くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2016年07月

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浄土宗 大本山 三縁山 広度院 増上寺。
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三縁山広度院増上寺…『浄土宗七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称です。開山は明徳4年(1393)、浄土宗第八祖酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。江戸時代初期、増上寺法主第十二世源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護を受けました。慶長3年(1598)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。その規模は、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。現在でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵しています。』
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三解脱門…『慶長16年(1611)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中井大和守正清によって建立され、元和8年(1622)に再建されました。この門は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。三解脱門は、別名「三門」と呼ばれ、三つの煩悩「貪欲(とんよく・むさぼり)、瞋恚(しんに・いかり)、愚知(ぐち・おろかさ)」の三悪を解脱する悟りの境地を表しています。建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさを見せています。その大きさは、間口十間余(約19m)奥行五間(約9m)高さ七丈(約21m)の二重建て構造。さらに左右には三間(約5.4m)の山廊を有しています。上層部(楼上)内部には、中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅鑑像が安置されています。』
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グラント松。
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グラント松と三解脱門。
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グラント松…『米国第18代大統領グラント将軍は明治12年7月国賓として日本を訪れ、増上寺に参詣し記念としてこの樹を植えました。』
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仏足石。
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仏足石側面。
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仏足石…『仏足石は仏の足のうらの形(千輻輪相)を石に彫りつけたもの、インドでは仏像が刻まれる以前は仏足石や菩提樹などで釈尊を象徴的にあわらし、人々はこれらを仏として礼拝した。この仏足石は、当山第70世福田行誡上人の代、山内宝松院松涛泰成上人の発願により明治14年5月に建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれている。』
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聖観世音菩薩。ホテルニュージャパン罹災者のみたまとこしえに安からんことをお祈りして(昭和62年・ホテルニュージャパン取締役社長)。
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魚供養之碑。
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魚供養之碑…『魚がしに会社を起こし、水産物を商って37年ひたすら業界の発展と社会への貢献を志し、困難を克服して現在に至った足跡を顧みるとき、感慨ひとしお無量なるものがある。今日あるは、水産物とりわけ魚類のおかげであることに思いをいたし、深い感謝をこめて、ここに魚供養碑を建立するものである。願わくは、生業を同じくする人々よ、しばし歩みをここにとどめ、彼らのために感謝の祈りを捧げられんことを。昭和60年3月8日千代田水産株式会社』
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ブッシュ槙(コウヤマキ)。
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ブッシュ槙(コウヤマキ)…『米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として昭和57年4月24日来日の際、増上寺に参詣し、記念としてこの樹をお手植されました。』
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浄土宗吉水講碑(詠唱発祥の地)。
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桜200本、さつき2000株奉納碑(昭和55年4月吉日・永谷園本舗殿)。
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水盤舎。
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水盤舎…『この水盤舎は清揚院殿(徳川家三代将軍家光公三男甲府宰相綱重公)の霊廟にありましたが、明治時代の解体・昭和の空襲を逃れ、現在地に移築されました。徳川将軍家霊廟建築を伝える数少ない遺構のひとつです。』
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水盤舎(標柱より)…『元は清揚院殿(三代将軍徳川家光の三男・六代将軍徳川家宣の父、甲府宰相綱重)の御霊屋にあった建物です。綱重は、延宝6年(1678)に逝去し、初め小石川伝通院に埋葬され、家宣の代に増上寺に改葬されました。御霊屋は増上寺本堂裏手に営まれていましたが、昭和20年(1945)の東京大空襲により他の御霊屋の建物とともにそのほとんどが焼失しました。この水盤舎は綱重の御霊屋建築の内、現存する唯一の建物であるとともに、徳川家霊廟の建造物として現存する数少ない遺構として貴重なものです。平成13年2月14日港区文化財総合目録登録』
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水盤舎横の石燈籠など。
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鐘楼堂。
