くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2016年11月

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社号標裏面碑文…『昭和49年10月24日旧9月10日。国鉄職員32ヶ年勤続記念。青森市議会議員、日本赤十字社金色有功章受章、国鉄功績章受章。佐藤俊勝50才建立。(住所省略)』。
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平成元年記念事業之塔と三内稲荷神社の杜標柱(青指文第15号天然記念物・昭和52年7月1日建設)。
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三内稲荷神社の杜…『三内稲荷神社は五穀豊穣のため建立されたもので、建立年月日は不詳であるが、延宝元年(西暦1673年)に社殿を再建したという記録があり、少なくとも三百年以前から祀られていたと推測される。境内の黒松、銀杏、針桐等でできている社は市内でも有数な古木郡として貴重である。天然記念物三内稲荷神社の杜…黒松四株、銀杏一株、針桐一株。』
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草創年月不詳。御祭神は倉稲魂神。例祭日は5月10日。
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延宝元年(1673)、五穀成就・村中繁栄のため村中にて再建。
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安政2年神社微細書上帖によりますと、油川組三内村稲荷宮1宇、板葺屋根の建坪3尺4方の堂社、萱葺の建坪東西5間南北3間の覆、東西40間南北54間の境内がみえます。明治6年3月三内村八幡宮へ合祀するも同8年2月復社、同9年12月村社。
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『津軽俗説選』によりますと『外が浜に近き油川組三内は、野も山も一面の桜にして、花盛りの砌りは吉野の出店かと思はるる佳境なり』『上三内、下三内とて二区あり、何れも桜林也』とあります。
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また、菅江真澄が三内の桜を見るために訪れています。『すみかの山』より…『(前略)三内村にきた。稲荷、誉田の御神をあわせてまつっている社があった。道をいささか行くと、向三内、またの名を小三内ともいうところがある。ここにも稲荷の社があって、境内の桜が高い枝にひらいていた。大三内、小三内の花は、すべてふつう世間にある桜と似ていない。一本の木に二枝三枝、ささやかに茂って、花に花の寄生があるようで、またとたぐいのないものである。たいそうちいさい花がびっしりと生いたって、この小桜にも小枝がまりのようにさしこんでいて、枝ぶりはみなおなじであった。人に尋ねると、「これが名高い三内の千本桜といって、またと他にない桜である。天明三、四年の凶作の前までは、吉野は別として、ひろい世の中にも、このようにみごとな桜花のあるところはなかろうと、わが住む郷里ながら、花の咲くころは誇りにしていたが、荒廃した世情のために薪にきられてしまい、いまは桜花の木も残りすくなくなってしまったが、若木もひこばえもたいそう多いから、十年も過ぎたならば、むかしの春のころのように栄えることだろう」と、案内してくれた村長が語った。「神の祟りがなければ、この花の一枝を」というと、なんの祟りがあろうかという顔で、おしげもなく手折ってくれた。』
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菅江真澄が書いてる「稲荷、誉田の御神をあわせてまつっている社」は三内八幡宮のことでしょう。向三内(小三内)の正一位稲荷宮(創建不詳・享和3年寺社領分限帳及び安政2年神社書上帳)については調査中。当稲荷神社がその正一位稲荷宮と考えるのが妥当な気がしますが、文献には「地内沢部に正徳4年の勧請という八幡宮、地内丸山に延宝元年の再建という稲荷社がある。また、向三内(小三内)に正一位稲荷宮があった」と書かれています。地内丸山は再建年から当稲荷神社。向三内の稲荷宮は過去形ですね。また、菅江の「あわせてまつっている」という言葉も気になるところです。ちなみに比較的近郊にある稲荷神社としては安田字近野の浪館稲荷神社があります。なお、他に三内村には馬頭観音を祀る惣染堂がありましたが明治初年の神仏分離によって廃堂となっています。
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石灯篭一対。
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猿田彦大神(元治2年3月吉日)。
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末社。
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石などが祀られていました。
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三内稲荷神社の杜。
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千曳神社参道への案内板・標柱などが四方八方至るところに立っています。
