くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2013年10月

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廻堰大溜池の畔にある戸和田神社。
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津軽富士見湖パーク売店の近くになります。
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「明治21年4月19日村中 十和田神社」とありました。
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津軽富士見湖にまつわる悲恋伝説が拝殿内にあります。
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今から600年程前に鶴田町を統治していた清水城城主間山之守三郎兵衛忠勝は、白狐沢、高山方面にて狩をしており、高山で獲物を前に昼食をとっていたところ、東の方向にある隠里から煙が立ち上がっているのを発見します。
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その隠里まで馬をとばして行くと太右衛門の家でした。太右衛門宅にて馬を休ませて談笑していたところ、お茶を持って白上姫が現れます。間山之守は一目で白上姫と恋に落ちます。
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しかし翌年の秋、大溜池の堤脇に住んでいた豪農の権左衛門の媒酌にて琴姫と結婚することに。それを知った白上姫は失意のまま大溜池に身を投げます。姫の遺体は発見されませんでしたが、翌年の春、その遺恨は白龍となり、間山之守を苦しめます。間山之守は狂人となり琴姫を殺害し、自らも大溜池に身を投げます。この出来事を嘆いた白上姫の父らが白山姫神社と戸和田神社を建立したとか。
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水虎様を求めて訪れたのですが、このような伝説に基づき、龍神が祀られていました。『水虎様への旅~農業土木文化の時空』で紹介されており、御神体は自然石。
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ちなみに鶴の舞橋の休息所に設置されている案内板には以下のように記されています。
『白上姫と清水城主の悲恋物語。今から約600年前の春、野も山もしたたるような新緑に包まれまた中を清水城(現在の間山部落の一部である館の崎にあったという。)城主間山之守三郎兵衛忠勝は数人の若武者たちと共に白狐沢、高山方面で狩りをし、高山で獲物を前に昼食をとった。その時、東の方向にある隠里(廻堰字稲川)に煙が立ち上るのを発見した。日が落ちるには間があり、勢いに任せた間山之守三郎兵衛忠勝は隠里まで馬を飛ばした。草深い中にある目的の家は、太右衛門宅であった。疲れた馬に水を与え、主人と談笑していたところへ同家の息女である白上姫が茶を持って顔をみせた。丈なす黒髪、色白な容姿は清純な山百合を思わせ、間山之守は一目で白上姫を恋するようになった。その日から、間山之守は一人で狩りに出かけるようになった。雨の日も風の日も隠里の野山には二人の姿が見られた。こうして一年はあっという間に過ぎていった。ところが、翌年の秋、間山之守には当時、大溜池堤わきに住んでいた豪農太右衛門の媒酌で妙堂崎の半四郎の次女、琴姫と婚約が進み、間山之守はいつしか白上姫を忘れるようになっていった。そうとも知らぬ白上姫は、以前に約束した間山之守の正月用の晴着を縫うのに精を出していた。やがて晴着を縫い終わった白上姫は、サイカチの館(今の間山部落)清水城に通じる山道を急いだ。雪のちらつく日であったが、間山之守に逢いたい一心の乙女心には雪など少しも苦にならなかった。城に近づくと、普通の日と違って大変な人通りである。不審を抱いた白上姫は通りかかった人に聞くと、この日が間山之守婚礼の日と知らされた。手にしていた晴着が落ちたのも知らず、人目を避けて帰る足はいつしか大溜池の畔に姫を運んでいた。過ぎ去った日々の楽しい思い出が走馬灯のように脳裏をかけめぐり、今の我が身の惨めさがひしひしと感じられた時、水草が揺らぎ、波紋を残して白上姫の姿は水中に消えて行った。村人たちの必死の捜索も空しく、姫の遺体は発見されなかった。翌年の春小雨の降る日、大溜池に清水城へ向かって湖水を渡る白竜を見た人があり白上姫の遺恨が化身したものだと大騒ぎになった。この話を伝え聞いても間山之守は新しい生活の幸福におぼれて一笑にふしていたが、しばらくすると、夜毎に狂人の状態になり、藩士を呼び寄せては、切り捨てるようになった。ついには、愛妻の琴姫をも殺し、自らも城を抜け出し、吸われるように大溜池に身を投じた。このことを嘆いた太右衛門とサイカチ部落の人々は、一宇を建立し、来る年ごとに二人を供養したと伝えられ、供養のかいがあってか、それまで魚の居なかった溜池に、たくさんの「フナ」や「鯉」がいるようになったということである。やがて、この大溜池は津軽新田の水源地となり、戸和田神社は豊作の神としてまつられている。鶴の舞橋ステージの中央付近で手を叩くと"ビーンビーン"と反響音が聞こえてきます。もしかしたら、この音が白竜の鳴声かもしれません。』
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慶安3年(1650)に木村林右衛門によって開拓されたと伝える村。岩木川と十川(旧十川)の合流する氾濫原で洪水被害が多かった地域。
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『水虎様への旅~農業土木文化の時空』によりますと、こちらの祠は水虎様となっていますが風貌は翁です。祠には鍵がかかっております。
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『水虎様への旅~農業土木文化の時空』においては不明としていますが、男神で水や農業に関連しそうなものとして、山の神や猿田彦、もしくは白髭明神である可能性もあると示唆しています。
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道沿いにあった鳥居。
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「還暦紀念碑 虚空蔵艮上連」とありました。
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結構立派な石碑です。