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鐘楼堂…『慶長10年(1633)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。納められている大梵鐘は、延宝元年(1673)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。徳川四代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され、7回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘の一つに数えられ、東日本では最大級として知られています。その大きさ、高さ一丈(約3m)重さ四千貫(約15t)の大鐘です。その鐘の音は、時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います。江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ、江戸庶民に親しまれてきました。』
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増上寺の梵鐘(標柱より)…『高さ八尺(龍頭を入れると十尺、約3.3m)、径五尺八寸、重さ四千貫(約15t)といわれ、江戸時代の梵鐘としては東日本最大といわれています。椎名伊予吉寛が品川の御殿山で鋳造したもので、延宝7年(1673)に7回目の鋳造で完成したといわれます。その音も大きく、「江戸中へ七分通りは響くなり」などと川柳でよまれました。増上寺の南西には九州の有馬や島津の藩邸があったため「西国の果てまで響く芝の鐘」「てもさても諸国へ響く芝の鐘」などの句もあり、当時の江戸の人々の自慢も、実感を伴っていたことがうかがわれます。平成4年3月30日』
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梵鐘。
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寫経塔。
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聖鋏観音像。
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聖鋏観音縁起…『この聖鋏観音像は、昭和56年8月3日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって、大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。願主の一生がハサミに支えられ、お陰によって生かされたことへの深い感謝と、ハサミの中にみる己れを滅して他を整え美しくす働きを、観音様と拝む心とによって聖鋏観音像造立を発願。併せて美容はもとより、ハサミにかかわりのあるすべての人々の心の依り処となり、お守りとなるよう願われて奉造された。聖鋏観音像は、彫刻界の長老北村西望氏の制作である。毎年8月3日を「ハサミの日」と定め、この世におけるつとめを果たし終えたハサミをあつめてこの塚に納め、ハサミ供養法要が厳修される。ハサミは観音菩薩の御手そのものである。』
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阿波丸事件殉難者之碑。
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め組殉職者供養碑。
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弔魂之碑(明治11年)。西南の役で戦死した看護卒の供養碑。
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筆塚。
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筆塚(心と創造)…『学びの精神はいつの時でも人を育み、人とともに歩んでいきます。その歩みの中で心豊かに、それぞれの人生を創造していきます。学びとは心の糧であり創造の源です。努力と研鑚、勇気と希望、自信と志の象徴です。碑に刻まれた「心と創造」が、明日へ歩む子どもたちの人生の標となるよう、ここに努力の軌跡を残し、今、感謝の気持ちを込めて、学び具を奉納します。子どもたちへ「学べよ 努めよ 今がその時です」平成16年2月吉日練成会グループ』
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蘇鉄と三波石。
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法然上人歌碑。
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お歌の由来…『「池の水ひとのこころに似たりけりにごりすむことさだめなければ」。法然上人の御作、変わりやすい人の心を池の水にたとえてお歌に示されたものである。寄贈千代田水産株式会社』
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法然上人歌碑。
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お歌の由来…『「月かげのいたらぬ里はなけれどもながむる人のこころにぞすむ」。観無量寿経に説く「光明は遍く十方世界を照して念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」の意を法然上人がお歌に示されたものである。浄土宗の宗歌になっている。寄贈千代田水産株式会社』
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勢至丸像。
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故長谷川一夫丈遺愛の桜碑。
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江戸彼岸枝垂桜奉納碑(為豊島泰三追善菩提・平成6年3月吉日・㈱牧野総本店豊島文子)。
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しだれ桜二本奉納碑(為鳳翔院髙譽徳成武翁居士・昭和55年4月吉日・犬飼ひさ子、服部ふみ子)。
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大殿と東京タワー。
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大殿。
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昭和49年、浄土宗大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な設計と意匠で、戦災に遭い焼失した本堂が再建されました。
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首都圏では最大級の御堂。本堂のご本尊阿弥陀如来(室町期製作)は、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される方々の厚い信仰を集めています。