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旧奥州街道の間道から向かうと追分石がありました。
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「千曳神社 右千曳岩 左野辺地」とあります。紀年銘は弘化紀乙巳年(2年)6月15日。
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案内板より…『奥州街道追分石。奥州街道には幾つかの間道があり、その分岐点に標識としての追分石が設けられた。この間道は、中野、坪、柳平、尾山頭を経て野辺地へ入る近道であるが、正保4年(1647年)の「南部領内総絵図」に描かれ、既に存在していたことがわかる。弘化2年(1845年)建立されたこの追分石の壁面には「右 千曳道」「左 野辺地道」とあるが、中心部に「千曳神社」と刻まれていることから信仰心と深く結びついていることが伺える。平成16年12月30日天間林村教育委員会』
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追分石から旧道を少し進むと右手に鳥居が見えました。
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鳥居左の社号標。
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裏面には「紀元2600年記念として大鳥居建築ス」とあります。紀年銘は昭和16年旧6月13日。
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鳥居右の社号標。
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千曳大明神とあるのでより古いものです。
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紀年銘は文政7年旧6月10日。
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さて、千曳神社の現住所は七戸町菩提木。合併前の住所は天間林村天間舘字菩提木。坪川の上流の通称尾山頭の東に鎮座し、国誌などによれば尾山頭の千曳宮と見えます。尾山頭は野辺地代官所の飛地。延宝年間火災にて縁起焼失。当時の別当は喬岩坊で五戸年中行事多門院の支配下にありました。宝暦項の 「御領分社堂」 には千曳明神・別当善行院とあります。次いで神道家、愛染坊の霞場へと支配者は変わりました。
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天明8年に巡見使が代参。寛政年間の「邦内郷村誌」には尾山頭が野辺地村の支村であったため野辺地村の項に千曳宮とあります。又同書では七戸村に千曳明神ありと伝承を述べています。俚俗云白明神ハ石ノ精ニテ美男ニナル壺子トイヘル女に通フ、云々とあり女の居所を壺村ト云・此村天間舘村ノ小名ナリとあり、千曳石は当社に埋めたと伝えられます。寛政4年、七戸城代の七戸重政(重信)公が詣でて歌を詠んでいます…『音にきく千曳石の跡しめてけふ陸奥のむかしをそ思ふ』、『物いは々宮居の松にふしまして千引にたゆまむ石の心を』。なお、現在は花松神社の兼務社となっています。
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由緒…『●鎮座地:天間林村大字天間舘字菩提木56番地2。●本社:南向1間4方柾葺 佐屋 拝殿 東西3間南北9尺本社に向ふ 鳥居11基 石燈籠1座 狛犬2頭。●祭神:塞の神、八衢彦神、八衢姫命。●御縁日:4月3日 9月29日。●御祭礼:6月15日(いずれも旧暦)。●本社は大同2年(807)坂上田村麻呂の創祀と伝えられる。山伏修験道本山派五戸多門院の配下、上北郡横浜八幡別当大光院の霞に属したが、一時花巻の神官稲田遠江の支配に属したこともあった。江戸時代には、幕府巡見使の参拝所であり、南部領では巡路第一の地であった。それ故に巡見使通行の節、見苦しきため、取り毀し仮社としていたが、明和2年(1765)再興した。古くから「日本中央」と刻んだ「壷の石文」を建てたという伝説があって、これを尋ねた和歌や紀行文が多いことで知られている。「名にし負う千曳の石にあとしめて動きなき世と神や守らむ」南部重信。「たのめぞや今世の身かは後の世もなほやすかれと道行の神」遊行上人。「石文の跡をさぐりて思はずも千歳の檜葉に逢ひにける哉」大町桂月』
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古川古松軒は『東遊雑記』にて「千引明神の社、二間に三間、桧皮の屋根にて其うへに草葺の素屋をなしてあり。其地ひょうびようとせし平地にて、諸木の森凡方百間余、神さびて至て殊勝の所なり、千引の森と称せるは是なり。神主は教岩坊といふ山伏にて少しく除地有て古へよりの御巡見所也。山伏を召され、古来の事を御尋ありしかども、一字不通の文盲人にて委しからず。彼の家に代々伝ふることには神代の時に石の札を立て、其石を限りに北方の国より渡り来る鬼をば追返せし事なるに、悪鬼の来りて其の石を土中ヘ深く隠せしを、神々達の集りさがし出し給ひし所こそ石文村にて、其石を建し所は坪村にて有しを、坂上田村丸来り給ひ、鬼を残りなく殺し給ふ故に、此石は無用とて此所を七尺掘て埋め給ひ、其上に社を建立なされし事にて、其石を坪村より是迄引とるに人数千人にて引しを以て千引大明神と申なり。」と記しています(天明8年8月25日)。
