くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2016年03月

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原別村。神社の周囲は田んぼ。
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田んぼの中に鎮守の杜がございます。
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南東部の下海原に八幡宮があります。
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建武年間(1334-1336)に安倍大納言盛李(安東盛李)が勧請し、元亀年間(1570-1573)から東輪山永禄寺多聞坊が社務を勤めています。
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また、慶長2年(1597)に再建し、末社に牛頭天王・広田宮があったといいます。
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以下は境内にあった案内板より。ここまで詳細な案内が掲げられているのも珍しいですね。とてもありがたいです。
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創建並びに祭神…『八幡神社は安東初代当主である阿倍盛李氏の創建である。祭神誉田別命と大山祇命を祀る。誉田別命は第15代応神天皇(在位西暦270年2月8日-310年3月31日)であり諱(本名)を誉田別尊という。武運の神「弓矢八幡」として崇敬されている。また、大山祇命は古事記(712年)や日本書紀(720年)に登場する「山と海」の両方を司る神である。また酒造の神、軍神、武神としても信仰されている。』
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天台修験阿闍梨法印多門坊…『東輪山永禄寺蓮珠院の開祖である多門坊は相模の国鎌倉の天台修験阿闍梨法印を勤めた高僧であり、本八幡神社の別当職を勤めた。彼は永禄11年(1568年)より諸国を巡回しながら法の教授に励行していたが、松島(現仙台市)の在留中に、南部名久井山法光寺の使いの僧と出会い、正式な別当がいない蓮珠院や当八幡宮、稲荷宮の件について話すところとなった。さっそく翌、永禄12年(1569年)の春に法光寺の僧侶が24代南部晴政に謁見の際、「遠地原別は郡司館主の土地であり、土地を守る僧がいない」との旨を伝え、その後当地に下向した。代々別当を勤めてきた小笠原館主と南部八戸からの役人、そして僧との間で「八幡宮と稲荷宮は建武年間より代々、小笠原館主が別当を勤めてきたが、あまりにも恐れ多く、両宮の別当職を多門坊にお願いできないか」と思案し、多門坊に依頼することになった。元亀元年(1570年)天台宗比叡山に登り(誰かは不明)、奥州原別の鎮守である当八幡宮及び稲荷神社の件について申し述べたところ、両宮の別当として東輪山永禄寺多門坊を嘱すとの御印紙をいただくに至った。以来、多門坊はこの御印紙に従い鎌倉寺内より東輪山永禄寺蓮珠院に転院し、当八幡神社の社務を勤めるとともに天台密法を丹精込めて説法することになった。多門坊は戦国の世に地域の住民はもちろん、当時まだ蝦夷と呼ばれていた浮浪人に対し昼夜怠ることなく仏法を教化した。その指導の効が上がり、蝦夷の館に住む残党も一般住民と和し、谷地や空野の開拓が進み、民家の数も徐々に増えていった。また、神に供える穀物を耕作する無年貢の御供田を当八幡宮と稲荷宮に整備し、30人を扶養したと伝わっている。以上「鹿内文書」参考』
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江戸から現代…『江戸時代から氏子衆や地域住民の力で度々再建され、「八幡様」の名で親しまれてきた。文政元年(1818年)に「八幡宮」の掲額がなされたが、昭和60年(1985年)の鳥居建立の際は「八幡神社」と掲額され、以来この社名で呼称されている。平成21年、22年の大規模な再建・補修と境内拡張により、氏子衆はもとより地域住民にもあつく信仰されている。御祭神:誉田別命、大山祇命。御神木:ケヤキ(推定樹齢300年)。例祭日:8月15日。神楽舞:不定期開催。』
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以下沿革。
建武年間(1334-1337年):阿倍大納言盛李氏(檜山系安藤氏、後の安東初代当主)創建。誉田別命、大山祇命を祀る
天授6年(1380年):安東盛李氏再建
元亀元年(1570年):東輪山永禄寺(蓮住院先祖)多門坊社務を勤め再建
万治年間(1658-1660年):「再建棟札有」の記録有り
貞享4年(1687年):「社地六間・五間一畝歩蓮住院抱、境内林五十間、十八間三反歩」の記録有り
宝暦11年(1761年):「再建棟札有」の記録有り
寛政9年(1797年):「再建棟札有」の記録有り
文政元年(1818年)6月:「八幡宮」を掲額(小笠原佐左衛門氏)額裏面に「応需藤原貞之謹書-藤原依所望 藤正長作 ※願主 小笠原佐左衛門」の記録有り
文政4年(1821年):「再建棟札有」の記録有り
大正5年(1916年)8月15日:御旗奉納(矢田前氏子衆)
大正10年(1921年)8月15日:狛犬一対奉納(泉野小笠原平助氏)
昭和6年(1931年)5月15日:国旗奉納(矢田前、平新田氏子衆)
昭和9年(1934年)4月15日:神馬奉納(矢田前、平新田氏子衆)、神馬石碑奉納(小笠原平助氏他泉野7名) 同年拝殿再建(棟梁後范出身 小笠原惣吉氏)
昭和24年(1949年):本殿(奥院)建立(棟梁不詳)
昭和36年(1961年):御神体盗難に遭う 新たに御神体を祀る
昭和48年(1973年):参道入り口に大鳥居建立
昭和52年(1977年):御旗奉納(矢田前氏子衆)此より現在の御旗掲揚位置となる
昭和57年(1982年)12月:大しめ縄奉納(矢田前鹿内与一氏指導)
昭和60年(1985年)5月:「八幡神社」を掲額 拝殿前に鳥居建立
平成8年(1996年):石灯籠奉納(泉野小笠原平吉氏)
平成21年(2009年)8月16日:拝殿再建 本殿(奥院)補修(棟梁 泉野小笠原平吉氏)
平成22年(2010年)5月14日:境内拡張(586㎡ 矢田前三上盛雄氏寄贈)
