くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2012年09月

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大間越街道は江戸時代に整備され、羽州街道の檜山の手前にある金光寺追分から能代、八森を経て弘前に向かう街道。
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能代は米代川の舟運と日本海の北前船が寄航する港町で、多くの物資が集まることで重要視され、番所なども置かれていました。
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羽州街道が整備される江戸時代初期は弘前藩の参勤交代の正式のルートで弘前城の外港だった鯵ヶ沢には代官所、深浦には御仮場が設けられ、久保田藩との藩境にある大間越には関所を設置し厳重に出入りを管理されました。 
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西浜街道は現在では大部分がその姿を消しました。
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そんな状況においても当時の面影を留めている貴重な部分です。
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円覚寺を廻るように通る道。
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由緒ある円覚寺があったからこそ、現在に至るまでその姿をほとんど変えずに残ったのでしょう。
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青森県内の大間越街道。 
弘前→高杉→十腰内→浮田→鯵ヶ沢→赤石→金井ヶ沢→追良瀬→深浦→岩崎→大間越
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色々あるんですねぇ…
wikipediaより転載…
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「東大宣寺は、青森県弘前市に所在する日蓮正宗の寺院であるが、正信会の僧侶が占有・居住している。山号は法永山。
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1958年(昭和33年)9月14日建立される。開基は日蓮正宗大石寺第65世法主日淳上人。
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1982年(昭和57年)4月5日第3代住職が第67世法主日顕上人の法主としての地位を否定したため、日蓮正宗の宗制宗規に違背したことにより破門されたが、東大宣寺を占有し、居住している。
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東大宣寺は日蓮正宗の末寺である。現住職(代表役員)も日蓮正宗の僧侶(黒石市の具道寺住職が兼務)である。また、総代(責任役員)も日蓮正宗の信徒であり、土地建物も東大宣寺の所有するところである。
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ただし裁判所の第3代住職の地位保全の決定によって、存命中は東大宣寺を占有することは認められているため、何らかの理由で退去しない限りは日蓮正宗は東大宣寺においては宗教活動をすることはできない状態である。」
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御祭神は誉田別命。由緒不詳。
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社伝に依りますと創建は人皇30代敏達天皇の御代まで遡りますが伝説の域を出ません。別当は国上寺埠頭蓮性院でした。明治初年の神仏分離により移転。
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津軽郡が大津波のため入海となった際、入水を祓退けたことにより不浪寄八幡宮と称されるようになります。
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参拝者は船によって往来し、その古跡が今もあり、その時船を繋いだ所が船岡森と称され、又、碇石として天保年間(1830-1844)の頃までは柵がめぐらされていましたが、近年は石だけが残っています。
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また坂上田村麿東夷東征の際、自ら大神の尊像を彫り、堂宇建立されたと云い伝えられます。
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天正年間(1573-1592)、津軽土佐守藤原朝臣が御堂を建立し、以来度々再建修造されたといいます。
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神仏分離令により弘前八幡宮へ合祀されて、明治6年には古懸村に復社遷座され現在に至ります。
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この地が度々山津波や洪水などが起こり、まるで川が怒っている様から怒ヶ堰とも言われ、これが碇ヶ関の地名の由来になったと言われています。
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拝殿の横に十和田順礼の会奉納(昭和61年4月)とありました。
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薬師如来。
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山神宮など。
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