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千曳岩、千引大明神といえば、古事記ですね。黄泉国には出入口が存在し、黄泉比良坂といい、葦原中国と繋がっているとされます。伊邪那岐命は亡くなった妻の伊邪那美命を追ってこの道を通り、黄泉国に入ります。変わり果てた伊邪那美命の姿を目撃した伊邪那岐命が、黄泉国から逃げ帰る場面において、追いすがる妻や手下の黄泉の醜女たちを退けるため、最後に黄泉路を塞いだ大石を道反大神といいますが、この大石は千人の力でしか動かせない千曳岩であり、これをもって悪霊の出入りを禁じました。
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当千曳神社にも千人の力で石を引き、神社の地下に埋めたという伝説があり、明治9年(1876)の明治天皇東北巡幸の際には宮内庁が青森県に依頼して神社の下を発掘調査させており、木戸孝充(桂小五郎)も発掘現場に視察に訪れていますが、結局何も出てきませんでした。
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このように当神社を語る上で「日本中央」と刻んだ「壷の石文」に触れないわけにはいかないのですが、この「壷の石文」には数多くの伝説が残されています。また、石碑は神社から程近い「日本中央の碑歴史公園」の日本中央の碑保存館にあり、県道8号線の千曳駅から少し南下した付近に「日本中央の碑発見地」もあります。詳細は以下の記事を参照ください。
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『青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)』に次のような記述があります…『千曳明神は、大きな石を祭ったものである。明神様は坪村(天間林村坪)の、つぼ子という美しい娘のもとに、毎夜通っていた。ある夜、つぼ子に初めて千曳の石の精だと告げ、「あす、村では私を土中に埋めることになった。しかし、他人の手で引かれてもけっして動くまい。必ずおまえの手で引いてくれ」と頼んだ。果たしてあくる日、村人たちが千曳の大石を引いて行こうとしたが、どうしても動かない。神のお告げで、つぼ子がよび出され、彼女が石にかけた綱を引くと、さしもの大石もやすやすと引かれた。村人はこれを埋めて、千曳明神として祭ったのである。ここにも田村麻呂伝説がある。将軍が千曳の山にこもる蝦夷を攻めたとき、飲み水に困った。そこでご幣をささげて神に祈りながら、馬の鞭を地上に突き立てると、そこに清水が湧き出たという。将軍井戸とも、ご幣清水ともよんでいる。』
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社殿内。
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本殿。
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本殿蟇股(ウサギ2羽)・木鼻。
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本殿前の棟札には「修造千曳大明神・昭和52年11月13日」「修造正一位千曳稲荷大明神・昭和29年4月10日修造・昭和35年9月15日修築・昭和48年10月10日(旧9月15日)家根修繕」とありました。1つは末社のものかと思われます。
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千曳大明神の神額。古そうですが紀年銘はありませんでした。
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鳥瞰図。
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社殿内の由緒は神社入口にあったものと同じでした。
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『明治政府が探した謎の石』『垠界の魔方陣』『鬼追い返す「石の札」は「蓋」』『北東北に眠る平安の謎をひもとく』と題された千引の石の謎の記事(デーリー東北掲載記事・2009年7月2日)が社殿内に貼ってありました。反射してよく見えませんでしたが。
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その他の奉納絵馬など。
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参道狛犬一対。
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参道石燈籠一対(昭和15年11月25日)。
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倒れそうな御神木。
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手水鉢と千曳神社と彫られた碑。
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社殿前石燈籠一対(弘化2年6月15日)。
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手水舎。
