
秋田県大館市花岡町神山に鎮座。

御祭神は建御名方命、八坂刀売命、保食大神。

秋田県神社庁HPよりますと、この社は元この地に住む諏訪精左衛門の小祠であったといいます(古老の話)。諏訪精左衛門は甲斐の国諏訪の人で源義経の家臣でした。衣川の戦に敗れて追われる義経に従いこの地に辿り着いたそう。義経は根井下にある権現(根井神社)に詣でた後、多勢で逃れるのは不利と思い、従者らに別れを告げました。彼は義経の安否を気遣いながらもこの地を生涯の地とします。鎌倉の鶴岡八幡宮を懐かしく思い、庭に社一宇を建て氏神として信仰。いつの頃からか村人等はこの社に詣でるようになったそう。その後、社殿は文政12年に別当宝勝院明海によって建立。現在の社殿は明治39年旧暦7月27日の建立。

諏訪神社再建紀年碑(明治39年・丙午旧7月27日)。基礎建物:昭和63年11月吉日白川治郎。


諏訪八幡神社の由来…『諏訪八幡神社は八幡大菩薩を祭る。主神は、ホムダワケノミコト(応神天皇)である。この社はもと、この地に住む、諏訪精左エ門のほこらであった。彼は甲斐ノ国諏訪の人源義経の家臣、文治5年(1189年)衣川の戦に敗れ、藤原泰衡に追れる。義経に従いこの地にたどりついた。義経は根井下権現に詣でたのち多勢で逃るは不利と従者らに別れを告げた。彼はその中の一人であった。彼は義経の安否を気づかいながら、ここ神山を生涯の地とした。時がたつにつれ彼は、義経に従い、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮に詣でた頃がなつかしかった。そして、庭にほこらを建て、氏神として信仰した。妻をめとり、農にはげみ、村人たちのために尽した。いつの頃からか、村人たちは、この祠に詣でるようになった。そして数百年の時が流れた。精左エ門の末裔は定ではない。その後、社殿は文政12年(1829年)別当宝勝院明海によって建立された。現在の社殿は明治39年(1906年)旧の7月27日の建立である。太平洋戦争前の祭礼日には氏子総代らが当番宿に集い、紋服姿でのぼり、神酒、鏡餅など供物を捧げ、小太鼓を打つ鳴し社殿におもむいたものである。古老者談』

拝殿。

唐破風懸魚、蟇股、木鼻。

社殿内。

幣殿・本殿。

石灯籠一対(平成13年12月吉日)。


灯籠奉納跡一対(昭和5年吉日・神山:山本七五郎、成田善四郎、浅利マツ、桜町:佐藤サダ)。


狛犬一対。


基礎:昭和63年11月吉日、辰之助曽孫白川正恒。

杉の木。

おおすぎの根株。

おおすぎの根株…『この根株は円周8.5メートル今から700余年前、源義経の家臣、甲斐の国(長野県)の人諏訪精左エ門が祠のそばに植えた杉の木である。年を経て天空に聳え、遠くから詣ずる人の目当てとなった御神木である。「神山」の地名はこれにちなむ。村人は「おおすぎ」と言いあがめ親しんだ。昭和19年8月落雷により炎上したが村人により社殿の類焼をまぬがれた。この「おおすぎ」が身替りになったのである。その後(大杉)落雷により炎上した関係か、村人の目につくようなおとろえ初めたのでこのままでは今後強風等ともなれば社殿にも危けんが生ずると判断し、天空に聳えた神木を神の許すを受け、昭和20年終り頃障木として対処となった。それから数年過ぎたおおすぎ根株の一ヶ所に命を継ごうとして、実生した杉の木である。これが又神木となり村人を守りつづけてくれる事でしょう。古老者談。「根株に実生している杉の木は平成13年現在■■■■センチ、高サ17メートル成長されております。」』

手水石。


境内社の唐松神社。

扁額「唐松堂」。

相染社。由来は下記の白馬の由来を参照してください。

大変立派なのですが少々荒れているのがもったいないです。


秋田人形道祖神(仁王社)。


白馬。

かなり大きいです。

白馬の由来…『当神山諏訪神社に奉納されている白馬は明治の初め頃から農家の主動力として働き大切にされた馬であった。その馬が部落の一角に、ソゼンという御堂があり、その中に馬頭観音が祀られてあった。又そばに小さなほこらに白馬が奉納されてあった。村人はそれを信仰として、毎年の祭時には馬を連れて、絵馬を奉納されてあった。よって馬の無事をお祈りしたものであった。所が時代のうつり変りによって、ソゼンサマの御堂を神社の境内に移す事になった。(其の土地は現在の公民舘が建っている場所)その地に明治の初め頃に奉納された、白馬がこわれていたので、信者の人達は、話合いの結果新馬を造る事として、馬コを製作する木工師を比内扇田をたづね依頼し完成された。その馬コ(白馬)を車に乗せ(当時の荷車で)遠い道のりを数人の方で手綱を引いて、神山の地にたどりつき奉納された。其の後40年以上も経過されている関係で白馬も毛色もわるく又一部破損されていた所も見受けられたので修復を行ない現在に至っております。(この白馬は村人を守り繁栄を続けてくれることをお祈りしるものです。古老者談。平成23年6月吉日、西暦2011年、筆者畠山健左右』

境内には遊具がありました。

周囲は長閑な風景が広がります。
