くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2017年08月

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十和田市沢田蒼前平。かつての沢田村。沢田氏系図に「(盛岡藩主)利直公、慶長16年10月12日付八百石、其実797石8斗9升5合也を賜ふ、御黒印あり」と見えるように、江戸初期は沢田氏の知行地でした(その後知行地は失われています)。当村は地勢に恵まれ、生内川を利用して早くから開拓されています。寺院として五戸高雲寺末沢田山東光寺(寛文4年僧逸暁開山)、また三日市に白山神社(元禄6年勧請・大山比咩命)が見えます。館にある八幡宮は元禄7年の勧請(御祭神応神天皇)。明治2年には七戸藩・斗南藩に分割統治され、その領域境は不明。同4年にそれぞれ七戸県、斗南県となり、ともに弘前県を経て、青森県所属。同11年上北郡所属。
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そこそこの急勾配を下っていきます。
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下っていくと大きな岩が見えてきます。
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かなりの大きさです。
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もしかしてこちらは裏参道だったのかな。社殿の裏側に出ました。
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社殿前には更に大きな石!
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かなりの大きさです。
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石の中央下部分に窪みがあり、狐が祀られています。十和田村史によると、巨岩が2つも3つも転がっていることで古くから名高い神社であり、明治初年頃は誰も手を入れぬ荒蕪地で、大岩の下には穴を作って狐が棲んでおり、これがついに狐が稲荷ということになり、ここにしきりに祈願の足を運ぶも、ある年の火災に、占卜する者があり、此地に堂を建てて祀れば永く部落を護らんとのことで、やがて今に見る祠が建ったと書かれていました。祭日は旧8月3日。
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社殿横にも石がありますが、前後の石が大きすぎて小さく感じてしまいます。
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社殿。
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向拝。
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社殿内。
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社殿前の石碑「正一位稲荷神社」(明治28年3月3日)。
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うん?力石?よく見えませんでした。
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社殿前の風景。
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こちらが本来の参道かも知れませんが鳥居はありません。
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小川があり、橋を渡ります。
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参道横に小さな池があります。占場。
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結構な勢いで水が湧いていました。キッコイジャの水。十和田村史によると三日市地内喜久井山の稲荷神社の項に、喜久井山、木喰山、木栗沢、吃請沢、どれも俗にキックヒザワ(キッコイジャと訛る)とあります。
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伝説を秘めたキッコイジャの水(境内案内板より)…『このキッコイジャとよばれる意味は、誰もよく分からない。ただジャは沢の方言だから、キッコイとはなんだろうか。ここの湧水には「紙うらない」が知られていて紙を捻ったり、浮かべた紙に銭を置いて願い事を念じたのち、浮かべた紙の沈み方をみて占うのである。するとキッコイは「紙うらない」に関する何かが隠されているのだろう。三日市は、白山神社を産土神としている。つまり白山の神に守られた集落である。白山信仰では白山比咩大神を主神として、伊弉諾尊・伊弉冉尊を合わせて祀っている。「日本書紀」の異説の一つに、死んで黄泉の国に赴いていた妻イザナミを連れ戻そうと夫イザナギがやって来たとき、イザナミはすでに黄泉の国の食物を食べて、醜い姿になっていた。そんな体を見せたくないイザナミの「見てはならない」という禁をやぶり、イザナギは見てしまう。もはや離別が決定的となって、二人の言い争いに菊理媛尊がわって入って、何かを告げたという。イザナギはその言葉をほめ、そのあとに禊をしている。白山信仰では、このキクリヒメをシラヤマヒメと同一の神とする。この神話を考慮すると、キッコイはキクリヒメが訛って伝えられてきたと考えられよう。白山比咩は元来が水神の女神である。清らかな水によって穢れを払うとともに、菊理姫のあらたな神徳として願をかなえることが加えられた。キッコイジャは庶民の願いを紙占いにより、五穀豊穣・家内安全・良縁成就・夫婦円満・子孫繁栄などが、お告げとして示されるようになったのではないだろうか。平成24年11月吉日十和田市名水保全対策協議会』
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池の横に小祠があります。
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白山比咩大神かと思ったのですが、両手に宝珠を持った男神像でした。キッコイジャの水関連ではなく、稲荷神社の末社かも知れません。
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再び稲荷神社の裏手から山道を登って、最初の鳥居の近くにあるもう一つの鳥居。
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小さな石祠前には御幣があり、よくわかりませんでした。馬頭観音(蒼前様)かな。
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県道45号。ちょうど川守田町と六日町の間に「えの坂」の案内板があります。
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えの坂の由来…『昔、この坂の脇に佐藤兵衛の屋敷があったので「さどべえ(佐藤兵衛)坂」と呼ばれていた。それがいつの間にか「え(衛)の坂」と省略して呼ばれるようになった。佐藤氏は代々兵衛丹波守と称し先祖は南部光行公入国の際相内館の一夜堀構築の奉行をつとめたといわれる名家である。佐藤氏はのち田子通り十六箇村の大肝入となり下参郷(しもさごう)氏と称した。六日町に屋敷を賜り更に田子丹波と改め田子氏と称している。昭和63年8月吉日六日町多聞天神社』※十六箇村=夏坂・関・山口・遠瀬・茂市・杉本・石亀・道地・佐羽内・原・飯豊・白坂・相米・種子・田子・日ノ沢。※下参郷氏は世襲とされ、本姓を佐藤兵衛といいましたが、藩命により改称したもので、三戸市中に常住し、年貢収納などの職務を果たすため、田子通に数人の小走を置いていました。
