くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2018年03月

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東京都中央区日本橋富沢町。鳶沢某が開いた地なので鳶沢町と呼ばれ、後に富沢町になりました。鳶沢某は江戸初期の盗賊で、家康に捕えられたが助命され盗賊詮議の役を命じられました。鳶沢は改心して配下の者を呼び寄せ、古着屋仲間を作り鳶沢町を作ったと伝えます。鳶沢が町屋を開いた状況は「遊女町のかたわらにて地を給り、葭原を開きて居宅となし、かのふる着をあきなうを業とし」と落穂集にあります。後に大いに賑わったことから鳶を富と改めたそう。古着市は日本橋の魚市、神田多町の菜市と並んで早くから知られ、夜の明ける頃から家の前にむしろを敷いて、古着を山のように積んで商いをしたそう。元禄14年末には古着屋仲間組合が結ばれ、明治14年神田岩本町に古着市が移転するまで繁華街として続いたそうです。wikipediaには、江戸時代にこの一帯に住んでいた古着屋の元締めである鳶沢甚内という人物がいたことから、鳶沢町と呼ばれ、後にそれが訛って、又は字を改めて「富沢町」と呼ばれるようになったとあります。
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御祭神は倉稲魂命。創建不詳なれど、かつては巴熊稲荷神社と称していたそうです。特に案内板も無く由緒不明のため、巴熊の由来についてもわからず。
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恐らくこういうことかと思います…ごめんなさい。
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明治6年1月16日に神田神社の兼務社となっています。その後戦災にて焼失。昭和7年に周辺の新大坂町・弥生町・高砂町・元浜町の全部あるいは一部を編入。昭和25年には元弥生町・新大阪町・元浜町3ヶ町それぞれの稲荷社が合祀され、富沢稲荷神社と改称され現在地に再建。
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境内社の初姫稲荷神社。
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徳川秀忠四女興安院初姫以外に思い浮かびません。合祀に関わるいずれかの神社かと思いますが、いずれにせよ由緒はわからず。
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はたまた元吉原に関連している可能性もあります。古地図を見るとこの地区は元吉原一帯なのです。吉原は明暦の大火後に浅草に移ります。隣町には高砂町なども見えますが、この付近には歌川国芳やお富、鼠小僧も住んでいた場所です。
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「フイカフイナリ」や「クマカエイナリ」、更にその下にも「イナリ」と見えます。「クマカエイナリ」が「巴熊稲荷」かとも思ったのですが、恐らくこれは熊谷稲荷(現存せず)でしょうね。「フイカフイナリ」は鞴稲荷(現存せず)でしょう。いずれにせよ絵図を見てもこの付近は稲荷だらけでよくわからず。
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愛宕羽山両神社境内(地蔵園・愛宕神社奥宮参道入口付近)にあります。昭和51年に晩年の伴淳三郎らが東京都の中野から移築した神社(木村東介寄進)。伴淳三郎(1908-1981)は米沢市出身の有名な喜劇俳優です。
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御祭神は天宇受賣命。芸能の神であり日本最古の踊り子。
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脇障子。これは黄石公に沓を渡す張良の図ですかね。もう1つの脇障子(向って右側)が黄石公なら確信が持てるのですが、手前に幟があり、ちょうど隠れていて見えませんでした。
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狛犬一対。
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こちらの碑は読んでいませんが所謂当地の「堰」に関する内容でした。紀年銘は大正8年9月。
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こちらの記念碑も紀年銘は同じで堰(遠山川分水)に関する内容。
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こちらは状態が悪く読んでいません。
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米沢市の中心部にある上杉神社周辺から南西部に目を向けると屏風のような斜平山を遠望できます。斜平山は総称で、笹野山、愛宕山、羽山などの山々の尾根が続いています。中腹には景色のいい御成山公園。愛宕山山頂には愛宕神社(奥宮)、羽山山頂には羽山神社(奥宮)が鎮座。
