くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2015年12月

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参集殿(鉄骨二階建・昭和55年完成)。大広間・宿泊300人収容可。右に禊場と相撲場があります。
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参道と狛犬。
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神札授与所と車祓所。
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男坂手前の御神馬と狐二対。
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男坂(96段)。
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男坂上。
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命婦社。
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命婦とは稲荷狐のことです。稲荷狐から稲荷大神に願いを取り次いでもらう信仰。昭和10年に縁結びの神として建立。
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手水舎。
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大鳥居寄付者碑。
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拝殿。
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西向き(海方面)です。
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御祭神は宇迦之御魂命・ 佐田彦命・大宮賣命。屏風山中の七里長浜沿いの丘の上に鎮座。明治26年の火災で記録焼失し、創祀については諸説があります。元禄年間浅野内匠頭刃傷による赤穂城明け渡しの際、藩士寺坂某が城内鎮守の稲荷大明神の神霊を奉持して各地を漂泊。弘前城下に仮寓後、鰺ヶ沢に移って始めた赤穂屋という造酒屋が繁盛。宝暦年間にその子孫が北海道へ移住する時に船が当地で進まなくなったので稲荷大明神を祀ったという説と、慶長年間牛潟村の三五郎という者が稲荷を信仰し、京都伏見稲荷神社から神霊を勧請。伏見に山容が似ている当地に祀ったという説。他にも平安後期の陸奥の豪族安倍貞任が創祀したとも、鎌倉期に牛潟城主政子某が北門鎮守のために勧請したとも伝えます。農業・漁業の神として多くの信者を持っており、その信仰圏は県内はもとより、北海道・東北・神奈川・静岡に及んでいます。大正初期頃から宮司がゴミソに神習教の教導職免許状の斡旋をし、ゴミソを掌握したのが大きく発展した理由とも言われています。
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神社庁HPより…『当社の創建については、江戸時代にいくつかの稲荷創建の伝承説が残されている他に、安倍・安東氏の創建であるとも伝えられる。天和四年に作成された古地図には、三王坊山と記載されていることから、それ以前は三王大神を祀り、難所であった周辺の海路、陸路の守護神であったと考えられる。おそらくは、安倍・安東氏の統治時代に三王神社が祀られ、江戸時代になって当地に開墾の鍬が入れられてからは稲荷神社になったのだと考えられる。明治初年、「神社明細帳」脱漏となるが、大正五年八月二十五日無格社として承認される。その間、明治二十五年新社殿造営なるも、翌二十六年火災により焼失。以後約五十年余を仮社殿にて過ごし、昭和二十三年新社殿を造営。以後十年毎に復興事業を進め、平成六年に復興百周年を迎え、神社復興百周年奉祝大祭を斎行。』
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案内板より…『当社の御創建の年代は詳らかでないが、鎌倉時代から室町期にかけて此のあたりを統治していた豪族安倍安東(藤)氏の創建と伝えられる。江戸時代の古地図には、高山の地は三王(山王)坊山と記されており、当社の境内社である三王神社御創建の社伝には、十三湊東方に山王日吉神社を中心に十三宗寺が建ち並ぶ一大霊場があり、安東(藤)氏の祈願所として栄えるも1443年(嘉吉三)[または1432年(永享4)]頃に南部勢の焼き討ちにより焼失。この時、山王大神さまが黄金の光を放って流れ星のように高山の聖地に降り鎮まられた、と伝えられる。稲荷神社創建の社伝には、江戸時代の元禄14年(1701)、播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の江戸城中での刃傷事件による藩取りつぶしの際、赤穂城内に祀っていた稲荷大神の御霊代を藩士の寺坂三五郎が奉戴し、流浪の果て津軽の弘前城下に寓し、その後鯵ヶ沢に移り住み「赤穂屋」と号し醸造業を営み栄える。その子孫が渡島に移住するにあたり、この高山の霊地に祀れとのお告げにより遷し祀った、と伝えられる。稲荷創建の社伝は他にも諸説あるが、何れも江戸時代に入ってからのことである。これらを総合して考えると、元々は三王神社が祀られ、その後江戸時代に稲荷神社が創建され、江戸時代の稲荷信仰の隆盛とともに稲荷神社が繁栄し元々の三王神社が後退したものと考えられている。』
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御祈祷昇殿所。
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本殿。
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立派な本殿。木造銅板葺、三棟流造前後千鳥破風。
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ガラス張りの向こうに本殿内の狐が見えました。
