くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2013年08月

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何か今更感もありますが弘前城天守の紹介。
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弘前藩初代藩主津軽為信が津軽地方を統一したのが天正16年(1588)。
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新しい城の地として高岡(鷹丘)を選定したのが慶長8年(1603)ですが、為信は完成を見ずに慶長12年(1607)京都にて客死し、2代藩主信枚が同16年(1611)に完成させます。
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当初の高岡城には5層の天守がありました。現在の本丸未申櫓跡の石垣が当時の天守台です。
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寛永4年(1627)に落雷により天守内部の火薬に引火し爆発。この火災は藩主信枚の伯母(初代津軽為信の正室・阿保良の姉)の祟りと当時はいわれ、時折伯母の怨霊が城内に現れていたと伝えます。
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土地の旧名である高岡から現在の弘前に改められたのはその翌年で、これには魔除けの意味が込められたと伝えます。※(天海が天台密教での破邪の法・九字護身法から弘前と名付けます。但し九字護身法は「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」であり、弘という字については不明。単純に「前に弘がる」という意味なのか、はたまた「弘法利生・弘法大師」から取られたのか。なお、天海は津軽家を語る上で超重要人物。)
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その後の弘前城は長いこと天守を持たない城となります。これは武家諸法度により天守新造の許可が得られなかったためといいます。
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文化7年(1810)、9代藩主寧親の頃、ロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府は弘前藩に蝦夷地警備を命じ、あわせて天守の造営を認めました。
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とはいえ、本丸辰巳櫓の改修を名目としており、天守とは見なさず、御三階櫓として扱われていました。後に事実上の天守として最も北に位置する現存天守として貴重なものとなりました。
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弘前城の天守閣が小さい理由と経緯がわかりましたね。
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『春の弘前 桜の都 お隅櫓に 枝さしそえて 咲いてそろって はらりと散って…』
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天守は層塔型3重3階の建物で、現在は独立式ですが、往時は北側に多聞櫓を付属させた複合式でした。多聞櫓は明治29年(1896)頃までに破却。
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天守の高さは約14.4mで、現存する三重天守の中では最も低いものですが、外側に面する東面・南面には1、2層目に大きな切妻出窓を設け、窓には狭間窓を用いて、小さな建物を華美で大きく見せるという視覚効果が施されています。
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一方、北面・西面は破風も狭間も無く、連子窓を単調に並べただけのもので、所謂二方正面となっています。北面・西面が簡素な造りであったのは幕府の目を欺くためともいわれています。
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現在は弘前城史料館として藩政時代の史料・資料を展示。
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高所恐怖症には嬉しくない武者落。
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屋根には鯱。
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天守台は石を方形に切り出して隙間のないように工夫した切込み接ぎという方式が採用されています。かつての石垣の修理は享保4年(1719)に修復願いを提出し同7年完成。また、直近では明治29年(1896)に崩落、その修復が大正5年(1916)まで行われています。石組みにはかなりの技術を要しており、仕手人として摂津国から前田与八郎と草竹平十郎を呼び寄せています。2016年度に石垣修理が予定されています。
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昔からイルミネーションとかやっていたんですね。
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昔の天守閣。
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明治40年頃。
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弘前城本丸より紹介していきます。
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旧天守閣跡(本丸未申櫓跡)です。
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弘前城築城当初の5層の天守があった場所になります。寛永4年(1627)に火災により焼失。文化7年(1810)まで天守の新造が認められなかったため、本丸未申櫓が建てられていました。
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藩庁日記によりますと、元禄7年(1694)に石垣を修理した際、不動明王の梵字を刻んだ石が出土し、その石は最勝院に保存されているといいます。
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櫓からは岩木山や下町が美しく見えたんでしょうね。現在の高さでは無理だなぁ。
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禅林街ははっきりとわかりますね。
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本丸戌亥櫓跡。
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城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られました。防弾・防火のために土蔵造りで、元禄3年(1690)にとち葺の葺替えが終了したと伝わっています。また同9年には、櫓下にあった番所の修復も行われたとされ、北の郭から櫓台下、本丸への通路がありました。
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鷹丘橋が見えます。ここから真下の蓮池には大石があります。
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津軽為信像。
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現在は弘前市文化センター前に津軽為信銅像があります。これは平成16年4月に古川武治、武彦父子が制作したものです。かつての津軽為信像は明治42年に山崎朝雲が制作したもので、本丸に建立されていました。昭和19年に太平洋戦争における金属回収によって秋田県小坂鉱山へと送られてしまいました。あっ、武徳殿の位置はここだったのかぁ。
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在りし日の本丸津軽為信像。
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御日記蔵跡です。
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弘前藩庁御国日記と呼ばれる日記は、寛文元年(1661)に4代藩主津軽信政の初入部以降、明治に至るまで綿々と書き続けられ、津軽藩政のみならず近世幕藩体制を知る重要な史料となっています。この日記は現在4200冊余が残されており、これを保存した蔵がここにありました。
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石垣際に建てられていたようです。石垣の角(鶴の松横)の石垣には見張場。
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御金蔵跡。寛文13年(1673)の絵図に既に記載が見られますが、延宝8年(1680)に建設されたとも言われています。確かに古地図ではちょっと場所が違うような気がします。
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元禄4年(1691)には屋根が瓦葺であったと伝わっています。入口前には番所も置かれ、有名な古木として5つ葉のヒメコマツがあったといいます。また「牛こなかせ」と呼ばれた小高い場所でした。
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御金蔵跡の隣の高台。
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立入禁止になっていますがここへ上がる石段があります。
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この高台にはかつて何かが設置されていたのでしょうか。
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反対側の石垣手前にはかつて番所がありました。
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そういえば未申櫓の近くにも石段だけが残っているのを思い出しました。ってことは石製のベンチがあったのかな?