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なお、愛宕神社前には上杉鷹山公雨乞之碑があります。説明碑文…『昭和八年夏連日旱天時に米澤藩主第十代上杉鷹山公之を憂い、領国の危難を救わんと遂に六月五日未明侍臣と共にこの愛宕山頂に登拝祈雨の至誠を捧げらる。即ち天これに感応、沛然たる慈雨至り降ること終夜、乾田は蘇生し萬民始めて愁眉を開けりという。爾来二百年、この恵沢を追慕し、幸に裔孫十六代御当主揮毫の碑を建て、聖徳を千古に顕揚せんとす。昭和48年7月4日鷹山公雨乞之碑建立会・上杉神社宮司大乗寺良文誌・金子清一郎刻』
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斜平山中腹に見えるあたご山荘。
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社号標(愛宕神社・羽山神社)
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社号標の脇に子育地蔵尊(別当太田本家)がありました。
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湯殿山塔(文化2年)。
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子育地蔵尊。
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山の麓の登山口には愛宕羽山両神社が鎮座しており、所謂里宮となっています。米沢観光コンベンション協会から頂いたマップでは「地蔵園(愛宕の火祭り会場)」とありました。愛宕の火祭りは600年の伝統祭礼であり、愛宕・羽山両神社の「お山まつり」を中心とした情熱的な火の祭典。地蔵園口ノ宮より景勝の神璽を神輿に遷し、松岬神社で採火された御神火(松明行列)とともに、「お山は繁盛・身体堅固・六根清浄」の掛け声で勇壮に愛宕山頂の本宮に渡御。
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地蔵院社務所。愛宕神社は江戸時代から上杉氏の崇敬が篤く社領12石5斗が与えられ、別当寺は真言宗の地蔵院が勤めていました。
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神仏習合によって勝軍地蔵が祀られ、戦の勝利を願う信仰も強いものがありました。明治3年に地蔵院は廃寺となり、明治12年に跡地に愛宕羽山神社の口の宮(里宮)が建てられ、境内を地蔵院(地蔵園)と呼ぶようになっています。
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「権大僧都秀海」(明治3年8月25日)。廃寺時の地蔵院の名残りです。
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正一位稲荷大明神社号標(寛政2年5月吉日)。
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正一位稲荷大明神。
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社号標碑文より…『安永元年3月26日、鷹山公遠山村に於て藉田の礼を行われ、自から鍬を持って範を示されたことに、深い感銘をうけた村人達が、当地を御小屋と呼び、肝煎新兵衛が中心となり、御開作場目先通りに新宮を建てようと、寛政2年京都神祇官に赴いて、正一位稲荷大明神の神号を受け、一村の作神として祀りました。此の碑の神号は当時の旗をそのまゝ写したものです。終戦後耕地交換分合で蛭川の畔に遷座になり、蛭川改修で昭和55年8月地蔵園に遷座になりました。』
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功徳碑。見えにくかったので読んでいません。
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遠山一村中のお田の神。
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石祠群。
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鷹山公生誕二五拾年祭碑(平成13年6月5日)…『愛宕神社雨請登拝明和8年6月5日・安永2年5月25日。羽山神社雨請登拝安永2年5月29日。「水尽キ草枯レテ二旬ヲ過グ一朝ノ瑞雨精神爽カナリ即今何ノ道カ天意ニ応ズ唯頼ル祖先黎民ヲ庇フヲ」』
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愛宕羽山両神社(里宮)。
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石灯篭一対(大正13年5月8日)。
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手水舎。
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手水石。
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鳥居(石製)。
