くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2017年01月

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主祭神は八幡山大神(応神天皇)。八幡総本宮である宇佐神宮からの直接の分霊社。東北最古の八幡宮と称されており、秋田杉やあきたこまちを始めとする山林農耕業が主流の土地柄、農作物の基本となる自然の恵みをもたらす山の神の要素も併せ持ちます。
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往古より社地を八幡山、境内を内館と称するために祭神名八幡山大神、私塾を内館塾・内館文庫と称します。配神として、伊弉諾神・伊諾冊神・天照皇大神・須佐之男神少彦名神・火産霊神・水波能売神・大山祇神・豊受比売神・厳島姫神・鴨若雷神・日本武尊・神功皇后・崇徳天皇・三吉霊神・猿田彦神の16柱を祀っています。
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第37代斉明天皇5年(659)朝廷の命令を受けた阿倍比羅夫将軍が蝦夷を治めるため肉入籠の地に至り、白鳥の留まる所に地主神を祀り創建、戦勝祈願と北秋田地方の鎮護として九州豊前國宇佐神宮より八幡大神を勧請。延暦16年(797)坂上田村麻呂の奉幣、仁寿元年(851)正六位上の神階叙任を伝えます。鎮座地の綴子の地名は日本書紀に記される肉入籠が訛って綴子になったと伝えます。古くから宇佐八幡宮・八幡宮と呼ばれており、御神木の千年桂は御神体として永く祀られ、特に子授け・安産・子育て・縁結びの御加護があります。建久2年(1191)比内郡国社崇敬社。弘長2年(1262)以前、当社社家の初代常覚院元瑞道亨が、甲斐源氏浅利侯と共に近江國より派遣され、この地方の鎮護である綴子八幡宮を再興し旧綴子村開村。永禄2年(1559)7家7集落合併し、当八幡山に社殿再建し、以後浅利氏更に佐竹藩主より社領寄進あり。元和元年(1615)神殿建立。慶安元年(1648)内館塾開設。享保15年(1730)藩主の公許を得ます。宝暦7年(1757)現拝殿新築再建。明和9年(1772)神楽殿建立。安永8年(1779)北比内28ヶ村87社の総社となります。文化元年(1804)内館塾本館再建。文化8年(1811)津軽越中守本陣、明治元年戊辰役本陣、その功により藩主褒状・紋付燈籠・五本骨日の丸扇紋付裃を拝領。明治6年9月村社に列し社名を八幡神社と改称。明治14年9月12日明治天皇御巡幸仮行在所となっています。明治43年8月無格社15社を合併し綴子神社と改称。
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国重文指定の胡桃館遺跡の信仰対象の神、田代山神社・七座神社の遥拝所としての機能も古くから持っており、時の武将・鎮将の八幡信仰は非常に篤く、近世には氏子崇敬者の篤い誠心により社殿・境内・諸施設とも整いました。時代を問わず綴子郷中の氏子を始め、旧北秋田地方の総社として篤く深く崇め奉られています。平成21年に鎮座1350年式年大祭奉祝事業を厳粛盛大に斎行。
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本殿内の神殿は元和元年(1648)旧綴子村肝煎である親方高橋八郎兵衛及び総郷中が願主となり所謂おむろとして建立され、御神体はその奥深くに鎮まります。5尺4方と小型なれど千鳥と唐破風が付いた流造でこけら葺き、菊花紋・葵紋入りの総漆塗り。虹梁等の彫刻部分は極彩色の美麗なもので現建造物中では最古。文化9年(1812)本郷庚申講中より神殿おむろの修理塗り替えがなされました。本殿・幣殿は大正11年の造営で11月15日に遷宮祭執行。拝殿は宝暦7年(1757)に再建された後、何度かの改築・修理が施されています。社殿様式は本殿・幣殿・拝殿とつながった権現造、入母屋造りでこの地方では珍しい妻入りです。   
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拝殿向拝。
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扁額には「宇佐八幡宮」とあります。
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拝殿内。
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本殿裏手。
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御神木。
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社号標。
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石灯篭一対(昭和14年1月)。
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手水舎。
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石灯篭一対。
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狛犬一対(昭和8年8月5日)。
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菅江真澄の道・綴子…『文化4年(1807)5月27日修験者般若院英泉の業績を語る(おがらの滝)』
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祭事。
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内館文庫跡。