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社殿狛犬一対(元禄11年)。香取某平さんの話では新しく造った狛犬とのこと。私が調べたところでは、元禄11年(1698)に桧山運商人野坂屋与次兵衛によって狛犬一対が寄進されている記録が残されており、これがその狛犬かと思ったのですが確かに元禄のものとは思えず…。これが新しいものだとして、以前の元禄11年奉納の狛犬はどこにいったのでしょうか?なぜ新しい狛犬にわざわざ元禄11年の紀年銘を残したのでしょうか?色々と疑問が残るところです。
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津軽にいると南部の史料に乏しく、これ以上調べることはできませんでしたが、いずれにしましてもその経緯に関しましては、当時の野辺地の廻船問屋の興隆ぶりが伺えるものだと思います。
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末社。小祠が3つありましたが、いずれも空っぽでした。
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境内の横に遊歩道。
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千曳神社の鎮守の杜を含めたこの近郊の森を散策できるようです。
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日本中央の碑歴史公園。無料でございます。
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古くは平安時代末期の藤原顕昭という歌人が『袖中抄』にて、陸奥の奥のつぼのいしぶみは征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷討伐の際に、弓弭で石面に日本の中央と書いた石文であり、千島列島までを日本とするならばここが日本の中央といえるといった旨の文を残しています。明治9年(1876)の明治天皇東北巡幸の際には宮内庁が青森県に依頼して千曳神社の下を発掘調査させており、木戸孝充(桂小五郎)も発掘現場に視察に訪れています。結果として神社の下からは何も発掘されませんでした。
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ところが昭和24年6月21日、千曳在住の川村種吉が石文集落近くの赤川上流で「日本中央」と刻まれた石碑(高さ約1.5、幅約80cmほどの自然石)を発見(「日本中央の碑発見地」参照)。この日本中央の碑は賛否両論あり、「文字が稚拙」、「史実として坂上田村麻呂が現地に到達した伝承がなり」、「そもそもこの地が日本の中央でない」、一方で「日本という名前を蝦夷の土地に使用した例から蝦夷の土地の中央である」、「津軽の安藤氏も日之本将軍を自称し、それが天皇にも認められていた」、「豊臣秀吉の手紙で奥州を日本と表現した例がある」などの意見もあり、石碑の鑑定も謎のままです。
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つぼのいしぶみに関する文献はたくさんありますが有名なところで、三輪秀福『旧蹟遺文』(文化3年)、大巻秀詮『邦内郷村志』(享和元年)、岸俊武『新撰陸奥田誌』(明治5年)なども参照してみてください。っていうか『天間林村史』を参照した方が早いです。
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日本中央の碑(つぼのいしぶみの由来)…『この日本中央の碑は、昭和24年6月21日、当町(当時甲地村)の石文集落近くの赤川上流で、千曳の川村種吉氏により発見された。古歌に詠まれた名所を歌枕と言うが、数ある歌枕の中で「つぼのいしぶみ」ほど、好事家の話題にのぼったものはない。このつぼのいしぶみを初めて解説したのは、歌学者顕昭(西暦1130年頃-1210年頃)である。その著「袖中抄」に、「(前略)顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有り。日本のはてと云り。但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり。其所をつぼと云也。(後略)」と書かれている。但し、田村麻呂の陸奥下向は盛岡市近辺の志波城までであってそれより北に及んでいない。田村麻呂に続いて、征夷将軍となったのは文室綿麻呂である。綿麻呂は弘仁2年(811年)に都母村に進撃している。「袖中抄」に書かれている事を当てはめるならば、石に日本中央の文字を刻んだのは綿麻呂ということになるであろう。なお、「日本中央」の「日本」は、ひのもとと訓じて東北地方を指す言葉であったと思われ、そこから先は中央政府の支配の及ばない地、それが日本であり、政府の威令が浸透するとともに、日本の地域もしだいに、狭められる事になる。従って、この「いしぶみ」は東北の古代史を物語るものである。平成7年4月東北町教育委員会』
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日本中央の碑関連年表。
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石があるだけかと思ったのですが、館内には結構色々な資料があって面白かったです!