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石灯篭二対。
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社殿前狛犬一対。
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創建は大同2年(807)。愛宕山山頂に京都愛宕神社の分霊を勧請したのが始まり。御祭神は火之迦具土神・大山祇命(羽山神社御祭神:羽山戸命、大名持命、少彦名命)。
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古くから神仏習合し、別当寺院として地蔵院(真言宗)が祭祀を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、現在の愛宕神社へと改めています。愛宕山は古来からの信仰の山で多くの人々が登拝が続けられ、昭和3年からは民衆登山として多くの市民が参加するようになり現在に至っています。
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歴代領主からの崇敬され天正16年には米沢城の城主、伊達政宗が愛宕神社本社から尊像を授かりその像を奉納。江戸時代に入ると米沢藩主上杉家から崇敬され慶長9年に上杉家2代景勝公が社殿造営したのを始め、3代定勝、4代綱勝と続けて改修や修築を行い、14代茂憲は大坂の陣の戦功により徳川家康から賜ったと伝わる米沢城の大太鼓を愛宕神社に奉納し、江戸時代を通して社領12石が安堵されました。明和8年には9代藩主上杉鷹山が家臣である竹俣当綱や色部照長らを従えて雨乞いのために自ら降雨祈願した場所としても有名で、祈願するとただちに雨が降り始めたという逸話が残されています。
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御輿庫。
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神輿と獅子頭。
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石祠。
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御即位記念碑(愛宕神社・羽山神社神輿修理寄進芳名碑)。
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愛宕山山頂に鎮座する愛宕神社奥宮への参道登り口(山頂まで2200m)。
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社号標。
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愛宕参道改修記念碑。
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湯殿山碑。ちなみにすぐ近くに「日本芸能神社」がありますが別記事にしております。
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鷹山鷹山公藉田碑。
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鷹山先公藉田遺趾ノ碑除幕式ヲ祝スルノ辞…『羽前米澤遠山村籍田遺趾ノ碑除幕式ヲ行フヲ告ク想フニ我カ鷹山先公ノ襲封セラレシヤ紀綱解弛上下衰弊社稷殆ト将傾頽ニ垂セリ公慨然トシテ中興ノ業ニ志シ節用愛民ノ政ヲ行ヒ商工ヲ勵マシ農業ヲ勤メ専ラ冨國安民ノ道ニ勞心痛慮セラレシナリ即チ遠山村籍田モ亦實ニ勸農ノ盛意ニ外ナラス且ツ公ノ籍田ハ徒ニ先王ノ遺典ニ遵シ其古禮シ奉行セラレシ而己ニアラス大ニ種苗試作ニ應用シテ封内ノ稲種ヲ改良セラレシモノアルナリ今之ヲ記録ニ徴スルニ其試作ノ種子早稲ニ於テ凡ソ七十有七種中稲ニ於テ凡ソ五十有二種晩稲ニ於テ凡ソ二十有三種総計百五十有二種ノ多類ニ及ヒタリ公ノ農事ニ労心セラレシモノ由テ以テ其斑ヲ徴スルニ足レリ公致仕ノ後チ芳澤兜山曦山三君ヲ経テ茂憲封ヲ襲キ封土返上ノ日ニ至ルマテ遺典ヲ遵奉シテ敢テ怠ルコトナカリシナリ今ヤ有志諸氏公ノ遺跡ヲ欽仰シ碑ヲ建テ以テ不朽ヲ謀ラル何リ其忠厚ノ至レルヤ茂憲今日東京ニ在リ親シク諸氏ニ面シテ碑ノ成ルヲ祝シ且其勞ヲ謝スル能ハス遺憾殊ニ深シ因テ聊カ筆硯ヲシテ予ノ所感ヲ述ヘシムルフ爾リ。昭和36年11月23日伯爵上杉茂憲』
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愛宕神社…『愛宕山(標高556m)の山頂に鎮座。祭神は軻遇突智命大山祇命。大同2年(807)の創建と伝えられる。長井・伊達・蒲生・上杉氏の各歴代領主の崇敬が深く、上杉景勝からは社領25石を賜った。また、明和8年(1771)6月5日、日照り続きの中で上杉鷹山が近習を従え降雨祈願に参拝、数刻後に慈雨が降り出し農作物が蘇生、領民が喜んだ逸話が有名である。例祭日は8月2日で、山麓の地蔵園から御輿渡御が行なわれる。また、8月1日の早朝には愛宕山民衆登山、夜には「愛宕の火まつり」が盛大に催される。米沢市』
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上杉鷹山肖像。
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