くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2016年10月

イメージ 1
はまなすラインを北上していると蟹田地域で右手に鳥居と社殿が見えます。由緒等はわかりませんが蟹田地区の産土神として崇敬されているものと思われます。ちなみに『北奥道中図部分』(江戸時代)には木明・古明・明前・蟹田・有戸に神社が見えません。
イメージ 2
イメージ 3
神社はすぐ目の前なのですが小川があり渡れません(笑)
イメージ 4
ジャンプして行けそうな場所もありますが…やめておきます。参道正面に橋みたいなものもありますが…
イメージ 5
これってどうやって渡るの?(笑)謎の橋。少し足をかけてみたらグラグラしました。危険です。
イメージ 6
イメージ 3
イメージ 2

イメージ 21
羽田大鳥居と言った方がわかりやすいかも知れません。
イメージ 20
立派な明神鳥居です。
イメージ 19
額束には「平和」とあります。
イメージ 18
『この大鳥居は、穴守稲荷神社がまだ羽田穴守町にあった昭和初期に、その参道に寄付により建立されたと伝えられています。その後、終戦とともに進駐した米軍により、羽田穴守町、羽田鈴木町、羽田江戸見町の地域一帯に居住していた人々は強制退去され、建物は全て取り壊されました。しかしながら、この大鳥居だけは取り壊しを免れて羽田の地に残され、往時を物語る唯一の建造物となりました。米軍から、施設が日本に返還された昭和27年7月、東京国際空港として再出発した後も、この大鳥居は旅客ターミナルビル前面の駐車場の一隅に残され、羽田空港の大鳥居として航空旅客や空港に働く人々に親しまれました。また、歳月を重ね風雪に耐えた大鳥居は、進駐軍に強制退去された元住民の方々の「心のふるさと」として往時を偲ぶ象徴なりました。昭和59年に着手された東京国際空港沖合展開事業により、滑走路や旅客ターミナルビル等の空港施設が沖合地区に移設され、大鳥居も新B滑走路の整備の障害となることから、撤去を余儀なくされることとなりました。しかしながら、元住民だった多くの方々から大鳥居を残してほしいとの声が日増しに強まり、平成11年2月、国と空港関係企業の協力の下で、この地に移設されたものです。ここに関係各位に謝意を表するとともに、この大鳥居が地域と空港の共生のシンボルとして末永く親しまれることを念願する次第です。』
イメージ 17
氏神・鈴木弥五右衛門(奉納記念碑)…『偉業の大地の由来と歴史(文化12年)1815年。江戸時代に猟師町の名主鈴木弥五右衛門が羽田村名主石井四郎右衛門に折衝し譲り受け羽田漁師町請負新田として幕府に願い出て干拓の許可を得たものです。浅瀬の要島を中心として新田開発が始められ羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町の三つの町が生まれました。昭和20年9月21日強制立ち退きを命じられた3千人の銘々を記す。強制立ち退きで住む町を追いやられた。弁天橋を渡る母子の銅像。』
イメージ 14
イメージ 15
イメージ 16
銅像…キョロ(・.・ )( ・.・) キョロ
イメージ 13
辨天橋。
イメージ 12
大鳥居前の海老取川に架かっています。
イメージ 11
明治時代の海老取川は歩いて渡れるほどの浅瀬で、その名の通りエビを獲った場所であることに由来します。ちなみに現在の海老取川の下には羽田トンネル(鉄道)が通っています。
イメージ 10
この辨天橋がなかなか面白かったです。
イメージ 9
橋を渡るだけで海苔作りの行程を勉強することができます。
イメージ 5
イメージ 6
イメージ 7
イメージ 8
辨天橋を渡った先にあった建物。
イメージ 4
妙力地蔵尊とありました。
イメージ 3
堂内。
イメージ 2
個性的かつ立派なものでした。
イメージ 1
イメージ 3
イメージ 2