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坂下に大変特徴的な家がありました。
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普通の家なのかな。特に案内板なども無かったので立ち入ることはできず、よくわかりませんでした。
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えの坂は車一台通れるくらいの細い坂道。
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途中でS字型に大きく湾曲しており、勾配はさほど感じません。
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湾曲した所には細い道(石段)があります。
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この石段の方へ行けば毘沙門堂の横に出ます。
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坂上は緩やかに湾曲しており、両側は高いコンクリート塀、そう上には木々が生い茂っているため、やや暗く感じます。
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高いコンクリート塀を抜けた先も勾配が続きますが、両側は普通の住宅地となっており、佐藤兵衛屋敷の遺構はわかりませんでした。
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三戸大神宮(三戸町)』からの続き。
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神輿庫。
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三戸大神宮の御神輿は文政9年に盛岡藩第38代藩主南部信濃守利済公寄進のもの。三戸町文化財指定。
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末社。
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向かって右が伊邪那岐大神、左が伊邪那美大神。
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末社毘沙門天社。
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御神徳は北方守護・金運財宝・恋愛成就・病気平癒・勝負事。この地は毘沙門館とよばれ、古くより霊験あらたかな毘沙門天像が祀られています。
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末社稲荷社。御祭神は宇迦之御魂大神。御神徳は商売繁盛・五穀豊穣。
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同じく末社の稲荷社。
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こちらも末社も稲荷社。
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末社近くにある裏参道。
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絵馬殿。
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壁に十二支の絵が飾られていました。
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入口付近にはこのような獅子頭も。
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文化3年(1846)からの貴重な絵馬が納められています。
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神額(渡部道雲)。
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渡部道雲先生について…『三戸大神宮をはじめ、諸所の神社に道雲先生揮毫の社号額、神号額が多く見受けられる。先生は、通称を虎次郎といい、道雲、斗南居士と号した。旧会津藩士で、明治維新後、同藩の斗南移封により三戸に移住した。会津の藩校日新館で漢学及び槍剣の術を学び、書は田名部車川・佐瀬得所・長坂午橋に学んだ。明治6年(1873)三戸小学校創立と共に教師となり、訓導・校長を歴任三戸の教育の基礎づくりに貢献多大である。書家としては、大字を得意とし、その筆勢は巧妙自在、中央の大家と比べ遜色はなかった。嘉永元年~大正6年(1848~1917)行年70歳』
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天の岩戸の図(弘化2年9月吉日)。作者は三戸の絵師石井東江。江戸末期の三戸地方で最も優れた絵師。
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省略しますが、絵馬には丁寧に手書きの説明付いているのがとても有難いです。
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大化の改新の一場面「中大兄皇子、蘇我入鹿を斬るの図」(大正7年奉納)。
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松竹梅に鶴亀の図(縦100cm・横121cm)。文化3年。奉納者松尾十兵衛。絵師の名は無し。
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明治天皇御巡幸の図(縦63cm・横129cm)。作者は川守田月船。松尾十蔵奉納。明治14年8月24日に青森に向かう天皇の行列が黄金橋をご通過する光景。
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日本武尊熊襲征伐の図。大正2年社殿新築記念として御遷宮の日に奉納。作者静卿、奉納者松尾十吉。
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三戸県役所新築記念の絵馬。明治3年。作者は鵜飼東岱。
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六歌仙の図。大正10年霜月吉日。落款は江舟。江舟は東京の女流画家有沢敏子。
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絵馬の他にも色々ありました。
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絵馬殿前にある大神宮碑一対と大黒様。
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紀年銘は宝暦五年九月十五日。
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絵馬殿の横にある松原とおし・ひさ恵の川柳碑…『「どの角度からでも妻の受け応え」とおし・「縄跳びの中でふたりは蝶になる」ひさ恵』。
