くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2015年08月

五代村の地内を弘前城下から岳へ至る百沢街道が通り、また、地内百沢街道から、築館村・高館村を通って国吉村へ通じる目屋街道と呼ばれる古道が分かれ、両者の分岐点に追分石が置かれています。 右百沢街道、左目屋街道、中央には岩木山大権現と刻みます。 弘化2年(1845 ...

元々は向かい山と呼ばれていた山らしいです。 登り口にあった扇形の手水舎。 百周年記念碑…『明治13年(1880年)当古寺訓導(住職)三浦及察和尚が願主横内孫蔵若木甚平の取りまとめにより多数の参加を得ここ向かい山に三十三体の観世音地蔵菩薩像建立した。これ ...

浄土宗 鷲尾山 当古寺(當古寺)です。 津軽八十八ヶ所第二十四番札所。 国誌によりますと、野内集落の中央部菊川に、浄土宗の古庵である野内庵があります。同庵は青森正覚寺末庵であり、明暦3年(1657)に正覚寺3世良白の開庵と伝えます。 明治初年に當古寺と改称し ...

まずは本性寺です。 本性寺と北向き毘沙門天…『平等山本性寺の宗旨は日蓮宗。下総国小金宿平賀(千葉県松戸市)本土寺の末寺で、設立の縁起は家康の江戸入府に従って来た三河の郷士三田佐兵衛尉守綱(妙傳院殿蓮向日香大居士)が、麹町9丁目あたりに営んでいた隠居所を ...

鰺ヶ沢町七ツ石町。北は日本海、東は鮫戸橋を隔てて田中町、西は本町、南は七ツ館館跡がある丘陵(弘前藩第3代藩主信義の弟である百助信隆が館主。貞享4年検地水帳に古館とあります)。 当町南部にある滝広山(はじめは合浦山)高沢寺は創建は南北朝時代、道叟道愛を開祖と ...

岩手県奥州市水沢区。奥の正法寺(曹洞宗 大梅拈華山 圓通 正法寺)へ。 途中にあった新奥の細道案内板と休憩所。 その横に並んでいた石碑群。 正法寺駐車場近くに見えた小祠。 正法寺入口。 惣門です。 江戸初期の特徴を示す寛文5年(1665)建立の門。国指定重 ...

曹洞宗巧樹山臥竜院。慶長4年(1599)津軽為信開基、清翁の開山と伝えますが不明な点が多いです。 元々は鳳松院(弘前市)の旧地。鳳松院は慶長年間(1596-1615)に現在地に移ったとされます。 菅江真澄が「雪のもろ滝」の中で次のように記しています…『種里村にはいって ...

北金ヶ沢村は海岸沿いに形成された深浦台地上に発達し、南は白神山地に続き、北は日本海に面しています。 集落西側の字塩見形にある塩見形1号遺跡は縄文後期の土器、同2号遺跡は縄文晩期の土器・石器・土偶・玉類などが出土しています。 薬師堂。 地蔵堂。 稲荷堂。 ...

田舎館村田んぼアート。 第2会場です。 スター・ウォーズ フォースの覚醒。 芸術でございます。 パノラマ撮影じゃないと無理かも。 下から見ると普通の稲です。 なぜ第2会場にだけ行ったかと言うと、これを見たかったから… 高倉健さん! ...

昭和50年(1975)8月6日午前3時頃に発生した土砂災害による被災者の慰霊祭が今でも行われています。 3回忌にあたる昭和52年8月6日に建立された示現堂の上と境内に一体ずつ慈母観音像があります。 死者22名・重症23名・住家(全壊(焼)流失22棟22世帯86名・半壊23棟23 ...

御祭神は譽田別尊。 創立年月日は不詳。 延暦年間に坂上田村麻呂建立という伝説はあります。 杉館村は非常に古い集落で、正平15年(1360)6月5日の北畠顕信教書(盛岡南部文書)にある「津軽田舎郡冬井日野間両郷」の冬井郷を杉館にあてる説もあります。 ...

御祭神は誉田別尊。 元和元年(1615)勧請。 慶安元年(1648)村中にて再建。 関の産土神として崇敬されています。 社殿の柱が薄紅色。 本殿。 拝殿内。天明3年(1783)6月に加賀河北の甘夢を中心に鯵ヶ沢の化石らと舞戸の晩杏らが八幡宮に集まって句会をした際に奉 ...

浅虫の茶屋に講社ができました。その時の趣旨書によりますと「敬神愛国」の精神と国威顕揚のためにできたといいます。講員の資格には身分の高下、職業の尊卑を論じない誠心誠意吾が国の神道を信ずる人とあり、三條の教憲は朝夕肢膺すべしとあります。「身の主は、霊魂なれば ...

御祭神は塩土老翁大神。 以前は浜町胸肩神社、本町白八幡宮に合祀されていましたが、新町の人々によって昭和56年5月5日に社殿が造営され、一丁目沢天童山の下に祭られました。 新町の人々は塩の販売をしていたので、塩の守り神である塩竈明神を勧請。寛文10年頃(1670) ...

旧岩崎街道に沿う高台上にあります。案内看板より…『東・西・北の三方が急崖に囲まれた丘陵上に築かれた中世の山城。城の主な構造は二つの主郭、南側の幅約50mにも及ぶ大規模な五重の空堀、腰郭などからなる。嘉吉3年(1443)南部氏に敗れた安藤氏は十三湊を廃棄した後に ...

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