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本殿横の木と石碑。
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『綿津みの海のかなたの国迄も鎮めまさなむ神の御心』菊池幸次郎翁詠。
『あんとうとおしものきものすむ家をまもる高山稲荷大神』
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高山稲荷神社の真後ろに鎮座する三王神社等に向かいます。
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山王鳥居。
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高山三王神社。
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『三王稲荷神社奉納人 青森市古茶屋町 大成教高山講社本部 昭和7年3月20日 社長中里滋53歳 中里みゑ51歳』
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熊五郎稲荷神社。
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よんこ稲荷神社。
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よんこ稲荷神社の後ろにある稲荷神社。
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作丈一稲荷神社。
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高山稲荷神社正面にある末社へ。
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千代稲荷神社。
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大島稲荷神社。
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三五郎稲荷神社。『津軽ふるさと散歩(小舘衷三)』に次のような記述があります…『車力村海岸部の高所にある高山三五郎稲荷様である。津軽の稲荷信仰のメッカであって、牛潟から四キロの道路も舗装され、大祭時はもちろん、平常でも参詣人が絶えない。この神社の縁起は明治二十六年の火災で記録が焼失してわからない。藩政時代の宗教関係の資料に全く見えないことから、社はなかったようで、あっても「ほこら」程度と考えられる。一説には四十七士で有名な播州赤穂城の館神で、関係者の一人が鰺ヶ沢に移祀し、さらに七里長浜の霊地に祀ったのがこの者である、というが伝説の域を出ない。
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末社高山稲荷神社。
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その他末社。
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龍神宮方面へ向かいます。
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今度は下り。
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いたるところに稲荷狐がおります。数え切れません…数えてないけど。
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龍神宮です。
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昭和25年鎮座。昭和28年地鎮祭・遷座祭。
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池に囲まれています。
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龍神社神像製作者は棟方一氏(志功実兄)。
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社殿前には狛犬2対と稲荷狐2対がいます。
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神明社に向かいます。
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神明社には名物の千本鳥居をくぐっていきます。
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今回こそ数えるぞ!(笑)
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ってことで数えてみました。
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到着。201本ありました。ちょうど200基じゃなかっただけでも数えた甲斐があります(笑)
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神明社。御祭神は天照皇大神。
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伊勢神宮第61回式年遷宮に当り、古殿舎材の御下賜があり平成7年9月に創建。
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神明宮裏手の風景。
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無数の廃稲荷ゾーン。
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神明社からの二百一本鳥居。
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女坂を下って戻ります。女坂の方がかなり楽!