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大殿から見た三解脱門。
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安国殿。
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安国殿と黒本尊…『この建物は、徳川家康公の法号「安国院殿」からその名をとっています。「安国殿」とは元来家康公の尊像を祀る御霊屋を意味していましたが、戦後の復興に伴う境内堂宇整備の一環として、昭和49年(1974)当時の仮本堂をこの地に移転し、家康公の念持仏として有名な「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名しました。建物の老朽化に伴い、平成23年(2011)法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として家康公が成し遂げた天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い、新たに「安国殿」を建立しました。「黒本尊」は当山の秘仏で、正月、5月、9月の各15日、年3回行われる祈願会の時だけ御開帳されます。また、両脇陣には、家康公肖像画、徳川家位牌、和宮像、聖徳太子像、仏舎利などが祀られており、庶民の信仰の中心として親しまれています。』
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四菩薩像。
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四菩薩像…『正面から普賢菩薩(辰年守本尊)、地蔵菩薩(子育地蔵)、虚空蔵菩薩(丑寅守本尊)、文殊菩薩(卯年守本尊)。もとはこの場所の北西、地蔵山に安置されていた。西向の観音像に対し東向きあった。正嘉2年(1258)の作と伝たえられる古像である。』
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増上寺旧方丈門(黒門)。三解脱門の南側にある門です。
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増上寺方丈の表門であった旧方丈門で、三代将軍家光公の寄進・建立とされ、慶安年間(1648~1652年)の建立とされており、鐘楼堂脇に移築したものを、昭和55年に通用門として現在の場所に移築しています。
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『増上寺(庫裡)の表門であったので方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であったため黒門ともよばれた。四脚門で、建造年代を明らかにする棟札などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す様式から17世紀後半のものと推測される。蟇股には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示している。長年の風蝕のため、古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。昭和55年11月15日』
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土木建築殉職者慰霊塔。
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土木建築殉職者慰霊塔ノ記…『土木建築事業ハ一國文化ノ象徴産業ノ先躯ニシテ厥ノ能ク山岳ヲ貫キ雲閣ヲ築クヤ固ヨリ険ヲ犯シ危キヲ怖レス斯ノ高業ニ從フモノ洵ニ平和ノ戦士トモ謂フベシ而シテ不幸ソノ職ニ殪レシモノ豈ニ其ノ英霊ヲ祀リ其ノ幽魂ヲ慰メスシテ可ナランヤ茲ニ全國同業者ノ寄進ニ依リ慰霊塔ヲ建立シテ永ク其ノ菩提ヲ弔ハントス 昭和12年3月21日日本土木建築請負業聯合會』
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慈雲閣。
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平成元年、増上寺開山・酉誉聖聰上人の550年遠忌記念事業の中心として、戦災で焼失した開山堂の再建を企画、建築されました。二階中央には聖聰上人像、両脇にはその師・聖冏上人像と当山中興の聰観智国師像が安置されています。
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増上寺経蔵。
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増上寺経蔵(東京都指定有形文化財・大正10年4月)…『増上寺は明徳4年(1393)酉誉聖聰により武蔵野国豊島郡貝塚(現千代田区)に浄土宗の正統念仏伝法道場として創建され、慶長3年(1598)現在地に移転しました。同10年から増上寺は幕府により浄土宗教義に基づく本堂・三門・経蔵・表門・方丈・学寮・諸堂などを配置した大伽藍が造営され、やがて徳川将軍家の菩提寺、浄土宗の関東十八壇林の筆頭に就き、浄土宗宗政を総括する総録所となりました。経蔵は慶長10年(1605)に創建され、天和元年(1681)12月に改造移築し、さらに享和2年(1802)6月現地に移しました。構造は土蔵造、白壁仕上げ、一重、屋根宝形瓦葺き、四方に銅板裳階付き、建坪42.24坪(139.66㎡)、軒下高さ21尺(6.36m)。経蔵内部には、中央に軸を立て8面の経巻棚を設け、これに経巻を納め、自由に回転できる八角形の木造輪蔵を安置しています。これには徳川家康が寄進した宋版、元版、高麗版の大蔵経(重要文化財)が格納されています(現在は別に保管されています)。平成22年3月建設』
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光摂殿への階段。
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光摂殿。平成12年に「心を洗い、生きる力を育てる」ための講堂、道場として完成。
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光摂殿と増上寺会館。
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増上寺会館(寺務所)。昭和36年に竣工した増上寺会館の老朽化に伴い、法然上人八百年御忌に向けた境内整備事業の一環として平成11年に建立。 
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境内案内図。
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江戸絵図。
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この他にもまだまだ見所満載でございます…が、フライトの時刻が迫ってきましたのでここまで。
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ニックネームは?
yuki
お住まいの地域は?
