くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2016/05

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神明宮といえば…弘前市下湯口の神明宮のアクセスが増えています…巖鬼山神社も…アニメ「ふらいんぐうぃっち」の人気恐るべし!笑
さて、こちらは平川市高畑の神明宮。再訪です。由緒等は以前の記事を参照してください。
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社号標は「御大典記念。昭和3年7月16日、吹上・高畑村中。」
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参道。
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高畑城跡標柱…『築城年代は不詳。大光寺城南備の砦で、元亀(1570~)の頃は平岡惣右衛門盛影が城主であったが、乳井大隅建清に攻略された。その後、南部勢が大挙してこの城を攻撃したが、遂に落城しなかった。この城は、三郭から成っていたという説もあるが判然とせず、今は北方の堀跡に面影を留めるのみである。』
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参道鳥居。
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手水舎。
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拝殿正面。石燈籠一対。
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拝殿正面。御神馬(昭和32年旧9月)と狛犬一対(明治32年7月16日)。
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拝殿。
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向拝下。
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このタイプは見たことないかも(笑)
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本殿。
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扉も開いており、状態があまり良くありませんね。
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本殿の懸魚(ないけど)の上辺り…
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怖っ!
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本殿横の建物。不明。
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本殿横にあった石碑。
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どうやらかつての石燈籠のようです。
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こちらの建物は不明。
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庚申塔。
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日露戦役紀年碑。
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馬頭観世音。
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社殿横に小さな狛犬がいました。
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筆塚。
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裏面の文字ははっきりと読み取れますが、平仮名部分が私の苦手な崩し字だったので読みませんし、読めません。読みたい方は現地へ。冒頭は「権大僧都福泉院即洞法印は…」から始まります。紀年銘は慶應4年3月25日。總門弟等建立。
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御祭神は市杆島姫命。
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写真がボケ気味です…実はまだ暗い早朝に着いてしまったのです笑
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宝永3年(1626)創建。
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昔は目黒川河口の突端で、洲崎弁天といい、歌川広重の『名所江戸百景』にも描かれました。
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利田神社と新地の歴史(境内設置看板より)。
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宝永3年(1626)目黒川川尻に弁天社(利田神社)創建される…他説に、『寛政3年(1791)に東海寺沢庵和尚がこれを祀った』ともある。
寛政10年(1798)5月1日、品川洲崎に長さ九間一尺、高さ一丈余りの鯨があがる。
天保5年(1834)利田新地成立…猟師町地先築立で新地の検地が行われ、反別三反八畝二十一歩、高三石八斗七升の屋敷地がうち出される。
嘉永7年(1854)御殿山下砲台着工(現台場小学校敷地)。
明治2年(1869)神仏分離により南品川利田新地弁天堂内の不動堂北品川宿養願寺境内へ移転…『神仏分離により社号を利田神社とした』
明治39年(1906)品川町大字利田新地の一部区域の住民が自治組織「利田新地親交會」を結成。
大正10年(1922)大神輿奉納。
大正14年(1926)旧3丁目と天王洲付近の埋立てが許可される。
昭和6年(1931)大鼓山車奉納。
昭和31年(1956)小・中神輿奉納。
平成17年(2005)町会設立100周年!
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品川区指定有形文化財鯨碑説明。
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『この鯨碑(鯨塚)は、寛政10年(1798)5月1日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約16.5m)高さ六尺八寸(約2m)の大鯨で、江戸中の評判となった。ついには11代将軍家斉が浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料である。』
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鯨碑乃由来。『此ノ鯨碑ハ寛政拾年(西暦1798年)5月壱日折柄ノ暴風雨ニモマレ乍ラ 大鯨ガ品川ノ沖ニ這入リ込ミ是を見ツケタ漁師達ハ船ヲ出シテ遠巻ニシテ天王洲ニ追イ込ミ遂ニ捕エタ。此ノ事ガ忽チ江戸ニ広ガリ見物客デ大賑イニ成リ5月30日ニ芝ノ浜御殿(今ノ浜離宮公園)ノ沖ニ船デ引張ッテ行キ第11代将軍家斉公ニ御覧ニ入レタ。此ノ鯨ノ背通リ長サ9間1尺高サ6尺8寸有ッタト言ウ。鯨碑ニハ左ノ句ガ刻ンデアル。「江戸に鳴る 冥加やたかし なつ鯨」』
