くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2012年08月

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山王坊日吉神社は大津市の日枝大社の末社で、朝夕の梵鐘を読経の響きが深山にこだまし参詣者の心身を洗い浄める一大霊場であったと伝承されています。
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まだまだ調査が行なわれている地なので案内版に忠実に紹介します(笑)
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っていうか境内がかなり暗いです…熊でも出そうな雰囲気。
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山王坊川が流れる山間の奥まった谷間に日吉神社が勧請されています。
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この一帯は「山王坊」とも呼ばれ、山林に囲まれた境内地は古来より霊地として地域住民に畏敬の対象とされ、大切に守られてきました。
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「山王」と聞けば、比叡山・延暦寺を思い浮かべ、神仏習合思想のイメージが強いですね。山王権現と呼ばれるのも個性的な山王鳥居も神仏習合を示しています。
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これまで①安藤氏に関する日吉神社の地、②『十三往来』に記載される阿吽寺跡の地、③南部氏によって焼き打ちされた地、といった伝承が語られてきました。
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さらに山王坊一帯からは南北朝~室町時代の五輪塔・宝篋印塔・板碑などの石造物が多く出土しており、「十三千坊」の中心地と考えられてきました。
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昭和57年~平成元年度の調査では、最奥にある丘陵中腹から奥院と考えられる方形配石墓や幣・拝殿跡、大石段(石組階段)が一直線上に配置されて発見されました。
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一方で、平坦地からは南北一列に並ぶ拝殿、渡廊、舞台、中門、瑞垣、本殿跡といった社殿跡(神社跡)として復元可能な磁石建物跡が発見されました。
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平成18~21年の調査では、西側丘陵の山際から、新たに三棟の磁石建物跡が発見されました。そのうちの一棟が南側を正面とする入母屋造か寄棟造で、仏堂などの仏教的色彩の強い建物跡であることが分かりました。
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最大の特徴は、流水(水路)に跨って建てられていることであり、自然の流れを利用した庭園を伴っていた可能性が考えられます。
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山王坊遺跡は十三湊安藤氏の盛衰と一致する14世紀中頃から15世紀中頃(南北朝~室町前期)に繁栄を極めた神仏習合を如実に示す貴重な宗教遺跡です。
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日吉神社復元図。
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仏堂跡復元図。
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NHK大河ドラマ「炎立つ(平成5年放送)」のロケを祈念し、中世の頃、奥州十三湊を拠点に栄華を極めた津軽の豪族日本将軍安藤氏が山王日枝大社(滋賀県大津市)から移入し建立したと伝承される「山王造り京風二重鳥居」を素材として平成5年3月に安藤氏の文化を顕彰するシンボル塔として建立したもの。
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案内版より。
「十三湖北岸、相内集落の北東に位置する。日吉神社が鎮座するこの周辺一帯は古来から霊地・聖域として村民に畏怖されてきました。昭和57年の発掘調査で神社仏閣の礎石跡や十三湊の繁栄と同じくする室町期の遺物が出土しており、安藤(東)氏が勧請した神仏習合の宗教施設と考えられています。」
神社跡(本殿・舞殿・渡殿・拝殿)案内板。
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「この遺跡は神仏混淆の濃厚な神社跡と推定される。本殿は前庭を持って瑞垣を回らし、前方に舞殿・渡殿・仏堂風の拝殿が南北に並ぶ。神事は舞殿、仏事は拝殿で行われ、その西方の建物は本地堂と多目的の講坊であろう。」
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宗教施設跡案内板。
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「この遺跡は大石階の北に展開しており、出土磁石などから推定し南から礼拝施設、東西二個の磁石は鳥居、最北は方形基壇を持つ中心的な建物であり、出土遺物は仏教的であることから、密教に関係する廟所や宝塔などが考えられる。さらに大石階は早くから使用中止となり埋没したと思われる。石階上の推定礼拝場所に現存する磁石と西側の磁石群は、同形大小二棟の並立建物と推定され、前方傾斜面の石階の位置から、後世になっての神社二棟の可能性もある。」
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菅江真澄がこのように記しています。
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「まもなく湯の沢という湯のわきでるところが見えた。その沢の奥に山王坊という寺のあともあった。
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そこに世間に名高い弘智法印がすんでおられ、功をとげられたのち、越後国野積という磯辺の山でさとりすまし、食べていた木の実、草の実をさえ絶って、庵の柱に「墨絵にかきし松風の音」という一首の歌を残して、岩坂というところで亡くなられたが、海雲山西性寺(西生寺)に、いまもその亡骸が生きているようにそのままある。
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弘智法師はこの里で生まれなさったのか、またこの山王坊で学問をなさったのであろうか。かの沢の奥そこに、古い石碑がころがり埋もれていたのを、近い世になって、この里のところどころに持ち運んで建てた…」