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東北町文化財指定書「つぼのいしぶみ」(平成元年12月7日)。
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棟方志功「日本中央の碑の柵」(昭和48年・板画白黒金彩色)。
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古代の城柵・官衛遺跡。
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東遊雑紀。
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東奥紀行。
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袖中妙(文治年間・藤原顕昭)。
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多賀城碑の拓本縮尺版(2分の1)。
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日本中央の碑が建立されたと思われる時期(平安時代)の出土品。
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東奥日報の記事(中央句碑除幕記念講演・金子兜太氏)…『「奥の細道」の中に、岩手県の平泉を後に「南部道遙にみやりて」という言葉がある。しかし芭蕉は、その南部道を歩かないで、鳴子を経て、山刀伐峠を越えて山形県・出羽の国に出る。芭蕉が「南部道遙に…」と言ったのは、南部を歩きたい、津軽まで行ってみたい、と思っていたのではないだろうか。芭蕉は松島から後、道に迷って、歌枕を遠目に見ながら立ち寄ることもならず、迷いながら石巻にたどり着いた、という記述になっている。いろいろと歌枕が出てくるが、そのかなりのものは、青森県にあるのが本当であって、宮城県にはない。では、芭蕉が陸奥に来たという前提で、一体芭蕉はどういう所を見て、どういう考えを持っていたのか-とNHKの仕事で小松方正氏と平成元年六月、芭蕉が来ていたら必ず訪ねたであろう本物の歌枕を歩いた。坪の石文(壺の碑=つぼのいしぶみ)、尾駮の牧、外ケ浜…。とくに坪の石文に感動した。石文が発見された雑木林の中の空き地の一帯で、私は何となく、霊気を感じた。去年の夏だったか、今度は「壺の碑」といわれる多賀城碑を拝見した。が、あの迫るような気分がない。普通の碑で、多賀城のいわれを書いているだけで本物の壺の碑とは思えなかった。大胆だが、東北町にある「日本中央の碑」が本当の壺の碑ではないかと思う。芭蕉だって分かっていたんだろう。だからむしろ、本物の壺の碑を見たくて「南部道遥に…」と言った、と思う。しかし、ここの坪の石文も「日本中央の碑」といった方がはるかに実感があり迫力がある。この土地には太陽信仰があったとも聞いている。日本中央の日本は「日の本」-日いづる地であるという考え方が、古代以来の牢乎とした陸奥の国への受け取り方ではなかったか。また、歌枕として、地理的事情ばかりではなくて風土からくる受け取り方、これを前提に置かなくてはならない。ではなぜ東の端なのに中央なのか。例えば竜飛の義経寺に立つと、海峡からさらに北海道が見える。ここは日いづる地に違いないが、日いづる地の東端ではない、真ん中だ-こんな感覚を古代の人が持ったとしても不思議はない。言葉に魂がある-言霊という言葉がある。別れに和歌を書くとき、言霊の働きを信じて作っている和歌が多い、と学者は言う。私は、言霊と同じように物にも魂があり、物霊という言い方もできると思う。日本中央の碑は魂を持っていて、多くの人はそれに救われ、支えられている。自然の物に人間が深く共感を持ってかかわったときに宿される魂-この物霊の働きを感じるのである。芭蕉は、地名と人々の思いが重なり合った言葉、その地を探ることによって自分の心身が肥やされるということを承知していた。日本中央と書かれたあの素朴な碑を芭蕉が見たとき、どんな感動をしただろうか…芭蕉が生きていたら聞いてみたい』。
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翁会(七戸町)写真(槙泰造(苔石)・高橋三松・福士進・石田善兵衛)。
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その他諸々。
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館内の外は公園となっているようです。いくつかの石碑がありました。
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金子兜太句碑…『日本中央とあり大手鞠小手鞠』(平成6年11月1日建立)。
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近藤芳美句碑…『「日本中央」とてみちのくに碑を残す壺の石ぶみ何かを知らず』(平成8年11月30日建立)。
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大町桂月句碑…『よしや今石文なくもつぼの里ますらたけをの忍ばるる哉』(大町桂月来遊77周年及び日本中央の碑歴史公園開園7周年記念・平成14年10月4日)。
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西行句碑…『みちのくの奥ゆかしきぞ思ほゆる壺の石ぶみそとの浜風』・顕昭句碑…『思ひこそ千島の奥を隔てねどえぞかよはさぬつぼのいしぶみ』。
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源頼朝句碑…『みちのくのいはで忍はえぞ知らぬ書き尽くしてよつぼの石ぶみ』・阿仏尼句碑…『みちのくのつぼのいしぶみかき絶えて遙けき中となりにけるかな』。
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