くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2013年07月

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寛永末年の津軽弘前城之絵図では、子の櫓、門に囲まれた入母屋造りの平屋の建物、渡り廊下で繋がれた長屋風の建物などが見られる場所。館神の入口には平屋の建物が配置。
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宝暦6年の御本城絵図によりますと、館神が記載され、更に文化2年の御城郭分間真図では屋形風の建物はなく、御宝蔵や御蔵が記載されており、郭の使用形態が時代によって変わってきたことを伺わせます。
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北の郭への直接の入口は2ヶ所(本丸からも行けます)。
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二の丸から入る際の売場を古地図の見張場から撮ってみました。
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地図の赤い場所辺りが現在の入場券売場です。手前には北門という文字が見てとれます。
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こちらは子の櫓跡です。木製デッキが設置されていました。
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北の郭北東隅の土塁上には、藩政時代を通して3層の櫓がありました。櫓の中には、武具の他に藩庁日記なども保管されていたと言います。
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廃藩置県以降もその姿を留めていましたが、明治39年(1906)に花火のため焼失。焼失理由として煙草とか花火とか残念な原因が多いですね(笑)
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ここから見下ろした草木の生えていないちょっとしたスペースにもかつて何かがあったのでしょうかね。
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平成13年度の発掘調査により、正方形に並ぶ櫓の礎石と石段が確認されました。
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櫓の礎石には、石切の際の矢穴や柱を据えた凹みのあるものがあり、中央には束石があります。
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櫓の規模は4間×4間(約8×8m)であり、二の丸に現存する3棟の櫓と同規模。
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櫓の基礎及び石段については発掘調査で確認されたままの状態で表示されています。
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鷹丘橋(平成10年架け替え)は内濠を隔てて本丸と北の郭に架かる橋。
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弘前城の旧名である鷹丘城(高岡城)に由来します。
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1670年(寛文10年)に4代藩主信政が母の屋敷のある北の郭を行き来するために架けられた橋で、戦の際には敵の侵入を防ぐために壊される橋だったそうです。
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弘前公園の敷地全体が南から北に向かって緩やかに傾斜しているため、杉の大橋や下乗橋に比べて橋げたも低くなっています。
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古地図では橋の本丸側不通門があり、その後ろに見張場があります。
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国指定史跡の標識。
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碑の設計は河井寛次郎の唯一の内弟子で、弘前市出身の陶芸家・こぎん研究家である高橋一智。

鷹揚園碑。
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弘前公園の雅名は、のちの大正天皇が命名され、名称表示碑は三の丸追手門前と弘前中央高校入口近くに建立されています。
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前田光世碑(明治11年(1878)~昭和16年(1941))。
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船沢出身。弘前高校中退。講道館を代表し、世界に柔道を広めるため渡海。2千試合を超える異種格闘技で無敗を誇り、スペイン語で伯爵を意味する尊称を受けてコンデ・コマと称しました。ブラジルに移住し、アマゾン開拓の父とも評されたそうです。史上最強の柔道家としてとても有名な方です。
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福士幸次郎碑(明治22年(1889)~昭和21年(1946))。
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大正3年に口語自由詩の先駆けとなる詩集「太陽の子」を出版。新進の評論家としても名高く、大正15年に「地方主義行動宣言」、昭和17年に「原日本考」を発表し、多くの郷土の文学者に影響を与えました。佐藤紅緑と親しく、サトウハチローの後見人でした。木々高太郎を弟子に持ちます。1932年に日本ファシズム連盟を結成。

菊池九郎碑(弘化4年(1847)~大正15年(1926))。
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弘前藩校の稽古館に学び、外国人宣教師を雇用するなど、東奥義塾の創設時の中心的役割を果たしました。東津軽郡々長などを経て政界にも進出し、明治22年に初代弘前市長に就任(第7代弘前市長にも再度就任)。東奥日報社を創始し、山形県知事、衆議院全院委員長等など歴任。東奥の西郷隆盛と称されました。甥に山田良政、山田純三郎兄弟がいます。東奥義塾時代の教え子には陸羯南がいます。
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鷹揚園記碑。
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明治41年(1908)、のちの大正天皇が御来園され、武田知事が公園の雅名を乞い、鷹揚園と命名された記念碑。
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皇太子殿下御手植松碑。
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明治41年(1908)の御来弘の折に、のち大正天皇がクロマツを植樹。この一角は宮家や旧藩主の津軽承昭も植樹しています。