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境内案内図。
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旧岩木町の葛原に鎮座する春日神社。
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春日神社らしく狛鹿さん(昭和7年1月11日)がおります。
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いい表情です。
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春日神社の御祭神は天児屋根命、武甕槌命、伊波比主命(経津主神・斎主神)、比売大神(天美津玉照比売命)。
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創建不詳。
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青森県神社庁によりますと、この地区の歴史は古く、藤原氏の落人の創建と考えられているそう。
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貞享4年検地水帳にはその名が見てとれます。
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『当社の社名は、貞享4年(1687)検地水帳に見て、祭神は武甕槌命、斎主神、天児屋根命、比売大神の四神である。安政2年(1855)神社微細帳に、「右は草創建立の年月日相分り申さず候へ共、村中安全の為に建立仕り候、尤も貞享の御調表には神明社地と御座候へ共元来は、春日宮に御座候」とある。奈良市の春日神社は戦後春日大社となったが、古来藤原氏の祖、中臣氏の氏神として藤原氏はもとより、朝廷からも永く尊崇されているが、当地葛原との関わりは歴史的に詳らかでない。平成6年3月31日岩木町・岩木町教育委員会』
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石灯籠一対(元治元甲子年5月11日)。
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手水鉢。
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春日神社拝殿改築記念碑(宮司川崎光晴拝書)。
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庚申供養塔(天保13壬寅年7月14日)。
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裏には講中の名前。
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東京都千代田区。平河天神。
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御祭神は菅原朝臣道真公(学問の神)。
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相殿として誉田別命(八幡宮)、徳川家康公(東照宮)。
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文明10年(1478)、太田道灌公が城内の北坂梅林坂上(平川門近く)に川越の三芳野天神を勧請して創祀(梅林坂はその時植えた梅に因みます)。
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慶長12年(1607)2代将軍徳川秀忠に依って現在の貝塚に奉遷。この周辺にはかつて吉田忠左衛門(吉田兼亮)ら赤穂浪士が潜居。首斬り浅右衛門(山田浅右衛門)の屋敷や馬場も近くにみえます。
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千代田区指定有形文化財の平河天満宮銅鳥居。
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『この銅鳥居は、高さ5mにおよぶ鳥居です。支柱にある銘文によれば、天保15年(1844)12月に、麹町周辺の人々によって建設・奉納されたものと思われます。千代田区内には現在沢山の特徴的な鳥居が建てられていますが、この銅鳥居が、区内最古の鳥居です。同様に銘文からは、この鳥居が御鋳物師・西村和泉藤原政時の作品であることもわかります。「西村和泉」というのは、文政武鑑に「御鋳物師 西村和泉 並御錺師 かんたかち丁一丁メ」とあるように、元禄から明治期まで12代にわたって神田鍛冶町に居住した鋳物師の一家系を示します。彼らは江戸とその周辺に梵鐘、灯籠、水鉢等々多くの作品を残しました。彼ら12人の当主のうち多くは「西村和泉藤原政時」を名乗りましたが、平河天満宮銅鳥居の作者は、嘉永元年(1848)に没した8代目であると思われます。なお新宿区市谷八幡町には、「平河天満宮銅鳥居」によく似た「市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居」(新宿区指定文化財)があります。これは「西村和泉」家5代目当主・西村和泉藤原政平によって作られた作品です。ただし平河天満宮の銅鳥居には、左右の台座部分に4体づつ獅子の彫刻がのせてあるなど、良く見ると少しずつ違いが見つかってきます。平河天満宮の銅鳥居は、麹町周辺の町地に住む人々の平河天満宮への信仰の様子を物語ると同時に、江戸時代の鳥居の姿を私たちに教え、その特徴的な意匠で私たちを楽しませてくれます。』
