くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2018年09月

イメージ 3
岩手県二戸市福岡橋場。
イメージ 4
イメージ 5
久府坂と街道分岐点…『天正19年(1591)の九戸の乱以降、九戸城は蒲生氏郷が修築し、三戸の南部信直の居城として払い下げられました。これを契機に地名が「宮野」から「福岡」に改められ、信直は家臣団を引き連れて移りますが、家臣たちは家族と離れ、在府小路周辺に住んだと云われています。左手の坂は当時、帰府坂と呼ばれていました。僅か百メートル程ですが、在府から帰る坂、或いは、在府に戻る坂として、家臣たちが三戸に残してきた家族を偲び、懐かしさと寂しさを込めて名付けたのが始まりと云われています。また、この坂の起点は奥州道中と浄法寺街道の分岐点でもあり、「末の松山波打峠従是三十丁」と刻まれた追分石があります。』
イメージ 6
追分石「末の松山浪打峠従是三十丁」
イメージ 7
追分石「右浄法寺・左一戸道」
イメージ 8
旧奥州街道帰府坂(久府坂)を上ります。左手は呑香稲荷神社境内(九戸城松の丸跡)です。
イメージ 1
イメージ 2
右手には夕照山祖霊社がありました。小保内定身(1834-1883)と田中舘愛橘博士の墓(ローマ字で博士の名を刻みます)、國分謙吉(初代岩手県知事)の墓・遺髪を納めた追悼碑などがあります。
イメージ 9
夕照山祖霊社新築整備事業寄附者芳名碑(平成23年9月吉日)。
イメージ 10
坂上より。
イメージ 11
イメージ 12
坂道に疲れた後は二戸駅に向かい…
イメージ 13
TOKIOの国分メンバーをはじめ、多数の有名人が訪れているらしいお店で腹ごしらえをして帰りました。
イメージ 14
イメージ 15
イメージ 3
イメージ 2

イメージ 2
田中舘愛橘博士ゆかりの家。岩手県二戸市福岡字五日町。
イメージ 3
近くの久府坂祖霊社(田中舘愛橘博士の墓)があります。
イメージ 4
イメージ 5
田中舘愛橘(1856-1952)は陸奥国二戸郡福岡の南部藩士の家に生まれました。相馬大作の姉の子孫。南部藩の藩校で学んだ後、一家で東京に移住。慶應義塾、官立東京開成学校予科を経て、東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。在学中は菊池大麓、山川健次郎に師事し、ユーイング(英語版)に電磁気学、メンデンホールに地球物理学を学び、富士山頂での重力測定を手伝います。エジソンのフォノグラフが発表されるとその試作を行いました。明治15年に東京大学理科物理学科を第1期生として卒業し準助教授に就任。明治16年に助教授となり、電磁方位計を考案。明治21年にイギリス・グラスゴー大学のケルビン卿のもとに留学。ベルリン大学での受講を経て、明治24年にアメリカ経由で帰国し東京帝国大学理科大学教授就任。明治24年10月に発生した濃尾地震で震源地の岐阜・根尾谷の断層を発見・調査し、この経験を元に地震研究の必要性を訴え、明治25年に設立された日本初の地震研究組織である文部省震災予防調査会に委員として参加。同26年から29年にかけては日本全国の地磁気を調査測量。また岩手県水沢に緯度観測所(現在の国立天文台水沢VLBI観測所)を設立。明治37年には日露戦争の影響で気球の軍事利用研究に参加。これをきっかけに航空に関する研究に取り組みます。明治42年、フランス人海軍士官ル・プリウール、相原四郎海軍大尉によるグライダー製作に協力、同機は上野の不忍池畔で有人飛行に成功し、動力がないとはいえ日本で最初の近代的航空機となりました。