伊東梅軒碑(文化12年(1815)~明治10年(1877)。
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弘前藩校の稽古館に学び、江戸に遊学。長州萩城下で吉田松陰に面会。嘉永5年(1852)に吉田・宮部鼎蔵(熊本藩士、尊皇攘夷派)が宿泊し、海防を議論しました。
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蒲田廣碑(安政2年(1855)~明治35年(1902))。
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「がつぎたひろし」と呼びます。東奥義塾の教師から弘前市議・県議に転向。菊池九郎の委託で東奥日報社の経営に参加し、新聞人としても自由民権を主張し活躍しました。在任中には八甲田雪中行軍遭難事件が発生。外崎覺撰文・犬養毅書。

工藤行幹碑(天保12年(1841年)~明治37年(1904年))。
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弘前藩校の稽古館に学び、民部省などで任官。帰省後は東・北津軽郡長として岩木川の改修請願運動を推し進め、明治23年の国会開設に際し代議士に当選。進歩党の領袖として活躍し、近衛篤麿らとも親交がありました。外崎覺撰文・犬養毅書。

一戸兵衛碑。
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安政2年(1855)~昭和6年(1931)陸軍の戸山学校に学び、西南戦争・日清戦争に参戦。日露戦争で歩兵第六旅団長となり、のち大将に昇進。
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陸軍三長官の教育総監を退役後、学習院院長や明治神宮宮司として活躍。大成小学校などに揮毫があります。
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宇都野研歌碑。
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愛知県出身の医師・歌人。昭和4年に「剄草」を創刊し、当地の成田憲三・笹森壽子(順造夫人)も参画。12年に来弘。
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『行く道の空に さくらのちり みだれ覚めて 見る夢の如き ひととき』
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弔戦役諸霊碑。
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明治3年(1870年)建立の野辺地・箱舘(函館)戦争など、県内最古の戊辰戦争の戦没者慰霊碑。
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西舘孤清碑(文政12年(1829年)~明治25年(1892年))。
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幕末の京都駐在の用人で、佐幕・勤皇の藩論が混乱の折、朝廷の令書と近衛家の教書を携えて帰藩。これが藩論を勤皇に向け、奥羽越列藩同盟を脱したことから、旧城は明治政府による破壊を免れ、旧態を今に伝えます。弘前城ととても関連深い重要人物ですねぇ。
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大演習賜宴。
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大正4年(1915年)に開催の特別陸軍大演習の統監で来弘された大正天皇の祝宴記念碑。

消防記念碑。
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昭和14年(1939年)の消防組織の改革を記念して建立された、園内で最大の碑。