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『内館文庫跡は、八幡宮綴子神社別当の社家武内氏が営んだ私塾である内館塾にかかわる土地・建物・蔵書及び塾用器物などを含む史跡の総称。この塾は慶安年間(1648-52)に常覚院実明が開設し、享保15年(1730)神宮寺烈光が秋田藩の許可を得たと伝えられる。18世紀には、宮野伊賢・般若院英泉(烈光の弟)などの学者が秋田郡(現在の北秋田郡)北部各地から来た塾生の指導にあたり、塾は明治7年(1874)綴子小学校が創立されるまで続いた。塾舎は文化年間(1804-18)改築の社務所兼長床を中心に、宝暦7年(1757)再建の綴子神社拝殿も臨時教場として使用された。蔵書は、版本・筆写本など合わせて850種、1500巻余に及び、神道・修験道・儒学・仏教・国文・国学・天文・暦学・医学など広範囲にわたり、このうち、英泉の著書は96種、106巻にのぼっている。その他、書箱・机・大硯などの塾用器物も残っている。藩校・郷校などの公的施設が存在しない秋田県では、このような江戸時代の庶民教育施設がまとまって残っているのは貴重である。昭和35年3月1日秋田県指定史跡。』拝殿柱には当時の墨跡が残り当時を偲ばせます。
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千年桂。
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境内ご神木である千年桂は創建当時のものと伝えられており、社殿の無かった当時は御神体として祀られており、元々は千年桂を丸く囲むようにして数社の祠(鬼神社・琴平神社・戸隠神社・雷神社・唐松山神社・相善神社・文玉神社)が建てられていました。
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現在は樹下に大桂神社を祀っており、縁結び・子宝・安産の神とされます。
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旧鷹巣町指定天然記念物。また、境内の古オンコ(イチイ)は初代植樹と伝えられており、樹齢600年余りで桂と共に県内で珍しいものでしたが、現在は焼失して根のみが残っています。
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大桂神社。
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他にも石祠があり狐がおりました。ちなみに秋田県神社庁では末社として戸隠神社、大桂神社、相善神社があると書かれていました。
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さざれ石(大東亜戦争終結70年事業)・太平山三吉碑。
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千年桂・史跡般若院英泉孔雀経出版記念碑標柱。
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般若院佛母孔雀明王経訂正本出版記念碑(鷹巣町指定史跡)。
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『般若院玉峯英泉は、正徳4年(1714)綴子神宮寺家(武内家)14代烈光の三弟として生れる。9歳にして内館塾で学び13歳で学文修行の道に入り、元文元年(1737)久符(秋田)に出て講席に連なり、同5年初めて出国、大和葛城大峰山に入峰、以後全国各地を巡り秘法求道講演に行脚し、延享4年(1747)江戸にて孔雀経(義浄の訳本)を得て講究、宝暦元年(1754)伊勢参宮、白山、出雲、九州英彦山、厳島を経て京都にて醍醐光台院に遊学、その後山形上ノ山に寄宿中「訂正本」の原文を完成させたものである。英泉の訂正本「佛母大孔雀明王経」とは平安時代初期山伏修験道の開祖「役ノ小角」が最も神聖尊重した根本経典で、当時世に流布されていたものの訓古を正したものである。寛政5年(1793)15代神宮寺龍峯代に秋田から県北一帯の浄財で京都から出版され、秋田最初の刊行物とされる。版木本で上、中、下3巻、9000部で経費は時価1千万円以上とされ秋田文化の原点とされている。後年綴子に来往した菅江真澄は、文化4年「雄賀良能多奇」項に般若院の事績を絶讃している。関係の文書、英泉の著書、草稿写本等800点はすべて内館文庫に所蔵する。記念碑の碑文は次のとおり。「佛母孔雀明王経三千部寿命百歳常時共楽龍峯」』
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御神木。
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末社文玉神社・唐松神社。
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文玉神社は本社綴子神社の境内に古くからあるお社であり、八幡大神(応仁天皇)の母君の神功皇后(唐松様)と稲荷神を併せ祀っています。この稲荷神は旧綴子村肝煎高橋家の守護神を移したものとされ、現社殿は平成に新築した田中八幡神社の古い御本殿です。
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庚申塚。羽州街道の要所として栄えた綴子では他国からの往来も盛んで、庚申様の猿田彦神は道の神であることから道祖神信仰と繋がり交通の安全を願ったといいます。
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旧綴子村開村に力を尽くした奈良田喜左エ門の記念碑。由来記…『鎌倉ノ幕臣浅利太郎冠者裔独鈷城主浅利則頼公ハ永正十五年家臣兵具役奈良喜左エ門ヲ綴子ノ鎮將トシテハ八十石ヲ給シ館ヲ築城此ノ地方鎮護ノ神ト産土八幡宮ヲ尊信八十石ヲ寄進セリ。世移り戦国時代慶長三年浅利氏ハ秋田氏の為滅亡奈良氏ハ帰農楢木田ニ隠世子孫僅カニ喜左エ門家ヲ呼稱綴子開拓ノ功労者トシテ七軒廻り、一二数ヘラル。爾来四百年明治ノ世ニ至リ奈良田氏ト改姓初メテ天日ヲ仰グ今茲ニ郷土史研究者七日市村長岐久藏氏ノ調査提唱並ニ奈良田善吉氏ノ盡力ニヨリ其氏族一統ハ由縁ノ地内館八幡宮境内ニ碑ヲ建立シテソノ偉烈ヲ後世ニ傳フモノ也。武内正俊誌』