日本
出身は?
日本
出没地は?
日本
職業は?
フリーランス
趣味は?
悪い
長所は?
短所は?
自慢できることは?
いくつかある
最近ハマっているものは?
水溜まり
まず家に帰ってすることはなに?
靴を脱ぐ
平均睡眠時間は?
平均までは計ったことがない
ブログの更新頻度は?
特に気にしていない
ブログに何書いてる?
文字
何フェチ?
座右の銘は?
忘れがち
集めてるものは?
熱い視線
Sですか?Mですか?
○○なタイプです
こんなタイプです
好きな食べ物は?
よく噛む
嫌いな食べ物は?
呑み込む
好きなスポーツは?
よく観る
好きな男性タレントは?
IKKOさん
好きな女性タレントは?
IKKOさん
好きなアーティストは?
ザ・ドリフターズ
好きなマンガは?
大人買いする
好きな雑誌は?
立ち読みで済ます
好きな本は?
何度も読む
好きな映画は?
飽きない
好きなテレビ番組は?
稀に見逃す
好きな曲は?
焼いてもらう
好きなゲームは?
はまる
好きなブランドは?
マーロン・ブランド
好きな車は?
人力車
好きな場所は?
春場所
好きな動物は?
焼くより蒸す
好きな休日の過ごし方は?
昼から飲んでいることを仕事中の人に自慢して過ごす
好きな色は?
物色
好きな言葉は?
「いただきます」
好きなタイプは?
着痩せするタイプ
嫌いなタイプは?
豹変するタイプ
一つだけ願いが叶うとしたら?
三つ願いが叶うようにお願いする
何をしている時が幸せ?
他人のうずらの卵を奪って食べる時
どうしてもこれだけは譲れないものは?
財産・自分のうずらの卵
デートでいきたいところは?
自分で決める
宝くじがあたったら?
早めに換金する
尊敬する人は?
尊敬される人
前世はなんだと思う?
宗教的に偏った思想だと思う
世界最後の日、あなたは何をしていますか?
ダイエット
好きなブログは?
マメにチェックする
自分を動物に例えると?
うずら
自分へのご褒美は?
惜しまない
幸せを感じる瞬間
うずらの卵を食べる時
最近一番感動したことは?
ベルリンの壁崩壊
子供の頃なりたかった職業は?
ユーチューバー
ここだけの話
ベルリンの壁を東西ドイツの国境と勘違いしている人が多い
携帯の機種は?
こだわっていない
生まれ変わったら?
楽しむ
今からでも挑戦したいことは?
わんこそば
お弁当に絶対いれて欲しいおかずは?
うずらの卵
今一番欲しいものは?
他人のうずらの卵
○○依存症です
うずらの卵依存症です
あなたにとっての必需品はなに?
うず…水
1ヶ月毎日食べるとしたら何?
うず…ダイエットサプリメントお試し1ヶ月分
好きなアイドルは? 
仲本工事
好きな芸人は? 
仲本工事
好きなスポーツ選手は?
仲本工事
好きなミュージシャンは? 
仲本工事
好きなタレント・著名人は? 
仲本工事
最後に一言どうぞ
だめだこりゃ

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だんぶり=トンボ(津軽弁)らしいです。聞いたことないけど。
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少なくなってきている津軽の生きものを回復させるため子どもたちをはじめ、市民と弘前市が協働でつくった池です。大畑沢と赤沢に挟まれており、様々な生物が集まります。
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トンボやホタルをはじめ、昆虫類はもちろん、植物や鳥なども観察できます。
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ちなみに猿や熊も出るらしいです(笑)
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私が訪れた時はトンボ以上に蛙がいっぱいおり、蛙が苦手な私は悪戦苦闘。足元が蛙だらけで虫探しに集中できません。蛙の種類の方が多いんじゃない!?