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鯨碑。『武州荏原郡品川浦 天王洲漁人等建之 鯨鯢ハ魚中ノ王 本邦西南ノ海ニ多ク 東北ノ海ニ少ナリ 今年仲夏甲子ノ日 始テ品川天王洲ノ沖ニ寄漁者舟ヲ以テ囲ミ 矛ヲ以テ刺 直ニ廳事ニ訴フ衆人 コレヲ聞テ コレヲ見ント数日群集ス 諺ニ此魚ヲ獲時ハ七郷富潤フトフ 漁長ニ代ッテ祭之詞 玉池一陽井 素外「江戸に鳴 冥加やたかし なつ鯨」』
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拝殿。
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石燈籠。
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末社。
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本殿。
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「板倉家御歴代略記」附図による三万石支配時代の復元推定(元禄-幕末)。
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福島城址を軽く散策。大手木戸(大手口)付近から外堀跡付近。
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大手門跡付近。
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大手門(追手門)…『板倉重寛は1709(宝永6)年大手門改修を幕府に願い出、翌7年4月に棟上を行いました。枡形の内側に大手門が見られ、入るとすぐ右側に番所がありました。渡櫓門の形式で、屋根にはシャチ、石垣の上には白壁の塀が見られます。矢・鉄砲などを放つための角や丸の狭間があったとのことです。』
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福島城土塁と松並木…『現在の第一小学校校庭には、1897(明治30)年福島城の内堀を埋めて第二尋常小学校が新設されました。当時の写真には内堀の土塁と松並木が写っています。』
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1897(明治30)年開設された福島第二尋常小学校。
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現在。
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福島城址記念碑。
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碑文…『福島城は、現在の福島県庁周辺に位置し、16世紀の終わり頃木村吉清公によって杉目城から改められ、明治に至るまで福島地方の政治・経済・文化の拠点となってきました。明治維新以降、県庁周辺の整備が進むに従い城郭の面影は次第に失われ、現在では福島の町が城下町であったことさえ、人々の記憶から薄れかけています。そこで、板倉重寛公が3万石を領して、福島城主に就封した元禄15年(1702)から数えて300年の節目となる年に当り此処に城址の記念碑を建立し、福島の町の歴史を、永く後世に伝えるものです。平成14年11月3日』
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福島県庁。
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明治18(1885)年、渡利側から松齢橋(舟橋)を経て県庁舎周辺を見た図。
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県庁前の通り(本丸御殿玄関付近)。
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本丸跡の碑の向かいにある紅葉山公園(福島城二の丸庭園)。
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紅葉山(公園)…『紅葉山は、二の丸御外庭と呼ばれた、福島城の庭園でした。池を中心にした欅の大樹は、往時の面影をとどめるものです。かつての築山のあたりが今の板倉神社で、城主板倉氏の藩祖重昌を祭神とするこの神社は、旧藩士や市民の有志によって明治15年10月に再建されたものです。また、杉妻稲荷神社は上町にあった古社を移したもので、福島城鎮護の稲荷神社と伝えられています。藤棚のあるあたりには明治44年建てられた県物産館(のち県立図書館)がありました。木造モルタル3階建の典雅な洋風建築でしたが昭和35年に焼失いたしました。池から南にかけては日蓮宗文明院(竹下文明開基)の所有でしたが、昭和8年に佐藤沢福島市長らのはからいによって板倉神社代表に譲り渡されました。現在は、これら一帯をあわせて、福島県が整備し、公園として管理しています。』
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二の丸御外庭…『紅葉山公園一帯は、福島城の二の丸御外庭で、福島藩主板倉重寛が池、茶屋、築山などを設けました。池は、三河国八ツ橋(愛知県知立市八幡町)のかきつばたの名所をまねてつくったと言われています。』
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板倉家御歴代略記付図より御茶屋之図。
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この付近にはかつて偕楽亭という料亭もあったそうです。
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竹下文明歌碑。
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石灯籠や手水鉢、鳥居の跡らしき石などもありましたが、これらが庭園のものなのか、日蓮宗文明院の跡なのか、杉妻稲荷もしくは板倉神社のものなのかはわかりませんでした。この辺の説明は欲しいところ。
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杉妻稲荷神社前にある巨大な欅。推定樹齢400年。
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なかなかの存在感ですが、福島城の庭園としての往時の面影をとどめるものであるとの説明以外は特にありませんでした。
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福島県指定重要文化財の大佛城跡出土(宝塔)…『この宝塔は、明治の初め、県庁西庁舎南の土塁近くにあったものです。円筒形の塔身に梵字で、阿弥陀如来を現わし、反花座(かえりかなざ)・雄蕊(おしべ)を線刻し「弘安6年癸未4月廿日 孝子□□(不明)」ときざまれています。(1283年)弘の字を「※方+ム」とし、梵字の彫り、端正な字体は鎌倉時代特有のもので、笠石、請花宝珠(うけばなほうしゅ)は後で補ったものです。この宝塔は墓しるしに建てられたもので、福島城の前身杉妻寺(すぎのめでら)という寺を城とし、眞浄院にある延慶3年の板碑もこの地にあったものです。宝塔は平泉願成就院(藤原時代)につぐ古いもので、大佛城の名の起りを示す重要な文化財です。なお、左にある石塔は鎌倉時代の板碑で、梵字(釈迦如来)のみで年号はありません。大正13年、松齢橋工事中河底から発見したもので、やはり杉妻寺大佛城にゆかりがあるものとみられます。』