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「豊穣無窮 青森県知事北村正哉」(県営原別地区ほ場整備事業竣工記念)。
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この碑だけで社地の3分の1くらいの面積を使っているような…。
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御祭神は日本武尊命、少毘古那神、厳嶋姫命、宇賀之魂命。
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創建の時代不詳ならせるも当村常楽寺の開祖無門和尚仝寺の鎮守として不動明王を勧請。
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巖龍山大聖寺と称し、往時は背後の奇巌を以って神霊を擬し来るが中頃故あり当村羽黒修験源龍院代にて其の別当職を勤めることとなり元禄年間に小友町(現在地)に拝殿を建て文化6年(1809)に本殿建立。
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文化8年御輿堂に成り、明治5年(1872)祭神日本武尊命、少毘古那神、厳嶋姫命、宇賀之魂命を合祀する。
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巖龍神社(祭神:日本武尊)…『巖龍神社の創建の時代は明らかではないが、「小友村勝蹟志」によると、小友村の常楽寺の開祖無門和尚が、寺の鎮護として不動明王を勧請して巖龍山大聖寺と称し、不動巖を本尊としてあがめ、羽黒派修験の源龍院が、別当職をつとめるようになったと伝えられる。元禄年間(1688-1704年)には拝殿が建立、次いで文化6年(1809年)本殿が建立され、不動明王の仏像が安置された。明治5年(1872年)には、神仏分離政策のため、祭神を日本武尊に改め、巖龍神社となった。2月28日に行われている「小友町裸参り」は貴重な民俗行事として、遠野市指定民俗文化財となっている。巖龍神社の背後にそびえる不動巖は、高さ約54mの巨岩で、岩の面が竜のうねった形に似ているといわれ、岩のふもとに不動明王を祀ったので不動巖と呼ばれている。大正13年(1924年)には岩手日報社企画の岩手三景に、昭和25年(1950年)には同社企画の日本百景に選ばれており、古くから四季を感じさせる景勝地として親しまれている。不動巖と巖龍神社は、平成20年(2008年)に遠野遺産に認定された。』
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小友町裸参り(遠野市指定文化財・無形民俗文化財/昭和59年4月20日)…『小友町裸参りの起源は明らかではないが、修験者源龍院仙林(?-1727)が巖龍神社の別当を勤めていた時に不動講を結び、元禄年間(1688-1704)に拝殿を造営した翌年の初不動の日(1月28日)に不動講の数名を名代として裸参りを行ったのがはじまりと伝えられている。裸参りは、不動講を中心として伝承され、古くは旧1月28日に行われていた。講中から当番の宿が選ばれ、次のような次第で行われたと言われている。一.代表の者が神前で鈴を受け取り、振りながら宿に行く。二.参拝者は宿に集まり身仕度を整え、一列となって神社に赴く。三.神社そばの清水にて身を清めて礼拝し、鈴振りを先頭に町を歩き、長野川に至りて更に身を清め神社に戻る。これを3回繰り返す。四.行事を終えた後、宿に集まり講中と共に酒肴を交わしながら年間行事や農事などの相談を行う。現在では2月28日に行われ、腰に注連をしめ、頭に鉢巻をまき、草鞋履きに口に護符をくわえた褌姿の男達が、神社の大鈴をもった厄男(42歳)を先頭に一列となって、各々手に「ぼんぼり」をもち、神社と上宿橋のそばの大般若供養塔の間を三往復して五穀豊穣・無病息災などを祈願する。このような行事は遠野市内では他の例がなく、貴重な民俗行事である。』
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岩手三景不動巌…『巌龍神社の背後の奇巌を不動巌と云います。大正13年時の小友村長奥友信氏時代に、岩手日報社の県内三景十勝募集の企画に応募しましたところ次の3ヶ所が入選しました。一.不動巌(遠野市小友町)一.不動滝(二戸郡安代町)一.玄武洞(岩手郡雫石町)。小友村では同年9月3日、その入選報告祭が巌龍神社に於て盛会に取り行われ、不動巌の頂上からは国旗や提灯を吊り下げるなど里神楽、獅子舞等の奉納が乱舞し夜になっては小学校生徒、男女青年団員の提灯行列が夜の更けるのも忘れての業には村民はもとより近郷近在の見物客の人出で大変な賑いを極めたと記されております。又その後昭和25年10月10日日本国有鉄道釜石線全線開通を記念して再び岩手日報社の日本百景の募集にも又々その選に入り、今尚雄大な不動巌が景勝地として多くの探訪者で賑っております。不動巌は巌龍神社の背後にあって、直立して地を抜くかのように高さ54メートルで正に天を突くような偉容であります。そして老松が點生し四季の風景格別なものがあり、その巌根に清水の湧出する池があって是れを昔から神水と命名しております。尚又池の中には嶋があって不動尊を祀っており、老樹が繁茂して一層の景を添えております。又巌面には龍の昇降するような形状を呈していて、神社の背後にあるものを降り龍、西方小友川の淵の上にあるものを昇り龍と云ってその偉観の雄大さに観る人をして驚かしむるものであります。岩手三景不動巌 仰ぎ見る不動の巌や風薫る 巌龍神社社務所』
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狛犬一対。
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社殿。
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向拝。
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木鼻。
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御神木。
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御神木と不動巖。
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摂社の八幡神社。