イメージ 21
県道243号線沿いにあります。当時の津軽軍本道隊進路。
イメージ 20
ちなみに紹介することはないと思うのでここで述べておきますが、ここから程近い街道沿い(馬門)には小さな神社がありました。私が見たのは恐らく家ノ上の「ナカの稲荷」。高い所にあって登れませんでした。
イメージ 22
調べたところによりますと、馬門には5つの稲荷様があるといいます。馬門地区を3つに分け、それぞれの地区で「カミ・ナカ・シモ」の稲荷を大正7年頃より祀っています。その他横山稲荷(横山幸治家)やカバタ稲荷(カバタ横浜家・横浜博家)があります。余談でした。
イメージ 17
イメージ 18
イメージ 19
野辺地戦争戦死者墓所。
イメージ 16
野辺地戦争戦死者の墓所…『京都の鳥羽・伏見において始まった戊辰戦争は、やがて全国を巻き込む内戦となった。東北地方の諸藩は、官軍に対抗して奥羽越列藩同盟を結成したが、各藩の思惑は一致せず、秋田藩・弘前藩などは、その後官軍支持に立場を変えた。明治元年(1868)9月22日夜半、弘前藩の軍勢約180人が突如南部領に侵攻した。本道を通った一隊は藩境の村、馬門に火を放ち野辺地村に迫った。他の一隊は、山道を通り野辺地村の代官所をめざした。藩境の防衛にあたっていた盛岡藩・八戸藩連合軍は、これに応戦し銃撃を加えた。夜明けまで続いた戦いの後、弘前藩の軍勢は40余人の死傷者を出し敗走した。この頃、東北地方の戦乱もようやく終結しようとしていた。江戸幕府支持を続けた盛岡藩は、その後伊達領白石に転封された。野辺地戦争の翌年、弘前藩は戦死者27人の名を刻んだ墓石4基をこの地に建てた。明治維新における本県の歴史を伝える貴重な史跡である。平成元年11月野辺地教育委員会』
イメージ 15
野辺地戦争戦況図(明治元年9月23日早朝)。
イメージ 14
『明治元年(1868)9月22日夜半、小湊に集結していた津軽軍約180人は野辺地を夜襲しました。津軽軍の作戦は、隊を3隊に分け同時に野辺地を挟撃するというものでした。街道沿いに進んだ一隊は、馬門村に火を放ちさらに野辺地村に向けて進攻しましたが、笹舘から大橋付近まで軍を配置した南部軍と川をはさんで銃撃戦となりました。津軽軍はいったんは大橋を渡りますが八戸隊をはじめとする南部軍の反撃をうけ退却しました。一方、山道を通った一隊は、雨のため予定の時刻よりやや遅れて観音林付近に到着し野辺地代官所を砲撃しましたが、代官所付近の高台に配置された南部軍の銃撃をうけることとなりました。遊軍として本道隊と山道隊の間を進んだ一隊は、夜間の山中で道に迷い、ついに戦いに参加することはできませんでした。戦いは翌朝の明け方まで続きましたが、地形状有利な場所に位置した南部軍の反撃を受けた津軽軍は多くの死傷者を出し敗走しました。墓石は、この戦いの翌年に弘前藩によって建てられたもので、戦死した津軽軍の兵士のうち27人の名を刻んでいます。』
イメージ 13
山田要之進楯雄
田中又蔵正心
山川啓吉清高
山内直吉永儀
小野政之助但正
井関運八祐綱
イメージ 10
イメージ 11
イメージ 12
土岐貫貞豪
高木孫市正矩
佐々木豹次郎貞之
佐々木良作久勝
山中重次郎泰坦
成田忠次郎武邑
イメージ 7
イメージ 8
イメージ 9
大川豊太郎利清
佐野左吉芳成 
今銀作利宗
竹村長太郎友之
大川元太郎行忠
粂田巳八隆文
柏原村 文作
松森村 清蔵
イメージ 4
イメージ 5
イメージ 6
小嶋左近貞邦
谷口永吉貞光
中田盛弥産紀
工藤岩吉久清
森山勝三郎安久
羽賀多吉定英
成田清太郎正勝
イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3
イメージ 3
イメージ 2

↑このページのトップヘ