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だんぶり森。正面はサナエロード。
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今年は熊出没ニュースが多いので遠慮しておきました。
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ルリボシ池。
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水色のイトトンボだらけでした。
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季節が変わればまた色々なトンボが見れるんでしょうけど。
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ヤンマロード付近。蛙ばかりだったけど(笑)
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カナコ萢(湿原性の生き物の為の低水温湿原)。
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ウルメ池(温水田の機能をもたせた水深の深い池を好む生き物の為の池。中島を配置)。
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だんぶり島の池。
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ヤナギ堰(流水を好む生き物の為の小川。休耕田の半分はヤナギを残し、流路の半分はヤナギの林の中を流れる)、ゲンジ萢、ヘイケ萢(温まった水の湿原。半分はヤナギの林)。
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もっけ萢とハラビロ萢(温まった水の湿原・湿地)。
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なんだこいつ!?ガガンボ?
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気持ち悪い(笑)
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案内板で紹介されていたトンボ…ニホンカワトンボ、ミヤマカワトンボ、クロイトトンボ、オゼイトトンボ、オオイトトンボ、ハグロトンボ、オオルリボシヤンマ、ルリボシヤンマ、シオヤトンボ、ヨツボシトンボ、ショウジョウトンボ、ハラビロトンボ、オオシオカラトンボ、シオカラトンボ、ギンヤンマ、クロスジギンヤンマ、リスアカネ、アキアカネ、ノシメトンボ、オニヤンマ、コオニヤンマ、モートンイトトンボ、アジアイトトンボ、キイトトンボ、アオイトトンボ、オオアオイトトンボ、ヒメアカネ、ナツアカネ、マユタテアカネ、ムカシヤンマ、タカネトンボ、ダビドサナエ、ヒメクロサナエ、コサナエ。
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港区立芝公園。
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芝東照宮へ。
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御由緒…『(御祭神)徳川家康公御神像。慶長6年元旦御年60歳の時、家臣に命じ之を彫刻せしむ。東京都重要文化財指定。(御鎮座年月)永世国家を守護し国民の繁栄を祈願せんとの仰せにより元和3年3月に当地に奉安す。(祭日)例大祭4月17日(御逝去日)・月次祭毎月1日、17日。(社殿)権現造り。昭和44年完成。鉄筋コンクリート。旧社殿は国宝なりしが戦災により焼失す。(公孫樹)寛永18年三代将軍家光公の手植。昭和5年文部省指定天然記念物。以上』
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御祭神は徳川家康公。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つ。
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増上寺内境内に勧請。増上寺は天正18年(1590)徳川家康公の江戸入府の際に源誉存応が公の帰依を得て徳川家の菩提寺に定められました。当時は日比谷にありましたが、慶長3年(1598)江戸城拡張工事に伴い現在地に移転。以後、幕府の保護の下、関東浄土宗寺院の総本山となり、実質的に同宗第一の実力を持ちます。この増上寺境内の家康公を祀る廟は安国殿と称されました。これは家康公の法名「一品大相国安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」によります。
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安国殿の御神体は慶長6年(1601)正月、60歳を迎えられた家康公が自ら命じて彫刻された等身大の寿像で、生前は駿府城において自らこの像の祭儀を行っていました。安国殿の創建時に造営奉行であった土井大炊助利勝(大老土井大炊助利勝)の手により駿府から護り送られます。安国殿は明治の神仏分離令によって増上寺から切り離されて芝東照宮を称し、御神像を本殿に安置・奉斎。明治6年郷社に列し、社殿は寛永18年(1633)の造替当時のものが維持されておりましたが、昭和20年5月25日の東京大空襲により、御神像の寿像と天然記念物の公孫樹を除いて社殿悉く焼失。昭和38年に寿像が東京都重要文化財に指定され、昭和44年8月17日に復興奉賛会により現在の社殿が再建されました。
