ひょうたん池、遊具などがあり、4月下旬から5月上旬になると、約50本の桜がいっせいに開花して花見の名所となります。
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城郭は本丸と二の丸から構成。
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本丸は規模は東西約150m・南北200m。現在の三八城神社付近に御殿がありました。御殿は藩の役所と藩主の執務場所、居間等の奥部分で構成され、文政12年(1829)に新御殿が建築された時に奥部分が大きく拡張されました。御殿の北側には御花畑、米蔵があり、南側には書院庭、武器の土蔵がありました。天守や隅櫓は計画のみで明治維新を迎えるまで建設されることはありませんでした。
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二の丸は本丸の東南に位置しており、現在の八戸市内丸二丁目・三丁目付近。角御屋敷、学校、馬屋が置かれ、法霊社(現おがみ神社)、八戸藩の祈祷寺であった豊山寺、八幡宮がありました。その他藩の家老格の中里家・逸見家・船越家の屋敷がありました。なお、明治維新以降に二の丸の八幡宮にちなんで一帯を「八幡町」と改称しましたが、昭和33年に再び町名を内丸の名称に戻しています。
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遺構は開発によって一部の建物を除き、土塁や堀跡が部分的に残されているのみとなっています。
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寛永4年(1627)八戸城築城。
寛文4年(1664)八戸藩成立により藩庁が置かれます。
寛文5年(1665)二の丸に馬屋が設けられます。
文政10年(1827)南部信真より新御殿の普請が命じられます。
文政11年(1828)古御殿の解体工事。
文政12年(1829)新御殿が竣工。二の丸に文武学校が新築。
天保9年(1838)沿岸警備の功が認められ、幕府によって藩主が城主格になり、公式に城と称されます。
明治4年(1871)廃藩置県により廃城。
明治7年(1871)跡地に三八城神社が創建。
昭和8年(1933)道路建設のため内堀埋め立て。
平成6年(1994)三八城公園内で発掘調査。
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八戸城…『八戸城は、馬渕・新井田両川の形成した沖積平野に突き出た洪積台地の先端部を利用して築城されている。建武元年(1334)陸奥国司北畠顕家の国代南部師行が糠部郡ぬかのぶのこおり八戸に根城を築いたが、その後間もないころに、その孫信助が築いた中館がこれであろうという。この一族は根城・中館および新田館に居住し、八戸地方を鎮めてきた。戦国時代の末に、三戸の南部信直が豊臣秀吉から朱印を受け、南部内7郡を支配するようになった。その子利直は、寛永4年(1627)に根城南部氏を遠野に移して、八戸を直支配とし、みずから縄張りをして当城および城下町の作事・普請をしたと伝える。城下の西側には根城町の商家を移して三日町・十三日町・二十三日町を、また東側には新田町の商家を移して八日町・十八日町・二十八日町をつくり、現在の市街のもとを作ったという。しかし、当城および城下町の本格的な整備は、盛岡城に移った重直が、寛文4年(1664)世継ぎを定めないまま没したため、幕府が新たに弟重信に盛岡8万石を、同じく弟南部直房に八戸2万石をあたえたことにより、八戸藩が誕生した後のことである。その領地は三戸郡・九戸郡・志和郡のうち83ヵ村であり、この図は弘化4年(1847)ころのものである。昭和54年5月1日八戸市教育委員会』
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八戸城絵図(南部家旧蔵)。
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八戸城本丸跡。
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枝垂桜。
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『階上村正部家正氏の寄贈により実生30年の枝垂桜を10周年記念に植樹。昭和43年4月』
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巨木。
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樹洞。
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覗きたくなりますよね。
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ひょうたん池。
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築山。
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築山の巨木。
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築山へ。
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推定樹齢90年のケヤキなどがあります。