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地域神社の為に貢献著しかった高橋宇吉郎(高宇家)の記念碑…『秋田縣北秋田郡綴子村長髙君碑。内藤虎■(言+巽)。君諱清敦功字元五郎本郡扇田村人山脇平右衛門之第三子嘉永六年養於本村人髙橋宇吉郎配以其女既嗣家亦襲稱宇吉郎家素足於財君亦善治産富甲一郷性重厚■(糸+真)密平生最効力公事日藩政時已瘻奉命獻資歳戌辰以助軍需受賞明治六年為本村戸長九年■(受+辛)識然以其日常用心郷黨利害之故在村之公職率無虚日前後捐財賑済難可禅數先是君養山本郡二井村人田口氏之子武三郎為嗣使専任村務武三郎為人端正有氣概見義敢為村民信頼馬先歿村民再起君視村事明治三十五年為村長又選為郡會議員益盡瘁焦思新築村衛設村里公産及小學義産之法俾子母利殖以謀久遠晩尤留意教育設勸學義林栽植樹木又繕修道路立防火團之制皆率先投財措辨明治三十一年六月三日遂卒於職距生天保九年三月十一日享年六十有一配髙橋氏先歿生一女以配武三郎生一■曰宇一郎承役君歿巳三年郷人徳之者不衰村會決議建碑紀君行事以■腐朽未文於予予興村人有舊且於君家三世交最 誼不得■(受+辛)乃叙其梗■■以銘曰 潤屋惟富 潤身惟徳 徳澤所及 一郷贍殖 幼者挟冊 壮者力穡 ■舎修整 鶏大蕃息 於若人■ 郷之楷武 明治三十五年六月建 狩野良知毫題 東京樋口敬之書』※自信なし
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「綴子神社鎮座1350年式年大祭記念。一.本榊一本、俳優髙橋克典。平成21年7月16日正式参拝、記念植樹」
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高橋克典…父親(高橋勝司)がゆかりのある人物です。
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津刈ダムの近くに鎮座しています。
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私の地図には虻王権現神社と書いており、虻って珍しい神社だ!って思っていたのですが、実際は蛇王権現神社でした。
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社殿内。由緒等は不明ですが御神体は白蛇であり、弁財天の遣いとして富をもたらし、また、境内に湧いている豊富な水から推測するに水神として祀っているものと考えられます。
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ジュースが射的のように綺麗に並べられています。っていうか両端に何かいる(笑)
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大黒天、恵比寿、布袋尊が酒を酌み交わしているように見える絵馬。
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白龍大神。
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不明の石。
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社殿の裏には池があります。
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水量はかなり豊富です。
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綺麗な水でした。
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池手前の古そうな石祠は稲荷宮。
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池の奥の赤い小祠には石が祀ってあります。
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よく見たら大きな獅子頭でした。
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境内にある石碑。
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久吉大権現と刻みます。紀年銘はありませんでした。
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御祭神は猿田彦命。
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創建年月日不明。蒲田八幡神社の兼務社。百日咳の治癒に御神験あらたかなりとして、古くより土地の人の信仰のあつい神社。猿田彦神は、道案内の神であり、道陸神と言われ、道祖神(塞の神、障の神)と習合して村の境を守る関の神となり、更に咳の神と信仰されるようになったものと思われます。風邪をひき、咳が出るとき、額堂に懸かっている麻を戴き首に巻きます。治ると麻を2倍にして額堂に納めて感謝します。なお、昭和62年に新しい神殿が造られています。
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除病習俗(大田区文化財)…『風邪、百日咳、喘息等にかかると、境内の額堂に奉納されている麻を借り受けて、病人の首に巻くと咳が止まると言い伝えられ、病気が治ると、祈願者は新しい麻を奉納するという現世利益的な習俗が行われている。しかも神社であるのに、祈願者は社前に線香を供えるという神仏混淆の習俗が、今なお存続している例として興味深いものがある。また足の病気が治るよう祈願して、ワラジを奉納するものもあったという。神社の祭神は、猿田彦命とされているが、本来は道祖神(道や旅人を守護する神)をまつったもので、土地の人は「ドウソジンサマ」「ドウロクジンサマ」と呼んできた。昭和49年2月2日指定』
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額堂。後方に麻がかかっています。
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手水舎。
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