くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2012/11

本尊は十界曼陀羅。もと本満寺(現京都市上京区)末寺。 正徳元年(1711)の寺社領分限帳によりますと、天文2年(1533)賀田村(旧岩木町)に創建されて、堀越村を経て、慶長16年(1611)弘前寺町へ移り、正保年間(1644-1648)に現在地へ。 開山・開基は不詳。重宝錦 ...

御祭神は大道寺力命、オリ女命。創立年月日不詳。 藩制時代には五林権現堂と称されていました。安政2年の棟札に「奉再興五林権現堂」とあります。 文治・建久の頃、頼朝公の追討軍に発覚された義経の家臣大導寺力は、大導寺沢に立籠り、衆寡敵せず、遂に討死。五林村で同 ...

弘前実業高校方面が参道正面になります。 神社前に身代子育地蔵尊。 貞享4年検地水帳によれば取上村には村中抱えの座王堂地と稲荷社地があり、座王堂は現在の取上3丁目の貴船神社です。 この貴船神社は明治初年には三岳堂溜池付近にありました。 当時のその付近に建立 ...

本尊阿弥陀三尊。 明治32年(1899)東京浅草から移転。 確かに浅草にあったようですねぇ。由緒等まではわかりませんでした。 木鼻や蛙股の彫りがとっても美しいです。 地蔵堂。 ポチッとクリック宜しくね♪https://localeast.blogmura.com/aomori/ ...

町名の由来は春日宮にちなんでいます。藤原氏を名乗る津軽家が氏神の春日社を祀ろうとし、信政が岩木山麓から移し、八幡宮、神明宮と共に三社を構成しようとしたものですが、社地を造成しただけで亡くなられたそうです。 津軽一統志によれば、春日宮は宝永5年(1708)に建 ...

日本基督教団弘前教会教会堂は県重宝です。 木造、一部二階建、鉄板葺、建築面積238.04平方メートル。 現在の教会堂は、明治37年(1904)焼失の教会堂に代わり、明治39年(1906)12月に完成、翌40年8月に献堂式が行われたもの。 設計は弘前学院外人宣教師館の設計者とも ...

MEDIA INN城東店から熊野宮まで歩いてみました。 堅田村はかつての和徳村地内で、羽州街道沿いに発達した集落です。道端にあった百万遍。 和泉の追分石。 「右 猿賀黒石通り」「正面 進修小学校通り」に分かれます。 標柱は擦れてよく読めませんでしたが昭和11年のもの ...

現在の住所は松ヶ枝ですがかつての和徳村地内で、高崎とその周囲の町から分離して1985年以降に成立。 創建は不詳です。 明治初年の国誌によりますと熊野宮がみえ、御祭神は伊弉那岐命、伊弉那美命、速玉男命、事解男命。 明治6年には相殿として高崎村から遷座した ...

リンゴ畑の中ですが、このように一応参道があります。 県天然記念物として、弘前市のホームページなどに紹介しておきながらも、このような広大なリンゴ畑の中にあっては、住所の掲載だけですとナビでも辿り着けないですよ。 私も最初はどこにあるか全然わからなくて、リ ...

貞昌寺は弘前藩内の浄土宗寺院の中で四ヶ方丈(誓願寺・本覚寺・法王寺)の格式を持っていました。新寺町の中でも重要な位置に配置。東の本行寺と西の真教寺の間に位置。 本尊は阿弥陀如来。もと磐城の専称寺(現福島県いわき市)末寺。寺禄60石。旧浄土宗僧録所。寺号は永 ...

勝海舟が幕末から明治にかけて住んだ本氷川坂下の旧邸跡。 幕末の古地図では氷川神社の左盛徳寺の上に勝麟太郎の文字が見えます。これは勝海舟の幼名および通称。 勝海舟邸跡の記。 「港区赤坂6丁目10番39号のソフトタウン赤坂が建つこの地は、幕末から明治にかけて幕臣と ...

標柱より。 当初は、岩木川原も含み、山師や木場人足が住むほか、造り酒屋などのある商工業の町で、人足の気性の荒さや川の氾濫から「荒町・阿羅町」と書かれました。寛文五年(1665)までは江戸への道筋で、南北の町並みを江戸町とも呼びました。 暗渠ではなく開渠がある ...

「三十八段の石段坂である。別名は天神男坂。すぐわきにある、ゆるやかな坂・女坂に対して男坂という。江戸時代の書物”御府内備考”によると、湯島神社(天神)参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道になったという。」 手摺も個性的。 ...

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