くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2015年09月

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かつての水沼村。東は小阿弥堰より分水する深味堰を境に矢沢村、西は五林村、南は藤越村、北は中野目村に接します。天文年間(1532-1555)の津軽郡中名字には「溝沼」とあります。
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御祭神は保食神。
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創建は不詳ですが、 延宝年間(1673-1681)に水沼村に観音堂を建立し、これを惣染宮と称え奉り、古より信仰厚く、付近の部落からも参拝者が多数訪れたと伝えます。
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本殿には棟札が残っており、「明和八年三月」「寛政三年六月」「天保二年九月」とあり、これによりますと氏子戸数少ないために、5年毎に神事を行なう状況であったといいます。
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明治3年に保食神社と改称し、御祭神は産業・農業の神である倉稲魂命を祀りました。明治6年村社。
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大正8年6月に拝殿内に祀っていた御神体を新たに造営した御本殿に移し奉り現在に至ります。
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三面六臂の馬頭観音。
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追分石(藤崎中学校の通りと国道7号旧道の交差点付近にあったもの)。
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天保年間の庚申塔。
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『旧村社水沼保食神社の創立年月日は不明であるが、延宝年間(1673-1680)に観音堂を建立、惣染宮と称してきたと伝えられている。したがって、最初は馬頭観音を祀っていたわけだが、明治3年の神仏分離により、社名も保食神社と改称、祭神も馬頭観音から、産業の神様でもある稲倉魂命を祀り、併せて、風神様(風邪の神様)をも合祀した。尚、境内には、藩政時代の追分石(昔の道路標識)が保存されている。祭日は、旧暦7月5日である。』
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県道3号線を走っていると、大宮地区付近の田んぼの向こうに赤い鳥居が見えます。県道から離れていますが神社付近まで車で行くことができます。
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御祭神は金山彦神、金山姫神、植山比売命。金山彦神・金山姫神は鉱業や鍛冶の神で、植山比売命は土を司る神です。
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貞享4年検地水帳によりますと薬師堂地、山神社、熊野堂地、稲荷社地がみえます。永禄年間(1558-1570)創建の深山宮は寛政5年(1793)に深山神社となりますが、旧来より久須志神社(薬師堂)の相殿でした。
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村民が新田地開懇と共に、延宝5年(1677)本殿を改築し、五穀豊穣・家内安全を祈願するため、工藤清太夫が勧請。以来、氏子で拝殿を改築。
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狛犬一対。
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立派な馬頭観世音碑(昭和33年6月19日建立)。
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二十三夜塔。
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二十三夜塔の近くにあった老木。
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根元は空洞になっており、ほぼ直角に曲がっています。
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なかなかの存在感です。
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男坂です。神田駿河台と猿楽町の間に位置する坂道。
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猿楽(後の能楽)は室町時代以降、多くの武士たちに楽しまれ、なかでも観阿弥・世阿弥の流れを受け継ぐ観世座は、江戸幕府から手厚い保護を受けていました。
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その家元観世太夫や一座の人々の屋敷が、現在の神田神保町1・2丁目から西神田1・2丁目付近にあったことから、この一帯に猿楽町という名が生まれたそう。
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江戸時代は主に武家屋敷が軒を連ね、元々武家地には町名が付けられていなかったため、猿楽町という町名が正式に誕生したのは明治5年(1872)。
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73段の急勾配。
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坂上から正面建物の階数と目線を合わせれば、その高さがわかると思います。
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標柱より…『この坂を男坂といいます。駿河台二丁目一一番地の端から猿楽町へ下る石段の坂「女坂」に対して名づけられたものです。この坂のできたのも比較的新しく、大正13年(1924)8月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。男坂は同一場所、あるいは並行してある坂の急な坂を、女坂はゆるやかな坂というように区別されて名付けられています。』
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続きまして女坂です。
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猿楽町と駿河台の間に位置する坂道で男坂に平行しています。
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82段とはいえ、勾配はかなりあるかと思います。
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標柱より…『この坂を女坂といいます。駿河台一丁目七番地の端から猿楽町に下る石段の坂"男坂"に対して名付けられたものです。男坂が一直線の急坂であるのにくらべ、中途で中やすみするようになっているので"女坂"と呼ばれています。この坂のできたのは、大正13年(1924)8月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。』
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坂上と坂下に石造の標識もあります。
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はっきり言って…男坂とさほど変わらぬ勾配です。
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猿楽通りにあった東京音楽大学発祥の地。
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『東洋音楽学校(現東京音楽大学)は、明治40年5月1日、この地に設立された。校長鈴木米次郎は、音楽教育の先駆者で、恩師でもある伊沢修一、高楠順次郎、島崎赤太郎らを評議員に迎え、わが国音楽文化の近代化を目指して創立した。』
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