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本殿。
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本殿横の山神などの摂末社。
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富田町は松森町と文京町(富田町桝形方面)に至る道筋の細長い町です。かつては富田村の一部で、大富町、文京町、富野町、富田三丁目、豊原1~2丁目、北園1丁目、南富田町、南大町2丁目もかつての富田町。
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松森町から取上・堀越のコースと小栗山経由のコースの2つの参勤経路を結ぶような街並み。明治には第八師団の影響を受けて住宅地や職人町へと推移した経緯があります。更に昔では新町(しんちょう)と称していました。富田町は千年街道沿いの千年村にあり、猫右衛門町末の新町として町割されていたからです。寛保元年には遊女街が設けられるも風紀が悪くて1年ほどで廃止されています。寛保3年には通行人相手の茶屋開業を許可されています。元禄16年に富田町と改称されていますが、明治に至るまで「新町」と呼ばれ続けました。今でも「富田新町」という地名が時々使われており、古いタクシーの運転手などは「富田新町」と言ったりしています。
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さて、昭和後期は学生と病院の通りといった感じの富田町を懐古主義的に紹介します。松森町方面から。
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高木商店向かいは昔酒造店だった気がします。黒漆喰の大きな建物だった気がするのですが、正直記憶は曖昧です。すいません。その後はサークルK富田店、更に田中薬局隣から美濃吉が移り、ひまわりというカレー屋もでき、現在はそのひまわりのカレーを無料で食べれるラーメン屋「めんや ひまわり」です。
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この建物は個性的ですねぇ。
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この角にはパンロワールがありました(写真左)。
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ここには一時期、元祖スタミナラーメンというお店がありました。何の元祖だったのかは不明。カウンターに座るとリビングが丸見えでちょっぴり食べにくかった思い出笑
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三大小学校入口付近には鎌田内科医院(写真右の建物)や富田食堂(写真左の建物1F)もありましたが現在は建物のみ。富田食堂の焼きそばが好きでした。
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三大小学校(第三大成小学校)入口。
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入口がいきなりグラウンドです。以前はここが校舎だったんですよ。恐らく建て替える際にグラウンド側に新築し、逆に元の建物があった場所をグラウンドにしたのでしょう。だから門の先がグラウンドなんです。
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ちなみにトーテムポールはちょっぴり場所が移動していますが昔からありました。こちらの川は三岳公園方面からずっと続いています。
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小野印刷や吉川広告は現役バリバリ。
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下田ハイツ(写真左)の正面1階部分は小学生に大人気だったコゼットという文房具屋がありました。入口が残っていますね。
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その斜め向かいほどにも小さな文房具屋(写真左の建物1F)があったと記憶しています。カラフルな縄跳びがいっぱい売られていた記憶。
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ここの売地はその昔、ゲームセンターでした。チャンピオンだったかな?
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隣のテイクアウトの焼鳥屋とみしまやは健在!長いですね。焼鳥屋隣の細い川…昔は普通に水が流れていました。柴田高校の方からずっと続く川。
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ここはワインショップ佐乃助がありました。
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向かいの丁字路角には富田温泉がありましたが今はアパート。
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こちらは健在!イタリー!いい店です♪
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磯野小児科医院。
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ここには豊田外科胃腸科がありました。
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ラッキーランドリー富田店の建物。現在は営業していません。
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ここは昔マルエススーパーチェーン富田店でした。マルエスの頃は賑わっていました。コンビニもない時代でしたからねぇ。
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スーパーだった名残りは建物サイドのデザインに残っているだけです。こちらは鍛治町に残るマルエスの建物ですが…
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赤と緑の2本線がマルエスの名残りなんですね。
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こちらの入口は隣接するパン屋への入口。かつてはアーケードがあって、店内はマルエスに繋がっていました。工藤パンだったかな?