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最後に…
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三角点(笑)
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弘前城本丸を紹介していきます。
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まずは下乗橋です。
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内濠を隔てて本丸と二の丸に架かる下乗橋。
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藩政時代には二の丸側に下馬札が置かれていたのが由来となっています。築城当初、橋の両端は土留板でしたが、文政11年(1811)に石垣に直しました。
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以前の擬宝珠欄干は十二支をかたどったものでした。
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現在の擬宝珠には大正3年とあります。
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天守から見た下乗橋。
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下乗橋を渡ると武者屯御門跡。
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長勝寺構の黒門と同様の高麗門形式で、門扉は2枚扉になっていたといいます。
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門の内側には番所があり、さらに門の両脇に袖塀があったことが古い写真からわかっています。
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二の丸と下乗橋で区画され、本丸に連絡路で続くこの一郭が「武者屯」で、合戦の際には大将が軍装を整えて号令を発する場所となっていました。
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本丸御殿玄関礎石。
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この礎石に玄関の柱が建てられていました。御殿は日常の事務を行う表と、藩主が政務を行う中奥、藩主の日常生活の場の大奥に大別されます。
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また、本丸には能舞台や御武芸所など敷地の7割ほどに各種の建造物がありました。
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本丸井戸跡。
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本丸内には数か所の井戸がありましたが、現在は確認できるのはここだけです。
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井戸は石や砂で埋められています。
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安山岩をくり抜いた堅牢な造りで、周囲は番所や塀が廻されていました。
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在りし日の本丸井戸。
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御滝桜です。大正3年に植栽されました。棟方志功が命名したとか。
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1973年5月2日に最勝院五重塔、品川町の胸肩神社、そして弘前公園内の亀石と鶴の松にてスケッチ。
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その際に「ニューヨークやワシントンの桜も見たがやっぱり弘前の桜が世界一だよ」と絶賛しています。
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アイグロマツ(鶴の松)。
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鷹揚園内随一の名木。老鶴形に仕立てられた美しく優雅な形をしているところから「鶴の松」と呼ばれています。
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向かいの石垣の中心に「亀の石」と呼ばれる大石があり、「鶴の松」と並び称されています。
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下には鶴の坂が見えます。
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石垣の亀の石(2.5m四方)は亀の甲羅に形が似ており、鶴の松と対面することに由来するといわれます。
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下白銀町付近の外濠にかつてあった大石、本丸の亀石、そしてこの蓮池の玄武岩を線で結ぶと一直線に北の方位を指します。
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蓮池の玄武岩が亀の頭で、本丸の亀の石は甲羅、そして外濠の大石は尾を表して、これらを玄武に見立てたという一説があります。
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これら3つ巨石はいずれも慶長15年(1610)から始まった高岡城築城の際にソリを使って持ち込まれたといい、亀の石は和徳もしくは目屋の山奥から切り出したと伝えます。
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大正3年(1914)に植栽された弘前枝垂れ。
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この樹は似た環境にある御滝桜よりも開花が3~4日も早く、花弁の枚数が7~8枚となり、不通のシダレザクラとは異なることから弘前枝垂れと呼ばれています。
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ウラジロモミです。
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9代寧親公の頃に日光から取り寄せたと考えられています。樹齢200年以上。
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園内で初めて強剪定を施したシダレザクラ。
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「サクラ切る馬鹿、ウメ切らぬ馬鹿」という諺の通り、かつてはサクラは切ってはいけないものと考えられてきましたが、このサクラをリンゴ栽培技術を参考に剪定したところ樹勢が回復したため、その後は園内すべてのサクラを剪定するようになりました。
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