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裏面碑文…『松原とおし・ひさ恵は、昭和41年から三戸川柳吟社同人として奥昭二氏に師事し、俳句活動に猛精した。後に同吟社の会長・副会長を勤めながら東奥日報柳壇の選者としても活躍。夫婦共に教職を務め、児童生徒に川柳を指導した。その後全国に広がるジュニア川柳のさきがけとなった。(発起人・土地提供者・賛同協力者名省略)平成18年4月28日』
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奥昭二の川柳碑…『「子が走るはしる貧富の翳も無く」昭二』。
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裏面碑文…『奥昭二略歴。大正2年3月20日三戸町在府小路に生まれる。昭和13年三戸町公務員となる。昭和46年3月退職。昭和60年6月1日没。柳歴18歳より俳句活動に入る。不浪人賞を3回受賞。(建立発起人・協賛者名省略)平成4年11月23日』
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市神社。商売繁盛の神。
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向拝下。
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社殿内。
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狛犬一対。大黒様・恵比寿様がおりました。そして中央には川村惣太郎様。市神様は元来、市杵島姫命をさしていますが、大神宮の社家の山崎家では大国主命を祭ったと信じていました。しかし郷土史研究家小井田幸哉氏により、三戸の市日開設の恩人川村惣太郎を祀ったものであることが明らかとなりました。かつては人を神として祀ることは容易ではありませんでした。そこで市神社も表面的には大国主命を祀ったものとしていた可能性があります。
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思案の石。
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思案の石…『重税に苦しむ町民を命がけで救った義人、検断役、川村惣太郎(?~1733)。人々の切なる声を聞き窮乏を見かねた惣太郎は石に腰掛け、日々思案し、単身直訴を決断します。盛岡「中の橋」付近に潜伏すること十数日、藩主の通行中に直訴し、捕らえられ投獄(1711-1715)されました。しかし、その哀願の理由が人々を救済することにあったことが認められ、税は軽減される結果となりました。更に、経済の更生を図るため今に続く市日の開設を成し遂げたのであります。この石に腰掛け、心静かに祈念すれば願いが叶うと言われています。』
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どなたかは存じませんが、このように座ればいいらしいです。
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思案の石の横にある灯篭。
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御神木。
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招魂之碑(明治39年12月建立・参謀総長陸軍大将男爵奥保鞏書)。
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杉原凱先生之墓(明治19年孟冬)。
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会津藩校日新館教授。
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裏面碑文は省略。
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杉原凱先生之墓由来碑。消えかかって読みにくかったので省略。
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会津藩殉難者無縁墓。
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裏面碑文…『明治元年(1868)会津藩降伏、滅藩となる。仝二年賜斗南藩、仝三年陸路海路ににより斗南移住、仝四、五年にかけ疲労等のため死亡する者無数。当時の三戸移住者氏名、死亡者数、墓碑等不詳。ここに会津藩殉難者無縁塔を建てその霊を弔う。昭和五十一年八月二十三日斗南藩史跡三戸三碑修理顕彰会』
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伊勢ノ海部屋所属「越ノ戸濱右衛門之墓」。
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狛犬がいました。阿形のみ。
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恐らく元々は社殿前にあった以前の狛犬でしょう。
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個性的な狛犬ですが状態はあまりよくありません。
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紀年銘も読み取れそうで読み取れず。大正かな。でも現在の社殿前の狛犬も大正だったし…そもそもこの台座がこの狛犬の台座なのかも不明ですが。
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皆集館。
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皆集館近くの石灯篭。
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色々おります。
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蛙と馬。
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小祠などが並んでいました。
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八大龍神。
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隣の碑には「奉納御蒼前 ハタ光之霊祭ル 昭和48年旧4月19日佐々木啓一」とありました。
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庚申塔・二十三夜塔(文化10年6月23日)。
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庚申塔の前には地蔵様と…
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狛犬が。
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これって先程の狛犬の吽形ですね。残念ながら台座は無く、紀年銘はわからず。
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