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説明もありますので興味のある方はチェックして下さい。
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築山に上ると、どでかい石碑がありました。八戸城址碑のようです。
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大き過ぎて読めませんので案内板「三八城祉碑の要旨」より…『(題字正三位子爵南部利克)「八戸城跡碑」。寛永6年(1629)、南部利直は、荒地を開いて城を築き、周りには二重堀を巡らし、郡奉行をおいてこの地を治めていた。寛文4年(1664)、利直の後を継いだ重直は、子がないまま没した。この年将軍家綱は、重直の遺領十万石のうち八万石を次弟の七戸隼人重信に継がせ、末弟の中里数馬直房には二万石を与え新たに分家させた。寛文6年、直房は八戸城に入り、それから250年余りにわたり歴代の藩主・賢臣達が文武に励み、農業・養蚕・織布・畜産の振興に努め、領内は豊かになっていった。二代目藩主直政は、聡明で早くから学才の誉れが高く、将軍綱吉は側仕えにとりたてた。これに先立って朝鮮国王から将軍に屏風が送られ、これを開ける方法が屏風の外に書かれた詩に隠されていたため、著名な学者にその謎解きを命じたが果たせなかった。それを直政がたちどころに読み解き、屏風を開けることができた。綱吉はこれに感嘆し、福島五万石を与えようとしたが直政はこれを固辞し、この慎み深い実直な性格を愛で皇国三鏡の一つといわれる米曇羅鏡を与えた。直政は後に御側用人となり大いに活躍した。八代藩主信真は、闊達で人の能力を見抜く能力があり、野村軍記を登用し海陸産物の生産を盛んにし江戸に産物を輸送させ領民は利益を得、藩の財政も潤った。九代藩主信順は、篤実で思慮深く勤勉・倹約を奨励した。また、一族出身の木幡文内をとりたて領内を豊かにした。明治の戊辰戦争の折、奥羽連合の議が起こり諸藩の圧力が強く、八戸藩は非常に苦しい立場にあったが、信順は藩士や領民を懇々と諭し軽挙妄動を戒めた。明治2年(1869)、版籍奉還して八戸城は政府の管理となったが、後に子爵南部利克所有となった。明治11年(1878)、八戸城に三八城神社が創建され、新羅三郎義光・南部三郎光行・南部左衛門佐直房を祀り県社に名を連ねた。明治14年、明治天皇が北巡の際長者山で旧藩士による騎馬打毬をご覧になった。今ここに公園の開設と三八城神社の改築が行われた記念に、町民が相談し石碑を建立し、以上のことを後世まで伝えようということになり、私が由来の碑文を作成した次第である。昭和3年(1928)3月上旬 北海道帝国大学総長正三位勲一等農学博士 佐藤昌介作文 正七位勲六等久保節書 石工杉本安太郎刻』
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祠。
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祠の横に消防組頭北村益氏景仰碑。
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五梅塔…『八戸藩七代の城主南部信房公俳諧を好み業を雪中庵蓼太の髙弟なる侍臣楓臺互來に受け互扇樓畔季と號す蘭秀齋花咲亭五水坊麻庵五鳳蘭籬白隼兎毛等は其別號なり一時星霜庵二世及花本七世を襲きしか後他に讓りて自其敬慕せる菅公の梅花及淵明の五柳に因み五梅庵と稱し治を見るの傍盛に斯道の鼓吹に努めたりき今吾地方俳界の克く正風を護持し覇を東北にとなふる者實に公の賜物に外ならす茲に其徳を仰き遺烈を不朽に傳ふるもの也 昭和庚午夏 百仙洞古心』
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※百仙洞古心は北村益の俳号。
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築山から見下ろしたひょうたん池。
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八戸藩初代南部直房公銅像。
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台座碑文…『八戸藩は、寛文4年(1664)、幕府の命により盛岡藩から分けられて誕生しました。南部直房(なおふさ)公は、藩発展の基礎を築いた初代の藩主です。八戸藩は2万石の小藩でしたが、その領地は岩手県北部にまで及び、海・山・川など多様な自然に囲まれ発展の可能性を秘めた土地でした。江戸時代の八戸は、東北北部の政治・経済・文化の中心地であり、ここ三八城公園は、領内統治の拠点となる城が構えられた場所です。21世紀初めの記念すべき年に、八戸市の歴史を伝え、この町がさらに発展していくことを願い、南部直房公銅像を建立します。なお、建立にあたり、第14代当主南部直敬(なおのり)様のご理解のもと、南部直房公銅像建立協賛会(会長田口豊實)及び関係の皆様から、特段のご協力を賜ったことを記します。2001年10月吉日八戸市長中里信男』
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南部直房公銅像建立協賛会役員及び協賛者御芳名碑。
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碑の前に七福神(一部)がおりました。
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築山を下ります。