イメージ 1
明治40年にメートル条約によって設立された理事機関・国際度量衡委員会の委員(日本人初)となり、メートル法普及のための啓蒙的な活動を行ないました。大正5年の還暦祝いの会合にて退職を希望し、これが60歳定年制ができるきっかけとなります。大正6年6月22日に東京帝国大学名誉教授となり、その後大正14年10月から昭和22年5月まで貴族院議員(帝国学士院会員議員)を務めました。
イメージ 6
ローマ字論者であり、明治18年に英語の発音に準拠したヘボン式ローマ字の表記法を改めて五十音図に基づいた日本式ローマ字を考案。帝国大学の弟子で物理学者の田丸卓郎らとともにローマ字の普及に努めています。貴族院ではローマ字国字論の演説をおこなうことで有名で、メモなどはもとより、漢詩すらもローマ字で作る徹底振りでした。ちなみに当ゆかりの家の門の表札もローマ字でした。
イメージ 7
イメージ 8
案内板より…『この家は、昭和23年に福岡町(現二戸市)の有志が田中舘愛橘博士のために寄贈したものである。博士は、東京の雑司ヶ谷に住んでいたが、昭和20年3月の東京大空襲に遭い、郷里福岡町に疎開して向かいの小保内樺之介氏宅に身を寄せていた。戦後になって再び東京に居を構えたが、この家が贈られてからは、毎年夏になるとこの家に避暑に訪れ、地域の人々との交流を楽しんでいた。向かって左側の洋間からは、博士の打つタイプライターの音がよく聞こえていたものだが、昭和26年の夏が博士の最後の滞在となった。平成14年、この家は、土地と共に遺族の松浦明氏から二戸市に寄贈された。』
イメージ 9
イメージ 3
イメージ 2

イメージ 1
下北半島国立公園。大間崎は下北半島の西北に位置する本州の最北端の岬。
イメージ 2
対岸の北海道の函館市汐首岬までは約17.5kmしか離れておらず、本州ー北海道との最短地点とされます。弁天島の向こうには渡島連峰をのぞむことができます。大間崎沖合い600m先には潮流の速い水道の「クキド瀬戸」を挟んで弁天島があり大間埼灯台が設置されています。大間漁港はマグロの一本釣りとしても有名で、季節になると津軽海峡にやってくる大マグロを求めて町中が活気づきます。
イメージ 3
能町みね子さんの本(「逃北~つかれたときは北へ逃げます」)を読んだことがありますが、確かに大間町はたくさんのお店と観光客で結構賑っており、尻屋崎のトンガリの方が「北」を感じますね。
イメージ 4
私は夏の尻屋崎しか知らないので、そこそこ尻屋崎も賑わっているんですが、やっぱり行くなら冬のアタカが一番おすすめですかね。
イメージ 5
「青森県には何もねぇー!何もおもしぇぐねぇー!桜とねぶたと雪以外だっきゃ何もねじゃー!」と吉幾三さんのように連呼する人は確かに多いのですが、能町みね子さんの本を読んでからは、北の人特有の自虐的発言は一種の謙遜であり、実はプライドが高かったりして、こういうのもまた1つの魅力なんだなって思うようになりました。今ならこんなポスターで十分惹かれます。
イメージ 6
余談が過ぎました。さて、大間に来たら必ず食べなくてはならないものがあります。
イメージ 7
もちろんご存知ですよね…
イメージ 8
そう!
イメージ 9
たこ足の一夜干しです!!たこを食べながら大間崎を散歩。
イメージ 10
一応こういう写真も載せておきます。
イメージ 11
生うにの誘惑には勝てませんからね。
イメージ 12
さて、大間崎といったらまずはこちらを紹介しなくてはなりません…そう!
