くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2018年09月

岩手県二戸市福岡橋場。 久府坂と街道分岐点…『天正19年(1591)の九戸の乱以降、九戸城は蒲生氏郷が修築し、三戸の南部信直の居城として払い下げられました。これを契機に地名が「宮野」から「福岡」に改められ、信直は家臣団を引き連れて移りますが、家臣たちは家族と ...

田中舘愛橘博士ゆかりの家。岩手県二戸市福岡字五日町。 近くの久府坂に祖霊社(田中舘愛橘博士の墓)があります。 田中舘愛橘(1856-1952)は陸奥国二戸郡福岡の南部藩士の家に生まれました。相馬大作の姉の子孫。南部藩の藩校で学んだ後、一家で東京に移住。慶應義塾、 ...

下北半島国立公園。大間崎は下北半島の西北に位置する本州の最北端の岬。 対岸の北海道の函館市汐首岬までは約17.5kmしか離れておらず、本州ー北海道との最短地点とされます。弁天島の向こうには渡島連峰をのぞむことができます。大間崎沖合い600m先には潮流の速い水道の「 ...

青森県下北郡大間町大間大間平。本州最北端の神社。 弁天島の弁天神社。大間崎の沖合い約600mの場所に浮かぶ弁天島には弁財天が祀られ、古くから漁師に信仰されています。 ズーム!本殿です。本州最北端の石灯籠一対・狛犬一対あります。 弁天島は大間崎の東北端の海上60 ...

尻屋崎開放時間…8:00-15:45(4/1-4/30)。7:00-16:45(5/1-11/30)。それ以外はゲート閉鎖。 尻屋崎は下北郡東通村尻屋北方にある岬。昭和43年指定された下北半島国定公園のうち。太平洋に突出し、下北半島の北東端を占めます。津軽海峡東門の南角にあって津軽海峡と ...

青森県三戸郡階上町晴山沢妻ノ神。 賽の神(道祖神)です…住所のままですね。 小祠。 棟札が数枚あります。 ...

青森県つがる市木造芦沼雲雀野。県道162号線。かつての芦沼村で延宝年間に開拓された村です。 恐らく馬頭観音です。 もう一つ祠がありますが中は確認していません。よって水虎様かどうかはわかりません。たぶん違うと思います。『水虎様への旅~農業土木文化の時空』には ...

秋田県大館市谷地町後。真田左衛門佐幸村之墓があることで有名です。 ※真田信繁。通称左衛門佐、輩行名は源二郎(源次郎)。幸村の名で広く知られています。真田丸(NHK大河ドラマ)を見てからは初参詣。 一心院由緒並びに真田幸村の墓についての詳細は以前の記事を参照 ...

十和田市相坂。 大池神社例大祭。 田園風景が広がる十和田市相坂地区にて五穀豊穣を願う人々が足を運ぶ古社。 青森県産業技術センター藤坂稲作部のある田面地域で、約千年前に稲作が始まったとされ、そこで必要不可欠な水源地に水神様を祭ったのが始まりとされています ...

その昔、七滝村には、「毘 孫左衛門」という大地主がいました。滝には不思議な力があると村人が恐れられ、物を投げることが禁じられていました。あるとき彼は村々に自分の力を誇示するために七十余棚の薪を山の上から落としました。薪が四段目の滝つぼに落下すると天地を揺 ...

金田一温泉緑風荘五日市氏宅(岩手県二戸市金田一)は、南北朝期以来の旧家を称し、以前の建物は130年ほど前のもので、座敷わらしの古い伝承のあることで知られています(平成21年10月の火災にて亀麿神社以外の建物は全焼。平成28年5月から営業再開)。座敷わらしとは旧家 ...

岩手県二戸市金田一。緑風荘の周囲には三浦哲郎の文学散歩道などがあります。温泉神社(薬師神社)100m・三浦哲郎ゆかりの家(180m)方面に行ってみました。 であいばし(通称・ほたるばし)…『この長川の上流にはホタルの棲息地がありシーズンにはこの界隈でもホタルの飛 ...

金田一温泉郷の三浦哲郎文学散歩道です。 分教場講堂は長川小学校跡地で一部金田一温泉公民館になっております。 この門は旧長川小学校の門かな。 長川小学校跡碑。 裏面碑文「長川小学校沿革」(昭和50年3月長川小学校閉校式協賛会)…『故アリテ湯田ニ蟄居中 ...

青森県三戸郡三戸町斗内森ノ脇。上本村・中本村・下本村とありますが、中本村付近です。謎の大明神鳥居。 鳥居の先の建物は中本村部落集会所。集会所の中に祀られているのか(黒石市牡丹平の福民神社パターン)、それとも神社跡地に集会所が建ったのかは不明です。残念なが ...

東京都港区新橋にある新橋塩釜神社。 塩釜公園の沿革…『江戸時代、この公園の場所は、仙台藩主伊達家の中屋敷内にあり、鹽竃神社の境内になっていました。この神社は、はじめ元禄8年(1695年)に今の東新橋にあった伊達家上屋敷内に、領地の鹽竃神社本社から分霊を迎えて ...

ほたて広場(青森県東津軽郡平内町土屋鍵懸)です。 かつての土屋村で、はじめ弘前藩領、明暦2年分家黒石領、文化6年黒石藩領。黒石藩領と弘前藩領の境界に位置するため口留番所が設置されました。 嘉永3年の松浦武四郎「東奥沿海日誌」には「下りて浜路暫く行て土 ...

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