くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2013年05月

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弘前市富田町に参道入口があり、本殿自体は南富田町になります。
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小さい神社ながら大切にされているのがわかりますね。
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金山毘古命・金山毘売命(古事記表記)の掛軸がありました。
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この夫婦神は伊邪那美命の嘔吐物から産まれた鉱山の神で八神のひとつ。御祭神でしょうね。もう一つの掛軸には大山祗命・金山彦命(日本書紀表記)・水速女命。
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大山祗命(大山津見神)は伊邪那美命が産んだ四神のひとつで八柱の山神です。
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水速女命(弥都波能売神)もまた伊邪那美命の尿から産まれた八神のひとつ。和久産巣日神と共に産まれています。
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末社の三洲豊川稲荷。
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南冨田町の豊川稲荷大明神と関連があるのでしょうか。
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三浦寅吉翁の碑(昭和18年)。
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大正3年以降、富田町の火防衛生組合役員、町会長等々になり、町内の和協発展に貢献した旨に対する感謝の言葉が書かれていました。
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社号標の裏。「昭和18年旧5月12日三浦寅吉」。
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小さい神社な上に通りに面していないため、非常にわかりにくい場所にありますが、この地域では6月に宵宮が行なわれているようです。
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弘前文化センターは弘前城方面を正面として下白銀町所在とし、一方、かつての時敏小学校は元寺町方面に正門を構えて元寺町所在としています。
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時敏小学校は明治7年に亀甲町の旧藩米倉を校舎として開校した亀甲小学と同10年に百石町に開校した盈進小学を統合して同19年に誕生し、同20年に現在のNHKの場所に新築されました。
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小学校令によって尋常小学校や高等小学校がつくられることになると、明治20年に文化センターの敷地に弘前高等小学校が開校、明治35年に蔵主町に弘前第二高等小学校が開校。
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時敏尋常小学校は大正3年に元寺町の旧第一高等小学校に移転し、第二高等小学校を収容して高等科と補習科を併設し、時敏尋常高等小学校となります。更に大正7年には弘前女子実習補習学校が高等科に併設。ちなみにこの弘前女子実習補習学校が同14年に弘前女子実業学校となり、蔵主町の弘前商業補習学校(弘前商業学校)と合体して現在の弘前実業高校になっていきます。
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最初の時敏小学校はその後公会堂となりました。その公会堂はというと大正12年に実業家藤田謙一の寄付により上白銀町に新築移転され、昭和33年に市庁舎建設のために解体され、その代わりとして昭和39年に現在の弘前市民会館が誕生。そして弘前市民会館と同居していた弘前市立中央公民館はというと、現在は弘前文化センター内に設置されているという…面白いですよね。
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玉成高等小学校跡地の碑はかつての正門付近に現在もひっそりと建立されています。現在の弘前中央高校のグラウンド。
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弘前中央高校のグラウンドは明治32年4月1日創立の中津軽郡清水村外十ケ村組合立玉成高等小学校の敷地だったのです。
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明治5年の学制では下等小学・上等小学各4ヶ年を修学制年限としていましたが、明治13年に改正されて教育令の施行となります。同19年の小学校令によって尋常小学校と高等小学校に分けられます。
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弘前においては教育令によって同18年1月に大成小学校に高等科が併設されていましたが、小学校令によって廃止され、同20年1月に現弘前文化センターの敷地に弘前高等小学校が開校されました。
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ところが同21年の市町村制によって翌22年4月には弘前市が誕生して中津軽郡から分離され、弘前高等小学校は弘前市の管轄となり、中津軽郡の村は新たに高等小学校を設立しなくてはならなくなったのです。
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しかしながら敷地は中津軽郡全村の共有敷地だったため、やはり弘前高等小学校に収容することにはなったのですが、年々増加する入学者により相当な数となってしまい、清水村外十ヶ村(豊田、和徳、駒越、藤代、高杉、千年、堀越、大浦、岩木、相馬)が十ヶ村学校組合を結成し玉成高等小学校が誕生。玉成高等小学校は農村の指導者養成を目指す独特な校風を作り上げ、各村の連携強化にも役立ちました。
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昭和22年の6.3制実施により玉成高等小学校はその使命を終え、校舎は和徳村立和徳中学校及び弘前市立第四中学校の校舎となります。
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四中が同28年に樹木へ移転した後は火災にあった弘前地方裁判所が一時使用して、和徳中学校は同33年に弘前市立第一中学校と統合して廃校となり、同34年に青森県第一高等女学校(昭和25年に青森県立弘前中央高等学校に改称)の敷地になります。校舎は弘前中央高校本館建築の仮校舎として使用された後の昭和47年に解体されて完全に姿を消しました。
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定番の木造駅遮光器土偶駅舎。
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古き良き雰囲気が残る駅前通り。
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う~ん…レトロというかノスタルジックな雰囲気が素敵♪
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津軽百年食堂として有名な神武食堂。
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その隣には
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桜庭歯科。
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木造2階建で縦長の上げ下げ窓を採用。
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正面ラペットは大きなレリーフを施し、その上部を嵩上げしより印象的な建物になっています。
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正面化粧柱と開口部周りは他の外壁と色彩を異なることで建物の正面性を強調しより立体的に見せています。 
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株式会社奈良組。
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川村洋服店。
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佐野商店。
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ほんと素敵過ぎる!
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木造の地サイダーである「矢の根弓サイダー」を製造・販売していました。
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貞享元年(1684)に木作代官所内に建てられた御仮屋跡地へ向います。御仮屋跡地は現在の銀杏ヶ丘公園。
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記念碑等がいっぱいありました。
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上原げんと碑。上原賢六の兄で作曲家。木造では上原げんと杯争奪のど自慢大会が開催されているそう。
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松木静四郎碑。『古典讃歌』。マンドリン奏者です。
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慶応義塾幼稚舎 疎開学園の碑。
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戦時中の1945年7月、慶応義塾幼稚舎はこの地に疎開学園を開設。1~6年生の約140人が疎開し、旧制木造中学校(現銀杏ヶ丘公園が跡地)の寄宿舎、西教寺、慶應寺に分宿しながら4ヶ月を過ごしたそうです。町民との交流は戦後も続いたそう。
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上原賢六碑。
「大正13年6月、木造町に生まれる。主に、石原裕次郎さんのヒット曲の数々を作曲し、評価される。代表作に「赤いハンカチ」「俺は待ってるぜ」「錆びたナイフ」「夕陽の丘」等多数。
作曲家上原げんと氏の実弟、昭和55年9月14日没。偉業を讃え、木造ライオンズクラブ設立35周年の記念事業としてこの碑を建立する。」
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公孫樹。
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「昭和60年4月4日つがる市指定文化財。新田開発の大業完成近く津軽4代藩主信政公が木作御仮屋改築の工事を起こし、これが落成した貞享元年(西暦1684年)8月自ら鍬をもって庭前(北の方)に1株お手植えされたものであります。現在幹の周囲7米高さ25米あります。乳の出ない主婦がこの木に祈願すれば必ず乳が出ると伝えられています。」
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千代の松。
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「昭和60年4月4日つがる市指定文化財。津軽4代藩主信政公は新田開発の大業が、やや成った貞享元年(西暦1684年)木作代官所内に御仮屋(仮館)を建築し、その落成を記念して松をお手植えになり「千代の松」と名付けられました。」
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