くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2018年07月

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秋田県大館市二井田贄ノ里。結構場所がわかりにくいかも知れません。羽後二井田郵便局はす向かいの虻川理美容室さんの横の細い路地を入ったところに鎮座しています。贄の柵跡の近く。
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なかなかの巨木がありますが、これもあまり目印にならないと思います。
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ちなみにこの巨木に関する案内板は特にありませんでした。
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手水舎。
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御祭神は誉田別大神、天照皇大神、大山祇命、菅原大神。
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例祭日は旧暦8月15日。
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創立年代不詳。当地は奥州平泉4代終局の地であり次のような言い伝えがあります。
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当神社は元、諏訪八幡と称していましたが、後に泰衡八幡となりました。その理由として、文治5年に源頼朝の勢に追われた藤原泰衡が、累代の臣である河田次郎行文を頼って、行文が領知する此処二井田贄の柵に落ちてきましたが、かえって行文に害され、その死骸は錦の袍と共に出向の地に葬られました。村人はこれを哀れみ、自然石(錦神社御神体)を建てて秘かにその霊を祀ってきましたが、後年、村中に怪異があり、村人はそれを泰衡の祟りとして、慰霊のために、出向の霊地に一宇を建て、錦堂(現錦神社)と称して公然と祭祀し、また、鎮守社を諏訪八幡と称するのをやめて、泰衡八幡として尊崇したところ、怪異は止んで村は栄えたということです。
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明治6年村社、同40年神饌幣帛料供進神社指定。同43年同村字高村神明社を合併。昭和35年社名を二井田八幡神社に改めました。なお、昭和10年、明治以前の旧社殿を高村神明社に譲っているため、神殿はその頃に新築されているものと思われます。
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拝殿脇障子。
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社殿脇の御神木。
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紀元2600年記念碑。
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狛犬一対(昭和11年旧2月1日)。
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ほぼ崩壊している石灯篭一対。
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石灯篭一対(昭和3年■月15日)。
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石灯篭一対(昭和10年8月15日)。
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狛犬一対。
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神厩舎。
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御神馬。
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巨木の根の上に石碑。
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稲荷神社・琴毘羅神社(明治3年)。
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読み取れない碑。
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境内神社の唐松神社。
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秋田県大館市二井田贄ノ里。館町内会館隣り。「錦神社」等の記事も参照ください。
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史跡贄の柵城跡には神社が鎮座。
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左の建物は館町内会館。
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「史跡贄の柵城跡」標柱。
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史跡贄柵跡(城主河田次郎没後800年記念に因んで)…『藤原泰衡は今より800年前、文治5年(1189)源頼朝と厨川の戦に破れ祖先永住の居城を捨て北上し、出羽の国の重臣であった出羽の国比内郡の贄柵の河田次郎を頼って、部下3名を連れて逃れて来た。当時河田次郎は此の度の戦には、遠隔の地である上、事件が急であって参戦に間に逢わず遠くから世の形勢を観望して居た。そこへ領主である泰衡が敗残の将として現れたのである。贄柵は壮大な館を構え、国隣へ武勇を轟かし、実直で人望の高い武将であったので領主である泰衡を手厚く迎え接待していたが、鎌倉方からの追及が激しかったので度重なる城内会議など、その物々しさに切羽詰まっている状勢を察知した泰衡は、自分が居ては迷惑をかけるばかりだと判断、館を逃れ川向いの葦原の中で自害して果てた。次郎は困り果てたが死んでしまってはどうにもならず、泰衡の首を持って鎌倉方へ届け出た。だが頼朝は、主君である泰衡の首を切るとは不忠にも甚だしいと、次郎に逆臣の罪を冠せ断罪に処した。館に残った一族の豪族化を恐れた頼朝は、猜疑心が強いので一族断絶の命令を下しその刑を執行したのである。今、下高村を「ハリツケバ」と言うが、当時の一族の刑場であったと伝えられている。その後、館町内の人々は、かねてから次郎が氏神として城内で崇拝した諏訪八幡神社と、泰衡の霊を祀る錦神社の二社を大切に維持して現在に至っている。平成元年11月28日大館市老人連合会・二井田地区老人会連合会・館町内会』
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案内板にある諏訪八幡神社はここから少しだけ離れた場所にある二井田八幡神社(元諏訪八幡・通称泰衡八幡)のことです。こちらは二井田愛宕神社とのことです。
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社殿内石祠棟札には「愛宕神社」「稲荷大神」「七面大神」などと見えます。
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その他諸々。白鳥が凄いですね。
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御神馬。
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関興庵の横(墓所へ向かう道)に鳥居と参道があります。
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南方稲荷大明神。社殿内に狐一対、灯篭一対などありました。
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拝殿扁額(青木源之助)。
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『正一位南方權現渡部藤兵衛稲荷大明神の祭神は、天正6年に始まる上杉家合戦に際し、関興庵勢より援軍、無類の働きをなし、利運を導きたる上杉家の鎮守稲荷明神の化身渡部藤兵衛にして、その稲荷堂は寛永2年建立されたるも寛永8年諸堂焼失、文政7年粡町よりの出火にて類焼す。明治35年7月1日、有信の諸士により五十嵐大工の手に依って建立された。更に明治40年6月崇信講社の結社により拝殿建立の日、7月1日を毎年の祭日と定め、永く祭事が施行され今日に至っている。此の間大正3年5月青木源三郎氏によって後方三尺増築され昭和44年、青木源五郎氏によって土台の取換え一部増築をみた。今回、末弟青木源之助の17回忌法要に当り妻トラ及び長男進、次男仁、参男礼、相計り供養の為拝殿を再建する運びとなる。建設に協力された方は源之助次兄青木源四郎嗣子清氏および源之助長姉片桐やす養子片桐栄吉氏である事も何かの因縁と申せよう。北寺町在の青木源三郎、源五郎、源之助兄弟は崇敬篤信の念厚く、生誕地への情愛殊の外深く如意輪観世音菩薩本尊の彫刻、本堂の建設又大鳥居三基を寄進す。今新に拝殿を再建し祭事の継続隆昌を願うは子孫にとり望外の喜びである。落慶式に当り寄進の意を表し、この地の繁栄を祈る。合掌。昭和54年11月18日。在東京、青木トラ、青木進、青木仁、青木礼。』※当案内板では「渡部藤兵衛」となっていますが由緒によると「渡邊(渡辺)藤兵衛」。
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石灯篭。
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社殿のすぐ横にあった古そうな墓碑。「廣居忠久之墓」とありました。稲荷との関連性はわからず。「天保四癸巳年二月二十五日」。
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