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由緒…『江戸平河城主太田道灌公が城内の北坂梅林坂上に文明10年(1478)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)。慶長12年(1607)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。現在も学問特に医学芸能商売繁昌等の信仰篤く合格の祈願等も多い。』
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千代田区指定有形民俗文化財の石牛。
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『この石牛は、浄瑠璃常磐津節の岸沢右和佐の麹町の門弟らによって奉納されたもので、奉納された嘉永5年(1852)は、祭神である菅原道真公の950年忌にあたっています。江戸市中の天満宮では開帳が行われており、平河天満宮でも2月25日から60日間にわたって催されています。この開帳にあわせて、氏子たちは、石牛のほかにも境内の石造物(狛犬・筆塚・百度石・常夜燈)を奉納しています。平河天満宮には、氏子町の人々による信仰、ならびに氏子地域を越えた学業成就の信仰に基づく奉納物が数多く見られます。その中で、石牛は、常磐津節の一流派である岸沢派の麹町界隈の門弟らによって造立・奉納されたものであり、区内における学芸の広がり及び天神社に対する信仰の様子を物語る資料といえます。』
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その他の石牛。
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千代田区指定有形民俗文化財の狛犬。
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『本殿向かって右側の石像の銘文によれば、この狛犬は、享和元年(1801)に麹町周辺の人々によって奉納され、嘉永5年(1852)に再建されたことがわかります。一方左側にも銘文が刻まれていますが、現在では剥離していてほとんど読むことができません。ただし「新撰東京名所図会」(第18編)には、この銘文が収録されています。これによると、先代の狛犬がこわれてしまい、あらたに紫宸殿の障屏画をもとに狛犬がつくられ、これが嘉永3年(1850)の火災で角や足を失い、同5年にこれらを補修して再設置した、とのことです。
「新撰東京名所図会」にある紫宸殿の障屏画とは、一般に「紫宸殿賢聖障子」といわれるものであると思われます。「賢聖」とは徳のある人物のことで、中国では紀元前2世紀ころから功臣たちを書き並べるこの「賢聖」の図が描かれはじめます。この賢聖達の中央に魔除けとして通例描かれているのが、一対の「獅子」と「狛犬」です。日本でも平安時代には賢聖障子が御所の紫宸殿に描かれるようになりました。紫宸殿賢聖障子に描かれている獅子と狛犬のうち、狛犬は頭上に角をもっています。平河天満宮の狛犬を見ると、左側の石像の頭上には、径10cm、深さ5cmほどの窪みができています。これは角が掛け落ちた跡のようです。平河天満宮の狛犬は、そのモデルを考えた場合、厳密にいえば「獅子」(右側)と「狛犬」(左側)との対になっているといえます。平河天満宮の狛犬は、そのユニークな出自で私たちの興味をひきつつ、麹町周辺に暮す人々の平河八幡宮への信仰の証として今日もその境内に佇んでいます。』
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千代田区指定有形民俗文化財の力石(天龍石)。
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『「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村堺(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されています。古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多く、石に神霊がこもる、あるいは石を依代としている神々も多いとされています。また、「力石」における伝承のひとつとして、「道切」説もありますが、「巨人伝説の大草鞋」などと同種のものと考えられます。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようです(疫病は道を伝わって来ると信じられていました)。
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平河八幡宮の力石の由来は詳らかではありませんが、江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料であると思われます。なお、本力石の表面には、中央に「天龍石」、右端に「十店助次郎持之」、左端に「同新助」と刻まれています。』
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千代田区指定有形民俗文化財の百度石。
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『百度石とは、百度参りを行うために使用される石標で、百度参りが行われる神社が境内に立て、そこから往復参拝するよう目印としたものです。百度参りは、個人的な心願のため特定の神社に百度参詣を行うことで、最初は百日間にわたり毎日参詣する形でしたが、のちには一日のうちに百度参詣する形に変化したといわれます。ただし、この百度石の場合は、背面に奉納者と思われる多数の人名がありますので、何らかの結願の結果として建立・奉納されたと思われます。この百度石は、銘文から、高橋丈鯉が制作したものを、嘉永5年(1852)2月に鮫ヶ橋の岸岡仙太郎ら67名が奉納したものです。奉納者67名は、①鮫ヶ橋など地名を肩書きに持つもの、②松浦藩・永井藩・本郷藩・片桐藩という藩名を肩書きに持つもの、③肩書きがなく名前だけのものが混在しています。奉納者は地縁的な繋がりは考えにくいため、学問上の繋がりの中で奉納したとも思われ、平河天満宮と、周辺の町や人々との関わりを考えることができます。 奉納された嘉永5年(1852)は、菅原道真公の950年遠忌にあたり、江戸市中でも平河天神のほか亀戸天神・牛天神で開長が各60日行われています。平河天神では、嘉永3年(1850)の火災による修復入用を賄うために別当龍眼寺が出願し、2月25日から4月5日まで開帳が行われ、御真筆・御影・神宝が公開され、作庭が3ヶ所、発句連の句会が開催され、境内では曲馬・手妻・鉄割りなど興行も行われ、百度石の他にも、狛犬・常夜燈・筆塚の3件がこの開帳に合わせて奉納されています。』