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狛犬。
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手水舎。
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参道。
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社殿。
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向拝。
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芝東照宮鎮座由来記…『(御祭神)徳川家康公。(創祀沿革)当宮御祭神(御神体)は公の生前自ら駿府城に於いて祭儀をなされた寿像である。元和2年4月17日公の薨去の際、公より「像を増上寺に鎮座させ永世国家を守護なさん」と仰せられ翌年3月、現在地に社殿(安国殿)が創建された。明治以降、神仏分離令により芝東照宮となった。旧社殿は権現造りで国賓になったが先の戦火で焼失し、現社殿は昭和44年完成する。公の御神徳による東都を鎮護する代表的なお社です。徳川家康公の思想を御遺訓から学び取ると勤勉・慎重・堪忍・自責・簡素・倹約です。以って世の中の安寧、世界の平和を希求する厭離穢土欣求浄土の御旗に託しているのです。平成6年4月17日芝東照宮社務所』
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東照宮復興祈念碑…『東照宮の御神体であり、重要文化財でもある家康公の寿像は、慶長6年、徳川家康公60歳の新春を迎えられた正月元日、年始の式をおわられたあと、近習丸津某に命ぜられて、公の等身大に彫刻させられたものであります。存生中はつねにみずから、この寿像の祭供を行われておられたと、重要文化財である添書に明記されてあります。本営は、日光、上野、久能山東照宮とともに、わが国四大東照宮として崇敬者の尊敬をあつめている由緒ある名宮であります。こ寿像が本営にまつられましたのは、元和2年4月、御違例によって、増上寺の観智国師、了的、廊山の三高僧が駿府城に登営され、そのとき家康公より「この像を増上寺に鎮座させ、永世国家を守護なさん」と仰せ出されました。そしてこの丸山の地をトして社地に定められ、元和2年10月造営されたのであります。その後、寛永11年模様替えがあり、同18年には社殿さらに新改築成って、その壮厳なる社殿は大正4年国宝建造物に指定され、神域の公孫樹(いちよう)は昭和5年8月、天然記念物に指定を受け、増上寺とともに伽藍の美を誇って居りました。また、寛永年間より明治維新まで別当安立院が奉仕し、明治3年の神仏混淆廃止令によって、明治6年7月31日郷社に定められ、以来、芝公園町内の氏神さまとして、氏子はもとより、全国崇敬者の参拝絶える事なく、春秋の大祭日は、山車、催物等、殷賑を極めたといわれて居ります。しかし、不幸にして、さきの戦災により、寿像と公孫樹とを除き、社殿は灰燼に帰してしまいました。英雄とこしえにまつられる本営の仮神殿の現況を見るに忍びず、町内氏子、崇敬者相寄り、昭和36年10月、東照宮復興奉賛会を創立いたしました。その後、いくたの障害もありましたが、昭和44年8月17日壮麗なる社殿並びに社務所が落成し、それと前後して、防火壁、玉垣等、境内の整備もなされました。更に、昭和48年5月17日に水舎が完成して、現在の姿に復興するにいたりました。江戸八百八町の開設者であり、東京都の大恩人である家康公をまつる本営が復興なりましたことを心から喜ぶと共に、今後、本営が一層多くの人々の崇敬の的になることを祈願するものであります。東照宮復興奉賛会名誉会長徳川恒孝、会長渡辺八左衛門、宮司滝孝作、総務石井正一郎』
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下の絵図では現在の東照宮の位置に飯倉茅天神があります。飯倉茅天神(茅野天満宮)は松野天満宮と共に近くの幸稲荷神社(東京で最も古い神社の一つと云われています)へ遷されています。
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神木の大イチョウは寛永8年(1641)安国殿の再建に際し、三代将軍徳川家光公が植樹したと伝えられます。
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芝東照宮のイチョウ(東京都指定天然記念物・昭和31年8月21日)…『芝東照宮は、以前は増上寺安国殿と呼ばれ、「江戸名所図会」にもその姿が見られる。明治の神仏分離によって増上寺から切り離され、東照宮となった。このイチョウは、寛永18年(1641)安国殿の再建に際し、三代将軍徳川家光が植えたものと伝えられている。昭和5年(1930)に史蹟名勝天然紀念物保存法に基づいて国の天然紀年物第二類(地方的なもの)として指定されたが、昭和27年に文化財保護法が改正された時、国指定は一旦解除され、その後昭和31年に東京都の文化財保護条例に基づき指定し直され現在に至っている。平成5年(1993)の調査では、高さ21.5m、目通り幹囲約6.5m、根元の周囲が約8.3mある。平成14年3月29日東京都教育委員会』