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宝塔。
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鎌倉時代の板碑。
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福島城と城下町(福島城の位置は原図鈴木啓氏(明治8年作成の「福島旧城之図」)より再現。
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城下町は「享保20年福島城下絵図」及び「福島旧城の図」を主に板倉家が福島藩主時(1702-1868年)の様子を再現)。
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下車力町盛野の八幡宮。
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明暦3年(1657)8月に4代藩主信政公が柳を御手植し、それが大木となり大柳と呼ぶようになりました。柳の枝は四方に伸び、大股ができて小祠を祀るに相応しい木となり、信仰が厚かった熊谷与三郎、蝦名与八、白戸治郎らが相謀り、明治38年8月にお堂を祀ったのが始まりとされます。当時は大柳の木の股にはさまれるようにして鎮座。
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昭和14年8月の台風にてお堂が吹き飛ぶも、同年9月には部落民あげて覆屋を建立。また、昔はこの辺りに狐がよく出没し、道行く人を悩ましたそうで、その難を遠ざけるために八幡様を御祭神として村方が建立したとも伝えます。現在、大柳は残っていません(※車力村史では根本のみが残されているとありました)。
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御祭神は誉田別尊。
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奥殿には神鳩一対。神鳩と御神体は車力村史で見ることができます。
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水は無かったけど池みたいのがありました。
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本殿裏手の木。
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日比谷稲荷神社御由緒。
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『日比谷は、元々江戸海岸の入江であって、ヒビを立てて海苔を採っていたので「ヒビ谷」と称しました。長禄元年に、太田道灌が江戸城を築いた時、天地の恵みに感謝して、生命の根である稲霊神を祭るため、城外日比谷の海岸(現在の日比谷公園の土地)に、御社殿を建てたのが、此の日比谷稲荷神社の始まりであります。
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天正18年より慶長7年に至る13年間は、徳川家康が、江戸城の主として、関東大守でありましたが、慶長8年2月12日、天皇より征夷大将軍に任ぜられると、江戸城は、一躍天下の主城としての大拡張工事を始めることになりました。
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慶長11年に、日比谷稲荷神社の所に、江戸城日比谷御門が建設されることになった為に、代替地を芝口に賜って移転したのが、現在の新橋4丁目13番地(※平成21年東新橋2丁目1番に移転)の日比谷神社であります。
然し、どうしても海岸に祀られないと困る崇敬者の人々は、日比谷稲荷大神を戴いて、八丁堀先の干潟を埋築し、そこに御社殿を造営して、御神霊を御遷座申上げたのが、当神社、日比谷稲荷神社であります。
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日比谷稲荷神社は、此の新しい土地の地主神として、丁寧に祭祀されていたので、此の一角は、永い間に亘って、日比谷町と公称されていました。
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東京都公文書館所蔵の「明治十二年神社明細帳」には、無格社日比谷稲荷神社は、明治6年1月7日の日付で、所在地は「武蔵国豊島郡京橋区日比谷町一番地河岸地境内25坪3合除地」となっています。
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大正12年9月1日の大震災後の区劃整理で、日比谷町は、隣接の幸町、長沢町等と合併の上、八丁堀3丁目と呼ばれました。また、大東亜戦争終戦後は、住居表示改正で、西八丁堀3丁目を合併し、今日の八丁堀3丁目の一部となりました。然し、旧日比谷町に当る一区劃の地主の神は、変ることなく、今も昔も、此の日比谷稲荷神社であります。
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往古、日比谷の海岸に在った頃、旅人御守護に霊験が篤かったので、江戸へ来た人々が、多く当日比谷稲荷神社に泊って、お詣りしたので、これを「旅泊稲荷」とも唱え、「さばいなり」と読んでいました。
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後に、虫歯に苦しむ人は、鯖絶ちをして、日比谷稲荷神社に祈って、よく助かったというので、鯖を供えてお礼詣りする人が頗る多くなりました。そこで、此の意味からも「さばいなり」と通称され、鯖の絵馬、扁額が社殿に多く掲げられるようになりました。
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然し、最初の御鎮座の時の精神が、天の光、地の恵みに対する感謝の誠心をあらわすことにありましたように、今でも、此の旧日比谷町に住み且つ事業を営む人達が、御守護を受けている地主神としての日比谷稲荷神社を拝んで、天地の御恵みに感謝し、家庭では、各自の親先祖を大切にして、暴飲暴食を戒めてゆけば、必ず必ず、天地の御守護に感激し、開運の人となることが出来るのであります。』
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『京橋区史』によりますと、昭和13年末の記録として、無格社稲荷神社となっており、御神体は宇迦御魂命・宇気母智命とあります。ちなみに港区東新橋の日比谷神社の御祭神は豊受大神・祓戸四柱大神(瀬織津比売神・速開都比売神・気吹戸主神・速佐須良比売神)・天津神・国津神。
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亀島川の亀島橋から高橋まで間の八丁堀側は、当時の地名によって日比谷河岸と呼ばれていました。
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日比谷稲荷神社はそのちょうど中央付近にあります。
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