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千代田区指定有形民俗文化財の常夜燈一基。
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『この常夜燈は、本来、左右一対ですが、完形で現存するのは一基のみで、もう一基は残存している石材を積み上げて往時をしのばせています。寸法は、高さ3.45m余、幅・奥行ともに1.26mです。材質は、安山岩ですが、火袋には花崗岩が、基礎にも新しい石材が使用され、ともに後世に補われたものです。装飾は、火袋の左側面に月(三日月)、右側面に日輪の形が施されており、中台には祭神菅原道真にちなんだ梅鉢の文様が付いています。銘文は、竿に「常夜燈」(正面)・「奉納」(左側面)・「別当常全代」(背面)・「嘉永五壬午年二月吉祥日」(右側面)とあります。また、基壇にも、「雲龍堂」(三段目の正面)とあるほか、二段目及び三段目全体に世話人・発起人をはじめ「雲龍堂充國門弟」・「龍海堂門弟」・「充國門弟」の肩書をもつ多数の人名があり、嘉永5年(1852)閏2月にこれらの人々により奉納されています。雲龍堂と龍海堂は区内にあった寺子屋です。雲龍堂は、文政年間から文久年間(1818-1864)まで麹町8丁目(現在の麹町5丁目)にあり、町人の光國が教師となり、生徒数は250名(男150名・女100名)でした。龍海堂は、文化元年(1804)松田町(現在の鍛冶町2丁目)に開業し、町人の布施タキが教師となり読み書き・算術・活花を教え、生徒数は160名(男55名・女105名)でした。なお、嘉永5年は菅原道真公の950遠忌であり、当社でも2月25日から4月5日まで開帳が行なわれ、御真筆・御影・神宝が公開され、作庭が3ヶ所、発句連の句会開催、境内では曲馬・手妻・鉄割りなど興行も行われました。また、境内には、この開帳にあわせて作製・奉納されたと考えられる石造物が3件あります。(狛犬〔再建〕・百度石・筆塚)。この常夜燈は、区内の寺子屋とその関係者の天神社に対する信仰の様子を物語るものです。』
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こちらも古そう。
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手水舎。
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本殿裏手。
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神楽殿。
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平河稲荷神社。
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三殿宮。
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大鳥神社(日本武尊命)・塩神社(豊斟渟尊)・浅間神社(木花開耶姫命)。
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その他、筆塚(嘉永5年)。
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これは何だろ。
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布袋様(城西大学奉納)。
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平和慰霊碑。碑文…『南支派遣近衛歩兵第一聯隊第八中隊は 平河天満宮の社紋を奉戴し小林茂隊と称し南支那各地に転戦し 勲功を挙げた 終戦50周年を向かえ生存者及遺族相倚り賛華した戦友を慰霊し萬世太平を祈念し ここ所縁の地平河天満宮境内に慰霊碑を建立し禁闕守護の大任に服した近衛兵の名誉と皇室尊崇の誠心を 後世に伝えんとするものである』
付記…『昭和14年11月15日近衛歩兵第一聯隊第八中隊動員業務開始同月21日動員完結11月28日品川駅より勇躍征途に着く 11月30日宇品港出帆12月7日 広東省黄浦港上陸翌15年に亘り下記の作戦に参加して偉功を挙げた 翁英作戦 賓陽會戦南寧地区警備 欽寧附近掃討作戦 江南作戦 第二次西路作戦 仏印国境作戦南寧地区警備 欽寧撤去作戦 中山附近警備 賓陽會戦に於いて近衛混成旅団は軍司令官より感状を授与 昭和15年12月12日広東省唐家出帆 昭和16年1月3日東京芝浦港に上陸帰還 1月13日復員完結』
左の小さい石碑…『昭和14年11月近衛歩兵第一聯隊に動員下令され、第八中隊は麹町2丁目の家庭に分宿し、町会、麹町小学校、在郷軍人会、国防婦人会などの温かいご協力を得て動員業務を完結した。天満宮より社紋入りの小林茂隊旗を賜わり梅鉢隊と呼称し退院は梅鉢の社紋を襟に付けて歓呼の声に送られ勇躍征途についた。終戦50周年に当たり、慰霊平和の記念碑を所縁の地天満宮に建立し、併せて当時の恩義に対して深甚なる感謝の意を表すものである』
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