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神樹碑…『惟銀杏樹 經幾星霜 不折不撓 固有禎祥 幹大鬱欝 枝榮蒼蒼 勿翦勿伐 以比甘棠 明治16年10月再修』
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銀世界の梅…『この梅林は、江戸時代に「梅屋敷銀世界」として、新宿角筈(現西新宿三丁目東京ガス敷地)にあった梅に由来します。明治41年~42年ごろ16号地グランド西側に移植されましたが、道路拡張にともない、昭和41年にこの1号地に移されました。銀世界の梅は、当時梅屋敷に咲く白梅のようすからその名がつけられ、市民に親しまれていたといいます。』
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方位石。
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日光東照宮四百年式年大祭奉祝記念事業ご奉賛のお願い…平成27年に御祭神徳川家康公御奉祀四百年を迎えるにあたり、御本社の大修理、霊園の設置、祖霊社の建立などが執行されるようです。
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星野高士句碑。
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「人にまだ触れざる風や朝桜」、「長編の虚子の一書を読始」、「法師蝉鳴いてゐる木とすぐわかる」。
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星野高士句碑建立記念俳句碑。
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献句碑。
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武田竹塘先生紀功碑(明治14年)。
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昭和35年3月、目屋ダム完成。その目屋ダムが今年水没し、新たに津軽ダムが完成します。
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目屋ダムによって形成された人造湖は美山湖と命名されましたが、その名前は引き継がれず、津軽白神湖と命名されました。
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目屋ダムは治水安全度を高め、想定した洪水に対し十分な治水効果を発揮したものの、岩木川では当初計画した規模を超える洪水が相次ぎ、新たなダム建設を望む声が津軽地域で高まりました。それを受けて昭和58年度に津軽ダムの概略計画を立案する予備調査に着。調査の結果、津軽ダムは既設目屋ダムの直下流に建設する計画となりました。沈んだ目屋ダムと津軽ダムの位置関係はグーグルアースを見ればわかります。
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なお、津軽ダムの詳細は津軽ダム工事事務所のHPを見てください。
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目屋ダムの建設に伴い、西目屋村砂子瀬集落と川原平集落で合わせて83戸92世帯が水没。津軽平野住民の悲願を達成させるために住み慣れた故郷を離れるという苦渋の決断をした住民は、一部が弘前市に転居した以外は湖畔周辺に新たな居を構えたそう。
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しかしながら今度は津軽ダム建設によって177戸が沈没。一部の住民は再び移転という苦難を味わうことになりました。2度に渡る移転は辛いですね。岩木川流域の苦しい水事情に理解を示した砂子瀬・川原平の方々には最大の敬意を払わなくてはなりません。
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それにしても大きいですね。そして怖いね(笑)
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目屋ダムのコンクリートの標本。
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目屋ダムのコンクリートの標本…『目屋ダムの下流のコンクリートの一部を切り取った標本だよ。白い石が骨材(砂利)で普通のコンクリートより大きいのが分かるかな。目屋ダムは昭和35年(1960)に完成したので約50年たっています。下流面はコケがはえて貫禄があるね。内部のコンクリートはいまでもカッチカチやぞ。津軽ダムができると目屋ダムは湖に沈みます。目屋ダム、長いあいだ洪水から守ってくれてありがとう。そしてご苦労さま。目屋ダムに負けない立派な津軽ダムを作るぞ!(オー!)』
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目屋ダムのクレストゲートの開き具合を調整していた開度計。
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