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不動巖。
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不動巖の麓に色々と石碑があります。
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忠魂碑。
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頌徳碑。
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庚申塔。
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藤澤直藏先生碑。
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金毘羅大権現、馬魂碑、早池峰大神など。
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不動橋。
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不動橋より。
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参道。
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不動橋のすぐ手前に趣のある建物がありました。
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少しだけ神社付近の街を散策してみると「宿場町・小友」の案内板がありました。宿場町としての面影を残す町並みとのことです。納得。
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宿場町・小友(遠野市景観形成モデル地区)…『小友の町並みは、鎌倉時代、阿曽沼氏家臣菊池喜左衛門が小友の語源と言われる奥友氏を名乗り、奥友館を築いたときにはじまる。室町時代応永24(1417)年には常楽寺の開祖無門和尚が、巌篭神社を創建(例祭日・8月第4土日)、江戸時代には修験者源龍院の奨めで近くの蟹沢金山の採金がはじまり、他地方から多くの人々が集まり賑わいを見せた。寛永(1624)から正徳年間の頃が金山最盛期とも重なって、宿場町としての根底を築いた時代と言う。昭和59年(1984)年遠野市から無形民俗文化財として指定され、2月28日に継承されている裸参り行事は、明暦(1657)年間の修験者源龍院5代仙林による不動尊信仰が、その発端と言われている。延享(1744)年間には、町(道路)の中央に1本の水路が造られ防火性を考慮し敷設された。現在の両側2本水路の元となっているが、これまで明治17(1886)年と昭和11(1936)年の2度にわたり壊滅的な大火災を経ており、その都度先人の努力で復興されてきた。また、大正13(1924)年には、不動巌が岩手日報社の企画による岩手三景の1つに入選、町民は喜びに沸いた。こうして歴史の中で形成されてきた小友の特徴ある2階建民家の町並みや水路、そこで行われる祭典や裸参りといった地域行事、それらが相俟って醸し出される「宿場町としての面影が残る景観」は、平成8(1996)年遠野市が策定した景観形成基本方針で、後世に引き継ぐべき景観として「景観形成モデル地区」に選定されています。平成11年3月 小友町地域づくり連絡協議会 小友探訪会』
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御祭神は木花之佐久夜毘売。例祭日は8月17日。
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明和9年(1772)に、毘沙門宮(現鹿島神社)の末社として堂社を建立し、木挽町の産土神として祀ったのが始まり。
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昔、毘沙門宮の宮司小笠原円之太夫の祖母が夢の中で神託を受け、土中から金銅の御神体を発見したことから、村人らがそれを祀ったという言い伝えがあります。
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藩政時代には富士権現を祀っていましたが、明治3年の神仏分離によって鹿島神社に合祀。大正2年に復社し、字西村井に堂社を建てるも、都市計画道路の建設とともに昭和29年に現在地へ移転。
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拝殿。
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本殿。
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御大典記念碑(昭和3年11月10日)。
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一の鳥居は昭和58年8月17日建立。
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手水舎。
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狛犬一対(大正5年7月17日建立)。
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宗教法人冨士神社設立記念碑(昭和56年7月17日建立)。
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昭和9年旧5月7日の猿田彦大神(木挽町々内一同)。
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案内看板より…『富士神社の祭神は、木花之佐久夜毘売で、例祭日は、8月17日である。昭和9年(1772)毘沙門宮(現在の鹿嶋神社)の末社として堂社を建立、木挽町の産土神として祀ったのがこの神社の縁起である。藩政時代は富士権現と言われ、祭神は、富士山の浅間神社と同一である。明治3年、鹿嶋神社に合祀されたが大正2年に鹿嶋神社より西村井の地に移転、更に昭和29年、都市計画道路工事のため、現在地に移転した。』
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