イメージ 13
老犬(北海道犬・アイヌ犬)のシロです。老犬なので近づかずそっとしておいてね。
イメージ 14
弁天島です。昔ここで同じ風景を眺めている時、ちょうど大間崎沖合にヘリコプターが墜落したとの情報が入り、周囲がざわつき始めたのを思い出しました。
イメージ 15
弁天島は周囲2.7kmの小さな島ですが、弁財天が祀られ、古くから漁師に信仰されています。
イメージ 16
島には海抜37m、白と黒のストライプの大間崎灯台(日本の灯台50選)があります。
イメージ 17
また、野鳥の宝庫としても知られています。
イメージ 18
大間崎の先端には「こゝ本州最北端の地」の石碑が立っています。下部には「北緯41度32分・東経140度55分・青森県知事竹内俊吉」と刻まれます。裏面碑文…『昭和43年7月22日大間町町長金澤幹三建立』
イメージ 19
周囲にも多くの石碑やモニュメントが建てられています。
イメージ 20
イメージ 21
足元には地図。
イメージ 22
イメージ 23
石川啄木歌碑。大間崎は石川啄木縁の地としても知られているそうです。『東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる』の歌について、地元では大間崎の沖合いにある弁天島を詠んだものであると考えられているそうです。
イメージ 24
『大海にむかひて一人 七八日 泣きなむとすと家を出でにき』『東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる』『大といふ字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて帰り来れり』青森県知事木村守男書。
イメージ 25
裏面碑文…『石川啄木の代表歌「東海」の歌の原風景はここだという風評は、函館にかれの墓ができたころからあった。大間の地蔵庵主が「啄木はしばらくここに滞在したが、そのときかれは大変おちこんでいた」と言ったという。それは、明治35年盛岡中学を中退するころで、同年10月の「明星」に次の歌が載っている。【血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋】。「東海」の歌は明治41年6月のノート「暇ナ時」に記されている。東京から北海道と長い流浪のあと上京して小説にいどんだが、小説は売れず眠れない夜がつづいたとき、以前に彷徨したこの小島が心をよぎったのだと思う。むつ市の鳴海健太郎は明治35年ころ隣村大畑にいた「明星」の歌人医師中山梟庵の歌集から啄木と会った証拠の歌を発見した。【啄木はよも忘れまじ青森県大畑にある正教寺内】梟庵。私たちは歌集「一握の砂」の中から、三首選んで、新しい明日を希いながら早世したかれの鎮魂をしたいと思う。1998年7月青森県啄木会川崎むつを』
イメージ 26
日本海軍特務艦豊国丸戦死者忠霊碑(内閣総理大臣福田赳夫)・日本海軍特務艦豊国丸戦死者名簿碑。終戦間近の1945年(昭和20)7月14日、大間町沖の津軽海峡を航海中の海軍特務艦「豊国丸」(1274㌧)が米軍機の攻撃を受けて沈没し135人が戦死しました。平成30年7月14日忠霊祭が行われ、福島県や神奈川県などから遺族15人を含む約50人が参列し、今年改修された豊国丸戦死者忠霊碑が披露されました。翌日の新聞には「終戦間近大間沖で沈没「豊国丸」。悲劇風化させない。石碑改修戦没者氏名鮮明に」と題して大きく取り上げられていました。ニュースで見たばかりでしたので悲痛の思いが込み上げてきます。
イメージ 27
「豊国丸は八戸港から大湊軍港へ物資輸送中、大間沖で米軍機に撃沈された。乗組員147人のうち、生き残ったのは12人のみで、船体は今も大間崎前の海に沈んでいる。遺族会が74年に発足し、77年に忠霊碑を建立。毎年慰霊祭を開いていたが、遺族の高齢化もあり、94年の50回忌を最後に解散、その後は一部の遺族が個別に忠霊碑を訪れていた。忠魂碑に刻まれた戦没者氏名が風化によって薄れてきたため、今年1月から3月まで、インターネットで資金を調達するクラウドファンディング「FAAVOしもきた」で資金を募り、94人から214万円が集まった。6月から忠魂碑の改修工事を行った。14日は、海上自衛隊大湊音楽隊の演奏で始まった。戦没者氏名が鮮明に刻まれた忠魂碑が披露され、遺族らは一人一人玉串を奉てんし、手を合わせた。」(翌日の新聞記事より一部抜粋)。
イメージ 28
裏面碑文…『昭和二十年七月十四日午后二時三十六分米軍艦載機と交戰し、激斗のすえ乗員百三十五名の勇士、艦と共にこの海に眠る。英霊に捧ぐ 海を征き 海に散りたる つわものの 御霊よ永遠にあらかにあれ 詠寿山』
イメージ 29
「本州縦断徒歩リレー出発の地」碑。
イメージ 30
「東京私立聖学院中学校・高等学校 昭和54年7月22日午前6時」と刻まれています。
イメージ 31
天童よしみ歌謡碑(昭和54年1月吉日建立・平成21年7月復刻)
イメージ 32
「みちのく慕情」(瀧竜二作詩)。
イメージ 33
お店をハシゴしていたら、川畑商店前に「会津斗南藩資料館」の看板があったので、再度、干したタコ足を買い込んで向かいました。※タコ足はその場で真空パックにしてくれます。
イメージ 34
大間郵便局前の「リビングキムラ」2Fに「斗南藩資料館(向陽處)」があります。
イメージ 35
写真は撮れますが掲載は禁止。斗南に移住した会津藩士の末裔が館長を務める貴重な資料館です。
イメージ 36
イメージ 3
イメージ 2

↑このページのトップヘ