くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2013年07月

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臨江庵の北隣に位置。
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本尊は釈迦如来。寺社修験本末支配之記によりますと聖寿寺末。
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盛岡三十三観音第3番札所。
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寛永年間(1624-1644)の創建。聖寿寺涼室宗蔭を招請して弟子法岩常公が開創。
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元禄2年(1689)同寺中興の大道生安の伝法を得た大輪祥睦が住職となって当院の中興開山として基礎を確立し現在に至ります。盛岡砂子によりますと寺領は20石あり、長慶院の寄進とされます。
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安置される子安地蔵はかつて陸奥三戸城に祀られていましたが、盛岡藩3代藩主南部重信の側室である長慶院が、上田の高源寺に移し、同院没後に聖寿寺に移されて地蔵堂に安置されましたが、地蔵堂が火災に遭い、聖寿寺に安置されます。
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しかし同寺は南部家代々の菩提寺として、一般庶民の参詣が許されなかったため、住職大道が末寺の当院境内に安置したそう。
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地蔵尊は慈覚大師円仁の作と伝え、安産祈願に霊験があり、祭礼には人々が群集したそう。
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現在は夏祭と年越祭に開扉されます。子安延命地蔵菩薩坐像は室町期の地方作として貴重なもので盛岡市指定文化財です。
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茶筅塚がありました。塚の前で使い込んだ茶せんを燃やす茶せん供養が行われています。
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境内では猫中佐がずっと爪とぎしていました。
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こちらの方も気持ち良さそう(笑)
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館神跡です。2代藩主信牧が太閤豊臣秀吉の木像を御神体として安置した場所。
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藩主や場内の安全などにかかわる加持祈祷が取り行った場所で、ここへ出入りできたのは、藩主や神官やその家族などの限られた人のみでした。
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表向きは稲荷社となっていますが、その後ろには厨子があり、その厨子は一度も開かれることがない開かずの宮と呼ばれてきました。
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明治になり、開かずの宮の扉を開いてみると、白布に包まれた太閤豊臣秀吉の木像がひっそりと安置されていたのです。
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秀吉像は昭和32年(1957)に津軽家から革秀寺へ寄託されて現在に至ります。ちなみに稲荷神は市立博物館で見たことあります。
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平成11~12年の発掘調査では、鳥居の礎石や本殿の柱穴、柵列跡などの遺構が確認されたほか、藩政時代の陶磁器や時が多数出土。
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発掘された遺構は盛り土により保護され、その上に鳥居の礎石や柱、本殿の柱、柵列の柱を表示。
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ちなみにこの場所は昭和8年(1933)に鹿苑となり、その後バラ園としても整備された経緯もありますが、このことについてはあまり触れられることはないようです(笑)
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さくらまつり期間にはカメラマンがいっぱいいる場所ですね。
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寛永末年の津軽弘前城之絵図では、子の櫓、門に囲まれた入母屋造りの平屋の建物、渡り廊下で繋がれた長屋風の建物などが見られる場所。館神の入口には平屋の建物が配置。
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宝暦6年の御本城絵図によりますと、館神が記載され、更に文化2年の御城郭分間真図では屋形風の建物はなく、御宝蔵や御蔵が記載されており、郭の使用形態が時代によって変わってきたことを伺わせます。
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武徳殿です。
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この場所にはかつて武徳殿と無料休憩所などがありました。
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武徳殿は柔剣道の練習場として明治末期に建設。建築当初の武徳殿は寅武場と呼ばれており、平成9年(1997)に弘前市が行った発掘調査では建物の前に門があったことがわかっています。
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太平洋戦争中の昭和17年(1942)に修練道場が建設され、昭和27年(1952)には公園管理事務所が整備されると共に無料休憩場が設けられました。
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平成15年(2003)に改修されて、武徳殿休憩所となり、かつての無料休憩所は和風庭園になりました。
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平成11~13年に行われた北の郭発掘調査の遺物の一部も展示されています。
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籾蔵跡です。ここには津軽為信の正室である仙桃院が住んだといわれる屋形があり、その後、4代藩主信政の生母である久祥院の屋敷として整備され、宝永元年(1704)以降は宝蔵や籾蔵が建てられ、廃藩置県の頃には籾蔵が建ち並んでいました。
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平成12~13年の発掘調査で、籾蔵を構成する礎石列が確認されました。礎石は約1m間隔で並び、東側および南側は後世の建物のため失われていましたが、12間×4間(約24m×8m)の規模であることがわかりました。この籾蔵が建てられた時期は19世紀前半であると考えられています。
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