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その他にも馬頭観世音や百万遍があります。
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こちらの穴の開いた石は薬師如来でしょうか。
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こちらも同じ通り沿いにあった馬頭観音。
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オシャレな馬車の上に乗っているのが珍しくて撮りました。
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一説によると不忍池の名は、かつて上野台地と本郷台地の間の地名が忍ヶ丘と呼ばれていたことに由来。縄文時代には東京湾の入り江に位置し、海岸線の後退と共に取り残された天然池です。
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1625年、江戸幕府は西の比叡山延暦寺に対応させてこの地に寛永寺を建立。開祖である慈眼大師・天海は、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ弁天島(中之島)を築かせ、そこに弁天堂を作りました。
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本尊の八臂大弁財天は竹生島の宝厳寺より勧請。
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当初の弁天島は文字通り船で渡る島でしたが、1672年に弁天島から東に向かって石橋が架けられ徒歩で渡れるようになります。
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明治初期までは池の形は現在と大きく異なり、池の北側は現在よりもかなり広く、藍染川(谷田川)という川も注いでいました。1884年に共同競馬会社による競馬場の建設に伴い埋め立てが行われて現在の形になります。池を周回する形で競馬場が作られたんですね。
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1929年に築堤工事により池が4つに分割されます。また、戦後の一時期は水が抜かれて水田(不忍田圃)となりました。
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宝暦十年(1760)庚辰三月吉祥と刻む石燈籠。
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本堂は八角形。
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現在の堂宇は1958年に再建されたもの。
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徳川家祈願寺寛永寺境内である中島に豊太閤護持の大黒天堂。
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実は最も歴史が古いと言われる聖天島。古地図のひょうたん形の小さな島の部分。
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現在は立入禁止の島ですが柵からでもある程度見学ができます。
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聖天島は観光客からも見逃されがちですが、かなり有名な(怪しげな?18禁w)髭地蔵(役小角)と呼ばれる石像もあって面白いですよ。
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さて、辯天堂境内にはかなり多くの碑が建立されています。その一部を紹介します。
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不忍池由来碑。
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魚塚。
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扇塚。
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包丁塚。
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いと塚・鳥塚。
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スッポン感謝之塔。
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琵琶の碑。
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芭蕉翁の碑。
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十二世世杵屋六三郎讃碑。
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幕末之剣豪櫛淵虚冲軒之碑。
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八橋検校顕彰碑。
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ふぐ供養の碑。
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めがね之碑。
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徳川家康が愛用した眼鏡をかたどっています。余談ですが日本で現存する最古の眼鏡は静岡県の久能山東照宮博物館にあり、徳川家康の愛用眼鏡らしいです。
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利行碑。
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放浪の画家・日本のゴッホ長谷川利行の経歴が書かれています。
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他にも暦塚など色々あります。さてと、池之端藪蕎麦で蕎麦食べて帰りますかー。
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