護国神社境内に『消防弔魂碑』もあります。
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表忠碑。陸軍少将大勲位功三級貞愛親王篆額。
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葺手町。旧町名になります。石畳風に舗装された道路にオシャレなcafeなどもある素敵な通りです。
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『慶安四年(1651)盛岡の二十三町ができた。このとき岩手町が材木町に変り、屋根葺町が葺手町に改められた。葺手町は肴町の北一丁半、屋根葺が多く住んでいた。紺屋町から葺手町へ出る横道を、愛染横町と言った。藩がはじめて瓦葺を許したのは、寛保元年(1741)である。布告には「これは火のもと用心のため許されるものだ。侍屋敷や寺町、どこの町にも許される。」ということであった。火事が恐しいので、藁葺、柾葺より瓦葺が安全ということになったのであろうが、昔は大火が多かった。葺手町の戸数は、天明八年(1788)の調べで38戸、住民は327人とある。同じ調べで大工町が226戸で715人とあるから、葺手町の方が、一戸当たりの住民の人数が多い。小さな長屋風の住居が並んでいたものであろう。』
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寛永年間(1624~1644)頃は葺手町には切支丹が住んでいたらしいです。南部藩が山城の国から鳥山葛右衛門という屋根葺き名人を招いて城下町の居宅の改造に乗り出したそう。萱を使った屋根は葛屋根・葛葺き屋根と呼ばれ人々に愛されました。前述のとおり、屋根葺町は慶安4年8月16日に葺手町と改められ、承応4年には葺手丁となります。明治になると屋根葺き職人の家業も建家持、盆石持、雑菓子屋、蕎麦屋、馬車屋、人力車屋などに変わっていきます。
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愛染横丁から見た東家本店。
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盛岡商工会議所のHPに昔の写真などが掲載されており、大変面白いです。
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こちらはかつて歯科医院だったらしいです。趣のある建物です。
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提灯の中直。
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創業130年以上。
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紺屋町の老舗白沢せんべい店。昭和11年創業。
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雑貨屋の森八商店。平成16年盛岡市都市景観建築賞。紺屋町番屋隣。
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草紫堂。紫根染の店。昭和8年(1933)創業。
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白壁の蔵造りが素敵な釜定。明治時代から続く南部鉄器の老舗。ここは素敵なものがいっぱいでつい買ってしまいそう。
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特に盛岡天満宮に行ったことがある方なら絶対に買ってしまいそうなものも…たまらんです(笑)
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雑貨屋のござ丸(茣蓙九・森九商店)。文化13年(1816)創業の商家。
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この建物は江戸時代後期、明治中期、明治末期と次々に建てられたもので、藩政時代からの商家の姿を今に伝える建造物。
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広い敷地内には店舗、住居、土蔵等数棟が建てられており、紺屋町道路側からは店舗と住居が見え、中津川側から蔵や塀を見ることができます。
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今回散歩中に発見した建物の中でも個人的に最も趣を感じました。しかも現役です。
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さて、少し離れますが、盛岡八幡宮前を通って鉈屋町方面へ。
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あっ!空白さんが立ち寄ってた石澤和竿毛鉤店だ!隣の蕎麦屋も美味しそうでした。
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鉈屋町。
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『京都の富豪鉈屋長清が当地に来て、釶屋山菩提院という寺を建立したことに由来する。菩提院は後に内加賀野に移されたため、昔はこの寺院の前も鉈屋町と称し、2つの鉈屋町が存在したこともあったが、文化9年(1812年)に改められて、当地を鉈屋町として城下の一町とした。
当町の西側に水主町があり、文化年間に用水桶を町内に設ける藩命があった時には、水主町のほか当町から上小路の曲り角で中野村枝村十文字をも含めて鉈屋町といった。
水主町は、北上川の舟運に従事する船頭などの住む町で、新山舟橋を管理する役目も持っていた。また、藩主の飼っていた鶴の餌にする川魚を捕る仕事などもしており、小禄であるが、藩から扶持を得ていた。
また、当地は江戸時代から良質の湧水が豊富な地域で、酒・味噌・醤油などの醸造業が盛んだった。それを今日伝える大慈清水、青龍水は盛岡三清水に数えられ、平成の名水百選に選ばれている。』
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盛岡市鉈屋町の旧岩手川跡にある大坪瀬左衛門屋敷(明治35年建築、簗川村川目より移築、浜藤酒造店)&文庫蔵(昭和前期建築)です。大慈寺地区コミュニティ消防センター隣。
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裏手(ユニバース側)には浜藤の酒蔵(江戸末期-明治前期建築)&大正蔵(大正10年建築)がありますが、いずれも改修中でした。
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第二分団旧番屋隣にある旧藤原家町家(藤原毛皮店)。旧藤原家町家。
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明治期のものらしいですが恐らく最近修復が行われたのでしょう。とても綺麗な建物になっていました。
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日本映画史上屈指のグラマー女優として有名な三原葉子の実家らしいのですが…そもそも誰なのか知らない(笑)
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こちらは鉈屋町の隣町。
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南大通の上野豆腐店。創業は安政年間。
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地元人にも観光客にも愛される名店。
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最後に盛岡城警備惣門遺跡の石柱。
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こちらも南大通。
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岩手県指定文化財の木津屋池野籐兵衛家住宅(天保5年建築で松材を主に用いた土蔵造りの商家店舗兼住宅)隣付近です。
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今回は急遽訪れ、時間もなかったため、またゆっくりと散策したいです。そのくらい素敵な街でございました。
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