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招魂碑(陸軍中将正四位勲二等功三級男爵西寛二郎書・昭和11年10月帝國在郷軍人會八戸市聯合分會建立)。
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台座碑文…『一、為明治27・28年戦没従軍死亡者。明治30年4月21日建立。二、明治37・38年戦没以降戦病没者諸英霊合祀。三、昭和11年10月帝国在郷軍人会八戸市連合分会移之。四、昭和53年4月吉日移遷。五、平成20年7月青森・岩手沿岸地震被害。平成22年6月吉日修復。平成23年3月吉日、施主三八城公園招魂碑を修復する会、施行株式会社八戸墓苑。』
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岩岡徳兵衛像。
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岩岡徳兵衛(明治33年12月3日-昭和40年12月10日)は青森県八戸市の9代目-11代目市長。八戸市の新産業都市への指定、八戸工業高等専門学校の誘致に尽力。
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台座碑文…『岩岡徳兵衛翁は、明治33年八戸町に生まれ、幼名は壽藏、11歳で徳兵衛を襲名し、味噌醤油醸造の家業を継いだ。若くして政治を志し、初代八戸市長近藤喜衛氏の薫陶をうけ、弱冠32歳にして八戸市会議員に当選、悠揚迫らぬうちにも時流を洞察する卓抜した識見、豊かな人間性はよく衆望を集め、昭和22年から6年有余議長の要職に在った。28年9代目市長に就任、爾来3期12年にわたり市勢の伸展に奔走した。特に、国立工業高等専門学校の誘致、新産業都市の指定等に際して発揮した政治力は、八戸市の近代化に大きな転機をもたらした。昭和40年12月10日逝去、従五位勲四等瑞宝章を賜る。昭和54年秋、岩岡徳兵衛顕彰会会長熊谷義雄』
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児童安全塔(秋山皐二郎書)。
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台座碑文…『大正13年5月16日未明、八戸町に大火あり、大半が焼土と化し、町民は困窮した。その影響の児童に及ぶを憂え、且つ夢と希望を与えようと、有志が集りお話会を開いた。それから毎年、長者山を会場とし夏休を利用し「森のおとぎ会」として今日まで続けてきたのである。八戸童話会は、その後童話教育に理解ある会員を糾合し、子供大会、母と子の仲よし運動会、出張童話会、子供会の育成など諸行事を開催して来た。これ偏に児童の健全な育成を願う会員の素志に外ならない。しかるに昨今、交通事故をはじめとし、水難、火災等による、児童の被災と不安は後を絶たない。よって「森のおとぎ会」50周年を迎えるにあたり、この災いより救い、永遠に児童の幸とよき成長を願って、児童安全塔を建立する。昭和49年8月1日八戸童話会』
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八戸市公会堂前にある三浦哲郎文学碑…「私は机に向かうとき一尾の鮎を念頭に置いている。できれば鮎のような姿の作品が書きたい。無駄な装飾のない、簡潔な、すっきりとした作品。」
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三浦哲郎と文学碑について…『三浦哲郎は、昭和6年、八戸市三日町で、父壮介、母いとの三男として生まれる。八戸高等学校を卒業し、昭和24年、早稲田大学に入学する。翌年に退学帰郷し、白銀中学校の助教諭となり2年間勤務する。昭和28年、文学を志願し再び早稲田大学の仏文科に進み、在学中に「十五歳の周囲」で第2回新潮同人雑誌賞を受ける。昭和36年2月、29歳の時、「忍ぶ川」により第44回芥川賞を受け、作家としての地歩を固める。その後、野間文芸賞や日本文学大賞を始めとする数々の文学賞を受賞し、とりわけ川端康成文学賞を2度受賞して、短編小説の名手と称される。八戸市の名誉市民で、青森県人初の芸術院会員でもある。本「三浦哲郎文学碑」は、三浦哲郎の2基目の文学碑で、平成9年3月16日、66回目の誕生日に除幕式が行われた。碑文は、随筆「一尾の鮎」の冒頭の文にちなんだもので、小説を書く時の願望や自戒の念が表出されている。本文学碑の周辺は、母校である八戸国民学校(現八戸小学校)や芥川賞受賞祝賀会の行われた市民会館の跡地である。また、三八城公園は、少年時代に遊び親しんだ思い出深いゆかりの地でもある。尚、三日町の生家跡には、「三浦哲郎生誕の碑」が建てられている。平成20年6月16日八戸市・三浦哲郎文学顕彰協議会』
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三八城公園からの眺望。
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みろく横丁へ。
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何年ぶりかは覚えていませんが、結構変わりましたね。
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とても賑わっていました。
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