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その隣がすみれ荘。ここには富田進学スクールもあった気がします。
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塾の名残りはありませんがマルヨシの看板がありました。
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この角のコーポトミタにも栄光進学塾がありました。横の小路の突き当たりは弘前学習塾でした。多くの学生が通る道って感じですね。
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ブックマックスの建物が未だに残っていました。学生の多い町なので当時は結構人気があったイメージです。
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本だけではなく、文房具等も揃っており、レンタルCD・ビデオも人気でした。入口にセブンティーンアイスの販売機がありましたね(現在は道沿いの販売機ゾーンに移動)。裏手には大盛激安で学生に人気の満来がありました。誰がやっているのかは知りませんが、敷地内の植物は今でも綺麗に手入れされています。
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ブックマックス向かいには取上に移転した三升屋があり、建物だけは残っています(未だに取上に移転との貼り紙がありました)。十三湖のシジミを使用したラーメン屋は現役…でも営業時間が短すぎません?(笑)
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福原商店の向かいほどに軽食喫茶フリーハウス・ユー。
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長内医院。
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こうやってみるとかつては本当に病院が多い通りでしたねぇ。長内医院の向かい付近にファミコンサービスショップ富田町店がありました。
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ファミコンが数台設置され、好きなソフトを確か時間制で遊べます。
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お店のシステムに問題があって廃業したとの噂を耳にしたことがありますが、子供たちにとってはゲームセンターよりも良心的な値段のお店だったと思います。ファミコンって当時は貴重でしたからね。三叉路角には確か靴屋がありました。
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交差点の角にはおやつショップがありました。おかしを食べているコアラの絵が描かれていたよね?
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今はビリビリに破けてしまった看板と入口に僅かにその痕跡を残します。
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どうぞって書いてますが入ったらダメですよ(笑)
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その向かいは塾が入れ替わり立ち替わりしていますが昔はみずき書店。学生たちの立ち読みオアシス。ジャンプ・マガジン発売日には激混みです。
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こちらの正面(ユニバース看板の場所)にはたつや食堂がありました。右折して富野町のサイクルハウスさいとうを過ぎたところに「ぼくの店」という人気プラモデル店なんかもありましたね。
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下の写真の茶色の建物にはみずき野がありました。店主さん夫婦がとてもいい方で、値段もリーズナブルだったので閉店がとても残念でした。
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更に昔に遡るとこの場所にはレコード店か何かがあった気がします。記憶が曖昧。屋根に50cmほどの鉄腕アトムか何かの人形が立っていたことだけは覚えています。その後はナイス堂かな?今のルパン三世の下はこがねちゃん弁当でしたね。こがねちゃん弁当の前はパン屋だったような。
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更に向かいの東信側には洋酒のタンドウと時宝堂がありました。
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タンドウの看板が残っています。
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こんな看板も残っていました。
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この裏手にはぶんぷく茶釜(健在!)と千代の湯。ちなみにぶんぷくの向かいはライダーズクラブ弘前(現キオラ)。
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千代の湯は現在ぶんぷく茶釜と美容院の駐車場になっていますが、このトマソン的原爆型ダンメンは千代の湯の名残りかも知れません。
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種里八幡宮の創建は大永3年(1523年)大浦光信が勧請したことに始まります。
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御祭神は誉田別尊、大己貴命、宇気母智命。
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神官には奈良主水貞親があたり代々奈良家が祭祀を司っています。
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大浦光信は後の弘前藩津軽家の祖と言われた人物で、死後神格化され慶長2年(1597年)に光信の御霊が種里八幡宮に合祀されると歴代津軽家に庇護されます。
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非常に津軽家の歴史と関り深い神社です。
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壊れた灯籠と鳥居の跡。
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実は2012年4月4日の爆弾低気圧による暴風が原因でトドマツが倒れ、鳥居が損壊したのです。
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参道両脇に立つ杉の大木が非常に情緒深いです。
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狛犬。
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こっちの狛犬かわいい♪
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末社稲荷宮、庚申宮。
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拝殿内。
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鯵ヶ沢町指定文化財案内看板より。
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「縁起」…大永3年(1523年)大浦光信公が創建し、奈良主水貞親を神官に命じる。
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有形文化財「種里八幡宮神社宝物」昭和56年4月20日指定。
「棟札三枚」
津軽為信公から寄進されたもの。
「獅子頭一」
津軽為信公から寄進されたもの。
「身正体(懸仏)二」
奈良家の初代奈良主水貞親が奈良の国から身につけてきたもの。
「滋藤の弓一」
津軽為信公から寄進されたもの。
「鏑矢二」
津軽為信公から寄進されたもの。
「天然記念物杉六本」
昭和62年8月20日指定。樹齢約380年経過。
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菅江真澄が『雪のもろ滝』にて、「為信が同社を雪中に参詣した際、石のほら貝、鯰尾槍(ねびほこ)を踏みあて、石貝を吹き音が出れば戦勝と祈願し、勝利をおさめたので神宝として寄進した」といった記録が残されています。
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